「悪い良心」ほど恐ろしいものはありませんね。私は、悪魔とは、この「悪い良心」に「人間を上下2つに分けるウソ」が入り込んだものだと、確信しているくらいですからね。
p361の9行目途中から。
「悪い良心」を少しは癒すためには、精神分析の治療が、忘れてしまっていた、心の奥ソコにある、子どもの頃のことで、しかも、神経症の苦しみの根源的な原因になっていることをまず明らかにして、その次に、人間のポテンシャルがピカリと光る宝物であることをハッキリと示すことに開かれていかなくてもなりません。そのことが分かれば、今まで見てきたように、イエスが子どもについて語った言い伝えに、ハッキリとした意味があることに気づかされます。そしてここにこそ、人生の大人の舞台にとって、アインシュタインという子どものような科学者が、世界の中に、「スピノザの神」の中に、どう生きていけばいいのかを生きる指針、オリエンテーションを≪私≫が探し出すときの「お互い様」の中に、深い宗教的な信念を抱いていたことも分かります。「お互い様」は、ここでは、≪私≫は、光一杯の心の眼と象徴的に同じことですが、何世紀にもわたって伝えられている言い伝えに中にあることが分かります。それは、マイスター・エックハルトが「私どもが神を見る眼は、神が私どもを見る眼と同じです」といったことと通じることです。
「お互い様」という、日本人にとってなじみ深いことに、もう一歩深い意味が隠されていることが分かります。「神様」を厳しく人を裁く存在だと見る「眼差し」があると、実際に、「神様」は人を実際に厳しく裁く「眼差し」を私どもに向けることになります。逆に「神様」は慈しみ深い寛容な存在だと見る「眼差し」があると、「神様」は慈しみ深く寛容な「眼差し」を私どもに向けてくださいます。
「神様→私」の眼差し=「私→神様」の眼差し
お互いさまには、こういう意味もあったんですね。
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