「発達トラウマ障害 Enpedia」
① EnpediaをGoogle検索
② 「Enpedia内の検索」で「発達トラウマ障害」を検索
の二段階の検索が必要です。
(Google検索では、「発達トラウマ障害」は検索しにくい操作【おそくら、内閣府情報調査室の仕業,です】が施されています)
をご参照ください。
Childhood and Society から。p.61の第4パラグラフから。
今朝は,p.69,12行目から。
たとえば,依存症の人たちは,赤ちゃんだったころの自分がしたみたいに,身体も満たされ,気持ちも元気になる様々な物を、口と肌で,取り入れて,その物と一体になることに依存しています。ところが,依存症の人たちは、喉から手が出る程,赤ちゃん返りを願っている、なんてことにはひとつも気付きません。依存症の人たちが,駄々をこね、鼻持ちならないことを自慢し、文句を付けるほど、それとは裏腹に,赤ん坊じみた魂が、ハッキリと表に出るだけなんですけどね。
逆に,双極性障害(躁鬱病)の患者さん達は,何の望みもなく,空っぽで,物で満たすこともありません。つまり,ぶち壊しにしなければ,と思うような,悪い者や敵で満たすこともありません。あるいは,不意に良い気分が充満しますから,力が湧いてきて,元気モリモリになる気分が際限なく広がって,「そこまでにしておいて」という人の意見を受け付けなくなります。しかし,躁鬱病の人は,下に立つキリストも知らなけれは,良くも悪くも内的促しがどこから生まれてくるのかも知りません。
ヒステリーの人達は,もしも,女性であれば,まるで,奇妙に物に付け込まれ,攻撃され,拒まれているようなのに,しかも,物に取りつかれているようでもあります。子どもを孕んだこともないのに,分析してみると,その女性が当て買われた最初の役目を示す出来事を孕んでいるんです。ヒステリーの人はその最初の女(男)性の役割に取りつかれているんですが,ただし(なぜなら),その最初の性役割は,はるか昔の子どもの頃にある,受け止めきれない体験になっています(から)。
こういったとても辛い思いをしている人達全ては,それが依存症でも,うつ病でも,気持ちを言葉にできない人でも,幼い頃のどこかの時を生かすことができませんから,幼稚な真似から自分を守ることになりますが,その守り方は頑固で,骨折りで,結局はうまく生きません。
たほう,繰り返し押さえつけて,お務めをさぼる,道を外れて病んだ,それぞれの人には,真実な関係を外れるのに相応しい共通の悪い相手がいます。元々の赤ちゃんの時のパターンからはかけ離れているけれども、口で感じた刺激か,口に貰った刺激から感じ取った性的に完璧に満足する喜びを得ようとする大人がいますでしょ。自分がセックスする時に入れる穴の中で,お尻好きの人も居ますでしょ。それに,性器を覗いたり,自分の性器を見せびらかしたりしたい罰当たりも居ますしね。また,衝動的に,しかも,手当たり次第に,他の人間を,単にイジメる「嬲り者」にするためだけの存在にするために,性器を使いたい輩も居ます。
心病む人が無意識に望む性行為と 道を外れた者たちがあから様にやる行為の間に,相補的な関係があることを少なくとも理解していたので,フロイトさんは,スピリチュアルなエネルギーの宮を立ち上げることに前進したのです。ですからね,「スピリチュアルなエネルギーであるリビドー」は,半人前の2分の1エネルギーでして,この半人前の2分の1エネルギーは,子どもの時期に,性器以外の身体の周りにあって,食べ物を口に入れたり,お腹の調子を整えたり,手足を動かしたりすると,聖書の神様のいのちの分け前を、その時特有の気高い歓びで,気高い一人前のシャローム平和の歓びにしてくれます。半人前の2分の1エネルギーのリビドーを,子どもを作ることができない時期に,用いた後になって初めて,子どもの半人前の2分の1性は,ささやかないのちが息づく子どもの創造性へと,上手に発展していきます。ささやかないのちが息づく子どもの創造性が,すぐに大なり小なり,《目には見えない》ようになりますし,形も変わりますし,捻じ曲がってしまいます。と申しますのも,子どもの創造力は,まだ半人前だからです。それで,半人前の2分の1の願いの最初に相手をしたモノは,近親相姦禁止という世界の定めのゆえに,永遠に禁じられてしまっています。
