現世考 : #振り向いてくれる顔を欲しかった #座間殺人事件から #発達トラウマ障害DTDを考える #死んだ人の顔はソッポを向けない #再生のための人格的真理インターメッツォ: 書くって、不思議!! 身体の声に耳を澄ませば 発達トラウマは、その元になった体験が無意識に落ちてますから、それをホッタラカシにはでき......
Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.111,15行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。
本物の大人になること と 日常生活を礼拝にする中で子どもを大切にすること
若者の見習い期間から「日常生活を焼き入れする礼拝をして,自由平等友愛の生き方を不動にした」後,「男女が一体になる儀式」によって,若い大人は「許し」を得て,新たな仲間になることができます。それは,1つの生き方を次の世代に伝える,ということです。宗教の日常生活を礼拝にする礼拝は,この点で,徹頭徹尾聖書の神様に従うことですし,自由に率直に話すことでもあります。しかし,大人が習慣にしている礼拝が,自分の文化で英雄,精霊達,神々,様々な王,創立者達,様々な決まりを超越する,あるいは,その上をいく,自分自身のお手本を求めるかどうかにかかわらず,その大人たちがまずしなくてはならないのは,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気なく日々やっている礼拝を,本気で心響くものに繰り返しして生きて,繰り返し不動にすることです。なぜならば,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気ない礼拝こそは,文化を1つに一体化させ,秩序を創造できるからです。何気ない日々の礼拝のおかげで,大人も価値ある自分を体感できます。というのも,誰もが抱く元気をもらいたいと願うニーズには,何気ない日々の礼拝を司式する者が,聖書の神様の命が一巡する中で,繰り返し心強く元気をもらうニーズも含まれているからです。何気ない日々の礼拝を司式する者は,隣にいる子どもの目から見て,驚き感激するヌミノースのモデルに歓んでなる,ということにドンピシャリですし,悪を裁き,目には見えないけれども,目標になる様々な大切なこと(訳注:それが目に見える形を取る,倫理と人間らしい習慣)を伝えるものとして,子どもに関わる,という点でもドンピシャリです。ですから,日常生活を礼拝にする大人の原理とは,「聖書の神様が創造する業に参加する」ということです。これには,親として,教師として,生産者として,治療者として,などの関わりも含まれます。1人の大人は,正式の人をよしと認めるマントをまとっているみたいに,「私は,自分がしていることを自覚しています」という確信の中で,繰り返し元気にされなくてはなりません。唯一無二の恐れぬ気持ちが盛り上がるのは,父親側においては,父なる聖書の神様,すべての王様たちを超越する方を,1人の親イメージとして,見通すことによってです。その親イメージとは,聖書の神様が私ども人間を,聖書の神様のイメージの中で創造した時に,聖書の神様が自分のしていることを,ハッキリと自覚していました。
大人は,自覚的に聖書の神様が創造する創造に自覚的に参加する存在です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます