2016年 初日の出 皆様にとっても、善き年となりますように!
精神分析は、人格的真理を担当しない?本物の癒しこそが、ワーク・スルー。米沢興譲教会の田中信生先生の言葉で言えば「何があっても、大丈夫」。なぜなら、状況に左右されない「突き抜けた悦び」があるからな...
本物のセラピストになるためには、クライアントの魂の親になることが必要です。クライアントの魂の親になるためには、感情転移と対抗感情転移の妙を、体験的に実感していることが、さらに必要です。でもね、感情転移のことを教科書で読むように、を頭で知るだけでは、とても対応できないものですよ。知的に捉えただけでは、無意識の暴力の圧倒的な力に、マンマと、飲み込まれちゃいますからね。体験的な、実感を伴うリアルな理解が、是非とも必要ですねっ。
The lie cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』の第4章、「自我と人品 : 結びの覚書」p103の、9行目の途中から。
フロイトが、治療の場では感情転移と対抗感情転移のやりとりを、一番大事にしようと、革命的に決心したことから、精神分析は、人間の経験にある「発達上、あるいは、歴史上の相対性」を研究するための一番大事な研究法、しかも、臨床的で「応用的な」研究法となりました。しかも、このような研究法だからこそ、「人間って何物?」という普遍的な問いに、確かな答えを出せる研究法にもなったんですからね。
結論に向かって、エリクソンの筆が冴えるところですね。普通の学問ですと、「人間とは何か?」という問いには答えません。普通の学問という場合、科学的学問ですね。
ところが、「人間って何物?」という目的論的な問い(何のために生きるのか?というような存在の意味や目的を問うもの)に応えるのは、基本は、神学と神学から派生した哲学が担当します。そして、そこで問われるのは、科学的真理ではなくて、人格的真理ですね。心理学、特に臨床心理学は、科学的真理を含むのはもちろんなんですが、人格的真理を中心にする学問であることが、今日のエリクソンの議論を読むと、ハッキリ分かりますでしょ。
善い、初日の出でしたよ!
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