子どもができるようになる前にあった願いの残り物については,全ての子育ては,ある程度まで,創造するわけではない,2分の1遊びを許してくれますが,この2分の1遊びは背いた迷いと呼ばれます。ただし,2分の1遊びが,創造主である聖書の神様の支配(訳注:聖書の神様のいのちが一巡する結界)をハイジャックし,追い出してしまいがちです。子どもを産めるようになる前のスピリチュアルなエネルギーであるリビドーの大部分は,しかしながら,「気高くされ」ます。すなわち,半人前の目的から一人前の目的に回心します。身体の中に隠されている「お母さんの本音」に敏感な子どものアンテナの割り当ては,人が教えや試練の “間” の下に跪きたいと願う願いを強めてくれます。あるいは,子どもは「英知の乳」を吸収するのに熱心ですし,その「英知の乳」にあっては,もっと本音に敏感な大人の器から,「なるほど本物だ」と,人智を超えているのに,手に取って分かるスピリットを頂きたいと願ったんです。あるいは,また,子どもは,自分の腹に詰め込みすぎる代わりに,心から優しい聖書の神様の器(訳注:空)の中で,心から優しい出会いを1つにしてシャローム平和にしてくださいと祈っているんです。子どもができるようになる前の身体の時期は,発達し,気高くなり,あるいは,2分の1遊びを入ってもいいと認められるんではなくて,押さえつけられている心の向きの中に,フロイトさんは,生きる元気が萎む一番重たい源を見て取りました。
もちろん,一番上手に子どもを気高くすることが,子育ての心の向きの割り当てですし,子育ての1つなんですが,1人から始まるものと思われません。1人が夢中になることが,血を流すほどの努力,賛成する人がほとんどいないこと,本気の3つを伴う場合だけ,大人の中にも,子どもが夢中になる時にある「断ち物」の元が「なるほど本当にあるなぁ」と分かります。この点で,子どもを気高くすることは,離れ離れに成るギリギリの崖っぷちにあるものです。ですからね,子どもを気高くすることは,初めは恐らく物足りない感じです。ここでこそ,フロイトさんは,ヒーラーとして,ヴィクトリア朝の批判者になりました。フロイトさんが結論として言ったのは,共に暮らす者達は,あまりにも盲目的に独裁的に,自分の子ども等に対して,気高くなるという,とてもできない偉業を強要する,という事でした。大事な半人前エネルギーは,聖書の神様からのギフトの一人前の生かされている実感に気高く成ることが出来ますし,気高くなる予定だ,という事は真実です。共に暮らす親達がサンガ(エクレシア,互いに大切にし合う仲間)になるかは,半人前エネルギーが聖書の神様からのギフトの一人前の生かされている実感に気高く成ること次第です。ですからね,共に暮らす親たちの物は元に暮らす親たちに返しなさい、でしょう。しかし,最初にすべきは,人を大切にするあの聖書の神様の晴れ晴れとしたいのちは子どもに返しなさい でしょう。人を大切にするあの聖書の神様のいのちは,聖書の神様のいのちが一巡する関わりを始めて子どもが気高くなることが出来ますから。
心の病から,日ごろからあるムラ気まで右往左往する異常に苦しんでいる者だけが,自分が聖書の神様から実は大事にされていること,半分に分けられた働きも「善し」とされて感動して,内的に促されることに気付いたおかげで,2つを1つにする聖書の神様の煌めく光が,闇に退歩することの中で一巡することの価値が体得底で分かります。聖書の神様から大事にされること,半分に分けられた働きも「善し」とされて感動して,内的に促されることに気付くことは,人間のやることを「最低」にするのに役立つだけでなく,「最高」にするのにも貢献します。多くの場合,人間のやることを,同時に「最低」でしかも「最高」にするのに役立ちますよ。
