今宵は、本田哲郎神父様の言葉に、また戻りたいと思います。その言葉は昔、西村先生が、クリスチャンの心得として語った、矢内原忠雄先生の言葉と、奇しくも同じです。『釜ヶ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に 』から。
じっさいイエスは、立場を鮮明にすることによって、「包丁を入れる」こと(バッレイン マカイラン βαλλειν μαχαιραν)を実行しました。
宗教上の指導者であり社会的エリートであったファリサイ派の人々と、彼らが「罪人」と見下げる宗教上の掟を守れない貧しい人々との対立において、イエスははっきりと貧しい「罪人」の側に立ちました。
…イエスは見せかけだけの平和、弱い立場の者に犠牲を強いるだけの和解、うわべだけの一致には、我慢ならない人でした。
昔、「聖書を学ぶ会」の集会で、西村秀夫先生がクリスチャンの生き方の基本として、矢内原忠雄先生の行動指針を、ことある度に話してくれました。その基本中の基本は「旗印を明確にすること、それが、その後の戦いを容易にする」ということでした。本田哲郎神父様の今宵の話と共通しますでしょ。矢内原忠雄先生の行動指針が、イエスをモデルにしていることには、集会にいた時には、ついぞ気付くことはありませんでしたが、こうして教えられると、鮮やかに行動指針の基本のキが分かったような気がします。
昨晩の高校教師、安積力也さんの言葉を借りれば、「自分自身の不安や怖れを引き受けない」大人は、実に子どもっぽい。はっきり言って、幼稚です。そういう人に限って、言葉だけは、偉そうなことを言う訳です。ですから、言ってる言葉と、言葉の響きが解離してしまう…。ウソとゴマカシの逃げです。そうやってたんでは、≪本当の自分≫が死んでしまうのに…。せっかく生かされているのに、腹の底からの悦びを知らずに死んじゃうつもりなんでしょう。水の中でおぼれているのに、ご本人たちは、王座にでもついているような幻想を抱いているはずです。実に幼稚でしょ。
子どもは、知的な遅れや偏りのある子どもでも、そんな大人のウソとゴマカシの逃げ腰はすぐに見抜くのにね。見抜かれているのがなんとなく分かるから、余計に、偉そうな素振をするわけですね。ビョーキの組織の闇そのものです。
子ども、弱い立場の人が一番望んていること、それは、その子どもの不安や怖れから逃げ出さないで、「共に見る」ひとりの大人です。それは、その大人がまず自分自身の不安や怖れから逃げずに、向き合う日々を過ごす中で「あの光」を体験して、初めてできることなんです。
それは、何も話し言葉で説明する必要などないものなんですね。子どもは、赤子でも、直ぐに気付いてくれますからね。大江健三郎さんの言葉に擬えて言えば、生き方の習慣、日常語で言えば、雰囲気、あるいは、単に「気」ですね。気を読む、気を発する、という時の「気」です。子どもは、言葉がまだ言えない赤子でも、その「気」にずくに気付くのですね。そして、その「気」に触れ続ける時、人が違って見えるほど「元気」になるのですね。
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