信頼は、力で相手を操縦したり、コントロールしたりすることを止めにして、その場に踏みとどまることや、待つことに、心を配ることになります。
p116の15行目途中から。
力を当てにすることは、未来に見通しを持つのに、確実に手元にある現ナマしか当てにしない、ということなんですね。でもね、力を当てにすることは、人間にはポテンシャルがあるし、また、人間は発達する、ということを見落としている点で、大なる勘違いですし、大いにばかげています。力を当てにすることに、理にかなった信頼なんぞ、全くありません。力に従属することやら、力のある人は、力を維持したいと願う願いやらはありますよ。多くの人にとって、力はすべてのものの中で一番実感のあるもののように見えるけれども、人類の歴史を見れば、人類の成し遂げてきたことの中で、力が一番当てにならないをだと分かります。信頼と力は水と油ですから、もともとは、合理的信念に基づいている、あらゆる宗教団体、あらゆる政治団体でも、強さを失うことになるのは、その団体が力に頼ったり、権力と結託する場合なんですね。
力=支配=操縦=モノ扱いです。力のあるところでは、関係が上下関係、支配・服従の関係になっちゃう。
その逆は、信頼=やり取り=自由=人間扱いなんですね。人は自由の中で人間として認められて、初めて自分の値打ちに気付くことができるからです。
ですから、力が支配するところには、信頼は、かけらもありませんから、教育や福祉や医療は成り立ちませんでしょ。
教育や福祉や医療などヒューマン・サービスにおいては、何よりも信頼が大事です。
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