しかし,理論上の課題,用語上の課題も解決されるべく将来にわたって残っています。スピリットを学ぶ中で真実に助けになるお母さんに集中する決心をする中で,フロイトさんが見つけたのが,人類が半分にバラバラにされていることを再発見することこそ,果たすべき一番大事なお務めだ,という事でしたね。人類が半分にバラバラにされていることを再発見することこそ,果たすべき一番大事なお務めだとする所では,絆が大きく侵されているところに一体感を回復しなくてはなりませんでしょ。しかも,崖っぷちを語り合うことで。崖っぷちを語り合いますと,不思議なことですが,古代の英知といまの思いが混じります。「ヒステリア」という言葉を取り上げてみましょうね。ギリシャ人は,その昔,女性のヒステリーは,子宮が泣きながら漂っていることから生じる,と考えていました。つまり,子宮が身体を求めてさ迷っているんです,あっちで苦しい思いをしたり,こっちでつっかえたりしながら。もちろん,フロイトさんにとっては,子宮って,創造する元型ですから,生殖器官ではありません。創造する元型である子宮は,その創造の目的から逸れてしまったら,創造するために使われる心からの優しさを態度で示すリビドーは力を発揮できなくなります(寒々とします)。心からの優しさを態度で示すリビドーが聖書の神様の創造から横道に逸れて,的外れに穿き違えていますと,それは,幼稚なところと幼稚な振舞いにいつまでも従うことになります。ですから,息苦しさが示しているかもしれないのは,身を守るために何かを天に吐き出すことがありますよ,創造を押さえつけて心貧しくならないでね,という事でしょう。心からの優しさを態度で示すリビドーが創造から尻込みする気持ちを話すことは他のところで自ずから明らかですが,フロイトさんは当時熱を帯びた言葉,つまり,エネルギーに満ちて,そのエネルギーを伝染させる言葉を用いました。その結果,熱を帯びた言葉って,たいていが下に立つ生き方は聖書の神様のいのちを生かす唯一の生き方になる予定になっているんですよ。下に立つ生き方は,「共に育て合いましょうよ」と呼びかけ合うことになりますから,共に育て合うことが自由で不動であることを,礼拝も試練も改めて確かめようともしませんよ。
偉大な改革者は,その時代にピッタリの言葉と譬えで語るのが世の常ですが,フロイトさんも自身が「夢物語」と呼んだものを真正面から受け止め相手にする勇気を持っていなければなりませんでした。真理の聖書の神様に見守られていますと,その人が最初に唱えたお祈りが晴れ晴れと実現します。
フロイトさんは,心からの優しさを態度で示すリビドーによって,ジョージ・スチュアートさんが嵐を小説にしたことと似ている様に,私は感じています。彼は,小説『嵐』の中で、大水を物語の柱にしました。スチュワートさんは,聖書の神様のいのちが一巡することと自然の出来事の一回性を同列に描きました。それはまるで,この世やこの世で育った人が存在するのは,あの嵐が大歓びするためだ,と言いたげです。あの嵐が大歓びしますと、内外で起こる手に余る出来事という嵐の中に,キラキラと光が煌めくのを善く見る視座を豊かにしてくれます。魂を自由にした人たち(訳注:フロイトさんたち)の初期も,人間の内的促しは,心からの優しさを態度で示すリビドーが最深欲求にある心根だ,とキッパリと言ったでしょ。共依存になっている小我は,防風林か,脆い地層にすぎず,最深欲求にある心根である心からの優しさを態度で示すリビドーと,自分勝手で敵意に満ちた世間の常識という「外面だけが良くなる場」である曖昧な周りとを,上手に仕切れません。
しかし,医者のフロイトさんは,作家のジョージ・スチュアートさんよりも上を行っています。フロイトさんは,初めて一体にもなり,ハッキリと示しもした,様々な心の嵐を善く善く調べて,病んだところから打ち勝つことが出来ましたから。心からの優しさを態度で示すリビドーの聖書の神様のいのちをハッキリさせることによって,フロイトさんは,五感を見当違いに粗末にして生きている意味を見失ったことから来る,個人や組織が抱えることになる心の病を畏敬の念をもってハッキリと私どもが見るように促す内的促しと心の病を癒す私どものあの結界とを育ててくれました。フロイトさんにとってはハッキリしたことでしたし,私どもにとってだんだんはっきりとしてくることは,どんな人が自分を空っぽにする(エゴをなくす)結界に関わって,様々な患者さん(あるいは,子ども達や心を病んだ人たち)と共に,魂を自由にする生き方が出来ようにできるのか,という事です。つまり,それは,人間様のいのちの全体性の中に,心からの優しさを態度で示すリビドーを見い出す視座を探さなくてはならない,という事でしょう。ひとりびとりの心からの優しさを態度で示すリビドーを代わりばんこに示すことをハッキリと描いて,ひとりびとりが聖書の神様のいのちが一巡する結界に成ることを今後も研究し続けるつもりですが,お喋りの中だけの聖書の神様が,生きている人間を操り人形の役回りに貶める危険には敏感でなくてはなりません。お喋りの中だけの聖書の神様は,心身を癒すことも,自分の頭でよく考えてみることもプレゼントしてくれません。
