エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#日常生活の中で礼拝すること ≠ #神経症(#不安障害)!? #驚き感嘆したことを科学すること

2013-07-27 01:37:10 | エリクソンの発達臨床心理

 

 日常生活の中で礼拝することには、「不思議な感じ a sense of wonder」を排除するのではなく、包み込む「神話の知」、物語が必要みたいですね。

 最近、毎回載せている““をご覧になって、「不思議な感じ a sense of wonder」を感じませんでしょうか? その形、その色、ミツバチなど他の生き物と「共にある」感じ、季節になると、だれが見ていなくとも、だれに誉められずとも、必ず咲く姿の立派さ、などなど・・・。

 もっと、「不思議な感じ a sense of wonder」を実感したいと思うのであれば、実際に森に出かけましょう!  あるいは、レイチェル・カーソンの本  A sense of wonderをじっくり読んでみてください。 英文の方が、本が大きくて、写真もいいと思います。上遠さんが翻訳した新潮社の『センス・オブ・ワンダー』でも構いません。

 

 

 

 

 ユーロック・インディアンの「文化やパーソナリティ」(かつてはこのような調査研究で、最も大事な言葉でした)で「強迫的」と呼んでもいいもの、私どもの文化圏では神経症の人の「儀式」に匹敵するものは、たくさんあります。私が『子どもの頃と仲間たち』(みすず書房版では、『幼児期と社会』上・下巻)の中で指摘しましたように、このような行動は、よくよく観察したものに魔法のような影響力を持ちたいという,日常生活の中で礼拝はる試みとして意味があるのであって、もちろん、複雑な、サケの自然史を理解したのではありません。ですから、私どもの意味で日常生活の中で礼拝することは、神経症の症状では決してありません。そこでは、日常生活の中で礼拝するのおかげで、人間は、1つの限られた、自然と科学技術の場にある、1つの文化圏において、自分の様々な持ち味を組み合わせて、ひとまとめにした行動を作り出すことができるのです。このように日常生活の中で礼拝するのは、自然界にとっても、世間の人々にとっても、中心と思われる、適応するためのやり取りとして役立つ訳です。このやり取りは、日常の中で繰り返されているうちに、単に社会的に強制されたこと法律を守っているだけのこと、といった通説になりやすく、文字のために精神を犠牲にする取引に従うだけになりがちであることは、間違いありませんが、これは、社会病理に関することで、後で取り上げます。

 

 

 

 

 よくよく観察したものを、合理的に知的に理解することはとても大事なことでしょう。しかし、エリクソンも言うように、サケの生態のように科学がよく分からなかったことともありますし、ウナギの生態のように、今でも科学ではよく分からないこともあります。科学が全てを明らかにしてくれる訳ではありません。また、合理的に説明できることでも、それだけでは納得できない、腑に落ちないことだって、ごまんとありますよね。実際、生死に関わることや、こころとからだの結びつきなどは、まだまだ科学が及ばないところであり、合理的説明だけでは納得できないことではありませんか?

 

 ですから、科学では分からないこと、科学で分かっていることでも、単に合理的に理解するだけではなくて、よくよく観察したことはすべて、同時に不思議を読み取り、それを<私が生かされている実感>を確かにすることと、結び付けていくことが必ず必要な訳です。それこそが、日常生活の中で礼拝する目的ですケプラーやアインシュタイン、湯川秀樹や白川英樹氏など“本物の科学者”は、そういった自然界をよくよく観察し、自然界の不思議をよくよく知っていたのではないですか? そして、この自然界の不思議に感嘆しつつ、その不思議の感動科学的合理性の中でハッキリと形にして見せた、と言えるのではないですか?

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