≪いまここ≫を生きるために、過去への囚われから自由になる必要があります。その意識的な試みがまさに、フロイトの精神分析とその方法である自由連想だった、と言うのがフロムの明確な主張です。
p343の最後の行から。
それから、私どもの第2の関心を追い求めるために、フロイトは「≪私≫という感じ」について、何と言ってたか? フロイトは科学的な心理学を探究するにあたって、人間が古くから持っている魂への求めという脇道に入り込むのは良そうと願ったのは確かです。魂への求めは、すぐに、人間の自己幻想の「自己愛的」な中心になっちゃうことがあまりにも多いんですね。フロイトが集中したのは、生育歴(個体発生)においても、人類史(系統発生)においても、否認され、抑圧された人類の大きな傷となったものを、心に呼び戻すのに役立つ手段でした。それからまた、フロイトは、彼が人間の Ich ≪私≫と呼ぶもの強調しました。それはドイツ語でI ≪帆私≫の意味ですが、英語に翻訳する際に、いつも(時にはクエッションマークを付けながら)、「ego エゴ」と訳されています。そして、エゴとしての≪私≫は、主たる部分は、経験を無意識裡に心の中でまとめる機関になります。そのまとまり次第で、その人の適応や正気が左右されます。この「エゴは心の過程に、時間的な秩序をもたらし、その心の過程が現実検討するようにします」。したがって、エゴがその活動を滞らせた場合、洞察によって回復しなくちゃなりません。でもその洞察はどこでやるの? フロイトは注意深く言います。「このエゴ(この≪私≫に)に、意識はぶら下がっています」と。この(意識や洞察と言う)現象は、「エゴの端っこ」にあるんですね。
意識や洞察は、エゴの中心にあると考えがちでしょう。ところが、実際は、エゴの端っこにあるんですね。
経験をまとめているのは意識の中心じゃない。意識の端っこにある≪私≫なんですね。
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