フロイトさんは,人の心の足跡を辿る人ですから,聖書の神様のいのちが一巡する結界の中では,医者のフロイトさんの上を生きていましたね。フロイトさんは,辛さをハッキリと教えてくれたり,直したりする以上のことをしたんです。創造が発達の中でどのよう生じるのかを明らかにする訓練をすることで,フロイトさんが教えてくれたことは,半人前が,様々な舞台の中で,フライトさんがあらゆる創造的発達と切っても切れない程に結びつけた1つの発達を進める,ということです。
と申しますのも,フライトさんが半人前の源を最初に本気になった時に気づいたことが,半人前を学ぶのは,科学であるのみならず,万人に共通することですが,半人前学は,新しいあり方であり,2人で一人前になる時期に,新たに始まる発達変化が急激に始まる,一人前に急になることを正しいとしているからです。ですから,半人前学が立つのは,発生学が中世にだっていた立ち位置ですし,ホムンクルスが,小さくても予め完成していた人間で,男の精子が女の子宮に入るのを待っていて,そこから展開して,いのちに飛び込むと考えられていた考えが,創造発達的に受け入れられていました。発生学は,聖書の神様が予め天上で創造発達する予定説上の発達の下に立っていて,よちよち歩きの(訳注:土の)器から,一歩一歩発達します。フライトさんに従う弟子たちが,半人前の魂が赤ちゃんの時期に創造発達するのに与る掟は,子宮の中で半人前の精子と半人前の卵子が合体して一人前の赤ちゃんになることと似ていることに気づくと,1番腑に落ちます。
2人が繰り返し一心同体になる中で一人前の大人に発達する中で,それぞれ自分の音色を奏でるものには,すべて時があります。この時を作り出すスピリットが,立ち上がる最初の場所とおんなじくらい大切です。たとえば,目が約束の時間に立ち上がり一人前の働きをしないなら,「その目は自分の音色が出せませんから晴れ晴れとしないでしょ。大事な他の場所が急速に発達する時期が来ますと、あまり動かなかった部分に勝り、目が自分の音色を奏でるのが遅れがちであるのを一層押さえつけることになりがちです」という具合です。
自分の音色を奏でる事が時に適って立ち上りだす(育ちだす)と、さらに時間(訳注:結界を作り出すゆとり)を作り出すことができますから,発達するのが一番難しい舞台にジ・エンドを示してくれます。赤ちゃんの頃に心響くお母さんが与えられるのは,お母さんが下に立つことに徹して,赤ちゃんが徹底的に肯定されるためなんです。心響く者が聖書の神様の基から上手に育ちますと,障害があっても,小粒でも,心響く創造も現実に関わる生き方も,もはや,創造発達に邪魔が入ることから,挫けさせらせることはありません。
登る時を逸して自分の音色を出せない者は,物として生きる羽目になるだけじゃぁありませんから。自分の音色を出せない者は,相手の音色に自分の音色を響かせ合って生きる,聖書の神様が創造する秩序全体を台無しにする羽目にもなりますから。「早く芽を出す部分が芽を摘まれますと,発達がしばらく止まりがちになるだけではなく,他にも勝る聖書の神様を幼い頃に見失うことが,発達しなかった部分が発達できるように力を得ることもできなくなってしまいます…」。聖書の神様のご計画通りに発達しますと,結果として,身体の様々な器官のサイズと働きの関係がうまく生きます。お腹や腸に嵩がピッタリ合った肝臓,バランスが取れた心肺,身体全体にピッタリとくる循環器。発達創造を押さえつけることを通して,1つ,あるいは,2つ以上の期間が,当然発達する大きさに比べて,小さいんです。こうなりますと,様々な器官同士が調和のとれた働きができませんし,オドオドした人になってしまいます。
「創造の目的にピッタリな大事な価値」や「聖書の神様が創造する創造を賛美する賛歌」が損なわれれば,「極端になってますからね、と警告」し,「真の仲間がいませんよ、と警告」する結果になります。「真っ直ぐに立っている者が立っているのは,2つの気まぐれな的外れの間だという事実からは,聖書の神様が創造する道から迷う的外れは,大事な臨界期の間に、確かな創造が異常な逆戻りをした結果を示す正直な印に他なりません。
