エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

赤ちゃんの世話を重荷ととらえるのか、喜びとするか? 金子みすゞも

2013-03-27 03:02:21 | エリクソンの発達臨床心理
 本田圭佑さんの「プロフェッショナル」良かったですね。「一流」と言われている人には、やっぱり、それだけの「心の習慣」があることが分かって、僕自身まで嬉しくなりました。

 それでは今日は、エリクソンのToys and Reasonsより、Ritualization in Everyday Life に戻りましょう。今日は第5段落です。赤ちゃんの世話は果たして重荷なのか? それとも喜びとするのか? です。

翻訳開始!



 赤ちゃんが毎日起きている間は、とても大きな負担であることを、以上のことは示しています。実際、儀式化の発達段階の全体の流れをよくよく見ないと、この赤ちゃんに対する欠くことのできない世話の一覧を、納得できないでしょう。しかしながら、精神病理学は、この赤ちゃんの時の負担が、いかに価値あるものかを教えてくれます。私どもが、生育歴を見て、「あっ、これは赤ちゃんの時期と関連するな」と感じる心理的課題のすべての中で、最も深刻で、津波のように根こそぎにダメージを与えるものは、(有名な心理学者のスピッツやボウルビーも示しているように)お互いの価値を認め合い、希望を抱くという光が、自閉的で精神病理的なあきらめの中で、赤ちゃんの時に失われることなのです。なぜなら、赤ちゃんの時にいくら価値ある存在ですと認められても、儀式化を通して繰り返し安心感を与えることになる経験そのものが、実は、日々成長している赤ちゃんに対して、一連の憎しみにもさらす事実を目の当たりにする時、繰り返し価値を認め続けることが、すぐにでも、大いに必要になるからです。こういった消極的なことも、発達段階を今後扱う中で、明確にしていかなくてはならないでしょう。この最初の赤ちゃんの段階で、離れ離れにされ、見捨てられたと感じたことを、その後の親しい関係やややり取りの中で、その子どもをいくら繰り返し価値があると認めても、完全に克服することは難しい、と申し上げておきます。他方、赤ちゃんの時にかすかでも「あなたは価値がある存在ですよ」と認めておくこと、神聖な存在を感じるこの感じは、人類が儀式を作り出すことに対して、ヌミノースと呼ぶことが最も適切な、普遍的な要素を与えることになります。このヌミノースの名称を言えば、私が赤ちゃんの時から死ぬ時までたどろうとする意図がお分かりでしょう。実際、ヌミノースとは、あらゆる定期的な儀式にある信仰的要素で、必須の視点であることは、私どもも認めています。しかしながら、あらゆる慣習の中で、組織だった宗教の慣習ほど、ヌミノースに責任を持つことを強く要求するものはありません。信頼する者(信じる者)は、適切な身振りをすることによって、自分が頼りにしていることと、子どものように信頼して(信じて)いることを告白し、また、ほどほどに献金することによって、神様のちょうど胸のところに抱き上げられる特権を確かなものにしようとします。神様は、微笑みをたたえ顔を傾けて、親切に応答して下さる、と見られているのかもしれません。私たちは、ヌミノースのおかげて、「離れていても絆がある」し、「違っていてもいい(価値がある)」と信じることができるし、「<私>という感じ」の土台も、このように信じることができます。すべての人を慈悲深く抱きしめてくれる「私はいまここにいる」と御自分のことを呼ぶ神様を、共に信頼する(信じる)気持ちを分かち合う、「<わたし>」と自分のことを呼ぶすべての人々が、お互いに価値を認め合うことによって、「<私>という感じ」は日々新たにされます(と感じられます)。



 
 以上が第5段落のすべてです。
 エリクソンは、赤ちゃんの世話が重荷と言っていたでしょうか?それとも、赤ちゃんの世話を喜びとすると言っていたでしょうか?


 赤ちゃんの時の根源的信頼感(基本的信頼)が、自分自身=<私>の土台であること、その<私>は、神を信頼する人たちがお互いに認め合うことを通して、常に新たにされなくてはならないことが示されていましたね。また、根源的信頼感(基本的信頼)の中身は、私は(赤ちゃんは)お母さんと「離れていても絆がある」し、私は(赤ちゃんは)お母さんと「違っていてもいい(価値がある)」と感じることだということも、示されていたかと思います。
 根源的信頼感(基本的信頼)とは、そういうことなのね、ということが分かると、金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」という詩を思い出した方もいたかもしれません。次にそれを示しておきますね。

    私と小鳥と鈴と

   私が両手をひろげても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地面を速くは走れない。

  私が体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  たくさんな唄は知らないよ。

  鈴と、小鳥と、それから私、
  みんなちがって、みんないい。

 詩に解説は蛇足であるのはもちろんですが、敢えてそうすることを許していただければ、この詩も、根源的信頼感(基本的信頼)の、少なくとも半分をはっきりと示しているからこそ、人の心を打つのでしょう。

 今日はこの辺で。



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