今日のタイトル、どういう意味かって?
それはね、本当の自分に対する態度であると同時に、子どもに対する態度のこと。
私は小学生の母親と教員に会うことが多い。それはすでに何度も触れました。私は日々、本気を陽気で楽しくやってます。それで、愛着障害だらけの今どきの日本、学校教育は事実上崩壊してますから、学校では、最初に戻って子どもの発達をやり直さない限り、教育は無理です、という毎日。
「教育は無理」と学校で言うキツさ。
でも、そのことを言いたいわけじゃぁない。
愛着障害の子どもは、愛着をやり直すしかない。エリクソンの言葉で言えば、根源的信頼感をやり直すしかない。愛着、ないしは、根源的信頼感を育むためには、母親の献身が必要でしたね。でも、今更おっぱいを挙げる訳には行きません。でも、母親があかちゃんに献身してやっていることを、小学生にはできる。どうやって?
母親の献身。おっぱいを挙げるのでも、オシメを取り換えるのでも、あやすのでも、毎日毎日、一刻一刻、繰り返すでしょ。その繰り返しの間に、一定のパターンができます。そして、赤ちゃんが泣けば、やれ「おっぱいね」、やれ、「寂しかったのね」などとあ母さんは赤ちゃんに話しかけますね。そして、実際おっぱいを挙げたり、親したりしますね。赤ちゃんもその繰り返しの中で、おっぱいを貰う前に、あやしてもらう前に、どのように世話をされるのかの≪見通し≫≪イメージ≫を抱くようになります。繰り返しの中で、その≪見通し≫≪イメージ≫と、母親が話す≪話し言葉≫、それから、実際の世話という≪出来事≫が一致してきます。そして、≪見通し≫≪話し言葉≫≪出来事≫が結び付いていきます。
この3つを一致させるためには、通常、≪約束≫が必要です。≪見通し≫を≪話し言葉≫を用いて共有し、それを2人で≪出来事≫にするのが、≪約束≫だからですね。
愛着障害の子どもは、この≪約束≫に基づいた関わりが必要です。子どもが望んでいることを大人が共有する形で≪約束≫することです。その繰り返しによって、愛着≒根源的信頼感をある程度回復できます。
そのことを毎日のように、愛着障害のある子どもの母親や教員に話、実践してほしいと伝えます。それをやるには大人の≪本気≫が問われます。
時間をかけても≪本気≫になれる人、はじめっから≪本気≫の人もいますね。ありがたいことです。
逆に時間をかけてもなかなか≪本気≫になれない人、はじめから「それは無理」と決めてかかる人もいます。
その差は何かな?
それはね、結局、自己内対話の有無。
「何のための生まれ、何をして生きるのか?」の問いを何時も何度でも問う人は≪本気≫になれます。
でもね、「何のための生まれ、何をして生きるのか?」の問いを問うのを止めちゃってると、「それは無理」になっちゃいます。
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