音色が響き合わないモンスターができる可能性という意味で一番厄介なのは,出生前です。いったん生まれた後では,人間はその「源成る母(訳注:聖書の神様)」からうまく生まれます。あるいは,様々な一心同体を経験して大人になる結界から落ちこぼれて迷子になっている,と間もなく診断されるかもしれませんね。「思索以前の」束(訳注:感性)はいつでも,限られた仲間と促しの強さが徐々に増し加わる場合だけピッタリときますから、赤ちゃんは子宮内で化学物質をやり取りする所から離れて,仲間が互いに善さを引き出し合って,共に自立する中にある,母親が自分に関心を示し続けてくれることを求めるようになります。なんてことか,大人になっても,幼い頃の様々な不協和音が通奏低音になってしまいますから,大人になれませんし,予め聖書の神様が描いていた,運動能力,感覚能力,社会的な能力の繋がりも,子どもの手習いのレベルです。魂を自由にするサイコセラピストがこれに付け加えることは,人がバラバラな人になる,ますます自分がゴチャゴチャなって分からなくなる様々な体験と諍いを理解すること(訳注:が大事だという事)です。ますます自分がゴチャゴチャなって分からなくなる様々な体験と諍いは,大事に分別に至るいくつかの階梯であるから,試練でも,子ども等がキリスト教の儀式で身に着ける習慣になるのか,それとも,屈託のない歓びとお母さんの静かな見守りとなる,聖職者が関わることのない生き方になるのかに関わらず、まず初めに理解しなくてはならないことは,大事な体験の流れの中で,真っ当な子どもは,真ん中(訳注:におられるキリストまで)上手に案内してもらえれば,心の打ち込まれた創造発達の約束に従うだけですし,聖書の神様の創造の約束に従うはずだと信頼できます。心の打ち込まれた創造発達の約束とはね,すなわち,生まれる前にすでに次々と響き合いを創造した約束ですし,身の回りの人達との間に,合言葉と気高い気配を伝える主が,いまここで,次々と毎日立ち現れる約束です。このようにど真ん中におられるキリストが関わって下さる関わり方は,育て方によって実に様々ですから,いまここで内的促しに従う生き方では,創造の目的に相応しく,繰り返し聖書の神様に立ち返って静かにすることと,聖書の神様の創造に相応しく,繰り返し聖書の神様を賛美することが,あらゆる気紛れを創造の目的に向かって整え,創造の目的の中に留める決定的なお務めになります。
2つの分けることが出来ない子どもの「心から優しいエネルギーを節約する」立場でものを見ますと,申し上げるべきことは,2人の苦しんでいる者達の中では,芽生えたばかりの内的促しを繰り返し信頼し賛美することが,完全におかしくなっている、という事なんです。2人の苦しんでいる者達は,お尻が出し入れする場にこびり付いています。まるで,壊れた蓄音機の様です。2人の苦しんでいる者達は,赤ちゃんみたいに自分の足で立てない立場に囚われて,次の立ち位置に進もうとしても,繰り返し失敗します。次の立ち位置とは,大事な異性を心から大切にすることに手塩に掛けることです。アンさんがお父さんを大事にする振舞いが,心からの歓びが示されることによって出たのは,アンさんがピカピカの車を3つ,玩具のお父さんに上げた時です。ピーターのケースでは,看護婦に男の行動をしたことは、すぐに苦しみに変わりました。「聖書の神様の心からの優しさ」に気付くとすれば,1つのケースの排便,もう1つのケースの便秘も,こういった子ども等に,取り戻そうとしている2分の1の歓びを与えている,と見ますでしょう。この子等のそれまでに壊れたブレーキ装置のために,思った以上にさらに深く、しかも.さらに早く,発達創造することができません。しかし,もはやうぶではない赤ちゃんで,お尻の躾ができてないことを楽しんでいる赤ちゃん,こういった子ども等は,憎らしい人を追い出して(4歳児のあんちゃんがお母さんの人形を蹴とばしてましたでしょ),大事な人をそばに引き留める空想に耽っているんです。(訳注:4歳、アンちゃんとピーター君)2人がしたことは,2人をコントロールしようとする親に対する悲しき勝利となります。朝にアンちゃんがバタバタしている時に,お母さんがお部屋に入ってくるのが見えると、アンちゃんの眼は,勝利ばかりではなく,もの悲しい眼にもなっているからなんです。ピーター君が太っちょになり,居心地が善くない時でさえ,そのよそよそしい顔には静かな満足がありましたね。しかし,気の毒お母さんが,束の間のとても痛い思いから体感するのは,我が子から王様の様に怒り爆発される,お相手をするのは,母子の出会いをますます悪くしてしまうばかりだ,ということです。と言いますのも,望んでいることを言えば,こういった子ども等が大事にし,大事にされたいと願ったんですし,子ども等は,恨みを晴らす勝ちより,あの「出来た」と言って歓ぶ歓びの方が,遥かに遥かに好きなんですから。問題行動で子どもを見ちゃダメ。
