「発達トラウマ障害 Enpedia」
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(Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業,です】が施されています)
をご参照ください。
Childhood and Society p.78から、今日はp.79、第2パラグラフ、9行目から。
第2の舞台で,第2の生き方(分かって、飲み込むこと)が、最初の場で当たり前になります。このように舞台Ⅰから舞台Ⅱへの対角線上の前進は,上向きで、右(正しいこと)へと向かいます。ここで前進とは、子どもの生きる力が、2番目に心響く生き方に力を与えます。2番目に心響く生き方は,いのちが一巡する中では,人と関わる新しい生き方、取るのを身に着けることになります。新しい舞台は、新しい身体部位とその働きを始めるためにあるんではなく、ますます水入らずで、ますます2人がピッタリと、心響く生き方を身に着けるため、人との間におられるキリストを、聖書の神様が示すパラダイスを共に生きるため、にあります。
でも、この心響く生き方を身に着ける前進が妨げられ、急かされ、立ち止まらされたりしたら、どうなるんでしょうか? 心響く生き方を身に着かない血迷いが、横の関係でも、縦の関係でも、心の地図にあります。横の関係の血迷いは(Ⅰ₁~Ⅰ₂)は、続きの舞台に急かせ過ぎることに応じています。赤ちゃんの口は、落ち着いて飲み込めず、きつく口を閉じてしまいます。縦の関係の血迷い(Ⅰ₁~Ⅱ₁)は、満足できるやり方にしがみ付くことに現れます。横の関係の血迷いは,結局、いつも「ケチな」やり方に囚われることになります、つまり、様々な身体の動かし方でも、最初のケチな快感に拘ります。縦の関係の囚われは,「欲しがる」生き方に囚われることになります。つまり、様々な身体の動かし方で、欲張りになるんです。ケチがいつも「欲し」がります,口も五感も欲しがるし、他の口も手も態度も欲しがります。この種のケチは、のちのち、あらゆる生活部面に沁み渡ります。
しかし、この舞台では、一番心優しいところでも、赤ちゃんがトラウマを避けて通ることができません。第2の舞台は最難関なのは,赤ちゃんは幼すぎですし、この舞台の困難が多方面に渡るからです。第2の舞台が最難関だと呼んだのは、内的な促しが創造の展開となること、腑に落ちて分かる力、歯が生えること、歯が生えるのが離乳や母子分離の時期と重なること、です。お母さんは仕事に戻ったり、また妊娠したり、仕事復帰と妊娠が重なったりしますしね。
第2の舞台が最難関なのは、赤ちゃんの世界に「善」と「悪」が入るからです。第1の舞台の、自分自身と人間を根源的に信頼する信頼が揺り動かされなければの話しですが。根源的な信頼を揺り動かすのは、繋がりを失った中で生じ、いつでも湧き出てくる、激しい怒りともうダメだという想いです。もちろん、赤ちゃんがどう感じているのか知る人は不可能ですが、それは、歯が「内側から穴が開く」のと似ています。虫歯になると、それまでは歓びの場、歓びの中心だったのに、歯のせいで緊張したり痛かったりすることから来る自分を傷つけるのが嬉しいマゾは、強く噛み締めることだけが楽にしてくれるものです。強く噛み締めることだけが、緊張や痛みを和らげることは、育つ時に人との間に本音(裏)と建前(表)を作り出してしまいます。と言いますのも、オッパイを挙げているうちに、赤ちゃんの歯が生えて噛むことができるようになると、オッパイを貰う時に噛まないようにしくなちゃいけません。お母さんが、噛んだら痛いわ、噛んだら頭にきちゃうわ、と言って、オッパイを引っ込めない為です。クライエントの寄り添う仕事をしていて気付かされるのは、諸悪の根源たる上下2つに分けるウソは、赤ちゃんの時期に始まる、ということです。諸悪の根源たる上下2つに分けるウソがあると、乳首をかじる歯に対する激しい怒り、目の前に居ない母親に対する激しい怒り、激しく怒ってもどうにもならないことに対する激しい怒り全ては、イジメたり、イジメられたりするのが善いと錯覚した人達が、人に強制したり強制されたりすることになるんです。お母さんと一心同体に成ることをぶち壊しにしたのは、自分だ,という創造をぶち壊しにする強烈な悪影響を生涯残すことになります。
この赤ちゃんの大津波は,自分自身との関係の中と、周りの人の関係の中で起きることですが、人生の中にある、聖書の楽園喪失の物語です。聖書が示す楽園喪失では、アダムとイヴは、眼の前にあるものを、難なく思い通りに受け取るのが正しい、という生き方を奪い取られたんです。アダムとエバは、禁じられたリンゴに嚙り付いて、聖書の神様を怒らせてしまったんです。禁じられたリンゴは、深くてみんなのことを指摘していると理解しなくてはなりませんし、禁じられたリンゴは、赤ちゃん時にお母さんと一心同体に成ることは、深い満足をもたらす一体感だ、ということを示しているに違いありません。深い満足をもたらす一体感は、人が心優しく安心して育つ中で「悪意」に晒されていますから、深刻にならざるを得ません。
最初の口の舞台に関して、私どもがお話しする互いに大切にし合うこととは、赤ちゃんが物事を受け止める具合と、お母さん(子育て)が赤ちゃんに物事を挙げるやり方がシックリ噛み合うことです。しかしながら、様々な舞台で、激しい怒りと痛みが広がらざるを得ない場合,互いに大切にし合うことが、互いに相手を満たし合うことによって、ビッタリ一体になることになりません。歯が生えたことに対する激しい怒り、筋の凝り、便が上手にできないこと、ものを零す失敗などは、全て、内的促しが強すぎて、上手くいかない場合です。親たちも子育ても、幼子が心の小悪魔(訳注:心響かせてくれない母親・大人に赤ちゃんが自分の実感を捨てて合わせること、小説984と同じ)に出会うことを利用し付け込むのは、自分らの都合を子どもに強制するためなんです。
うまく描いていますよね。
この付け込みと強制のない子育てをしたいものですね。
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