書くことで、自分が無心に欠ける場合がありますね。それはもう自分が書いているようで、自分を超えた何者かに書かされている感じになる場合があります。それは一種のトランス状態で、深い内省に通じます。
ヴァン・デ・コーク教授のThe body keeps the score : brain, mind, body in the healing of trauma 『虐待されたら、意識できなくても、身体は覚えてますよ : 脳と心と身体がトラウマを治療する時どうなるか?』の第14章 Languare : Miracle and Tyranny「言葉 :奇跡も残虐も(、もたらすもの)」p.240の、ブランク後の、第3パラグラフから。
自由に書くこと(フリー・ライティング)と呼ばれることをする場合、自分の連想の流れに入るための、自分専用のロールシャッハテストとして、何でも使えますよね。単純に、最初に心に浮かんだことを書いていくのです。目の前にある物を見て、途中で止めたり、読み直したり、訂正したりせずに、見続けるんですね。カウターの上の木のスプーンが、おばあちゃんと一緒にトマトソースを作った思い出の引き金になるかもしれません。あるいは、子どものころに打たれたことを思い出すかもしれません。代々受け継がれている急須を見れば、当て所なく、亡くなった大事な家族のことまで思い出すことになるやもしれませんし、愛憎相見える家族のお休みのことを考えてしまうのかもしれませんでしょ。イメージがすぐに立ち現れるや、記憶が蘇って、それが言葉になります。何でも紙の上に示されたことは、あなたならではの思いを、ハッキリと示すことになる訳です。
面白いですね。思いのまま、気の向くままに書いていく。フリーライティング。連想が連想を呼びます。横道好き、脱線好きの私のブログも、このフリーライティングですね。私に示された使信を皆さまにお伝えしますと共に、自己確認をしていることになる訳ですよね。
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