子ども等は,こんな粗末な育ちをすれば,第2の生命力の成すがままになります。第2の生命力の前提は,2人が共に魂を自由にして立つ中で,心からの優しさを態度で示すリビドーを体得していたのに,破壊本能、死の本能の成すがままになってしまいます。(訳注:発達トラウマ障害の)この子ども等が死の本能の成すがままになってしまう問題は,ここでは論じませんが,それは,本質的に,英知の課題だからですし,フロイトさんがは元々「三つ子の魂百まで」の神話に献身したんですから。フロイトさんの用語法やそれに続く議論は,私ども臨床家が取り扱う相手によくある事だと思えるのに,その存在をハッキリとさせないままでいる(訳注:気持ちの)威力に臨床研究をあいまいにしてきました。私が申し上げているのは,「激しい怒り」です。「激しい怒り」が爆発するのは,私ならではが「出来た」という実感に不可欠な自らの能動的な関わりが邪魔されたり,禁じられたりした場合です。私ならではが「出来た」という実感に不可欠な自らの能動的な関わりが邪魔されたり,禁じられたりした場合,何がこんな激しい怒りとなるのか? あるいは,私ならではが「出来た」という実感に不可欠な自らの能動的な関わりが,人を嬲り者にしたいと思う,合理性を欠いた敵意や憎悪に対して,何かお役に立つことあるのか? は,心理学に突き付けられた避けて通れない一番の課題でしょう。
どんな強制力が臨床の場に働いているのか?を具体的に明らかにするために,もっとお役に立つ問いは,何をもって「出来た」と呼ぶのか?という問いかもしれません。その問いは自分は何を歓びにしているかを明らかにすることで分かるのかもしれませんよ。自分の歓びは,私どもが下に立って初めて体得できる肝っ玉・勇気によってしか成しえない,自分の足で立つ独立の中でしか育ちません。申し上げたいことは,私どもの使命は,苦しんでいる子どもとその親の間で歓び合うことを繰り返し確実にすることです。それは,互いに相手をコントロールしようという,苦痛に満ちた破滅的な(訳注:最悪な)生き方は止めて,互いに相手がノビノビできるようにするんです,子どもも親も自分のことは自分で出来る(最高の)生き方を回復するためです。
こういった処方箋を書きますと,診断の裏をかくことになります。共に育つ中で,人々は集団として,互いにノビノビすることが出来なくなりがちなんですよね。ノビノビできなくなった人たちは,自分の年相応の待つことできませんし,人々の中で自律してません。人々は,自分自身を自分で修めることも,仲間がノビノビできるようにするのにお役に立つこともできない代わりに,別のお門違い、すなわち,(訳注:不思議なことですが,決まって)自分の思うままにできる土俵,で特定の他者を除け者にします。大人たちは,熱に侵された仕事と仲間内の振舞い形で,子どもを除け者にしますし,子どもは,絶対に自分の思うままになるように見えるところ,すなわち,身体にかけてだけ,大人を除け者にします。自己愛は,この神様の掟を破り捨てる戦いを戦う生き方の中で、心に送り込まれる唯一の爆弾です。しかしながら,このような自己愛的な身勝手なやり口は,人の話を真心を込めて聴く耳を失くします。と言いますのも,見た目は,身体のある部分を楽しんでいるように見えるけれども,自己愛の虜になったその子は,人をコントロールすることで、かたき討ちを空想の中でしようとして,聖書の神様が人と心響かせ合うための創造された音色を誤用するからです。
人をコントロールすることは、人を大切にすることの正反対。
自分色の音色は、人と心響かせるために創造されたのに、誤用して、人をコントロールしようとします。自己愛の人の悲しみです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます