絵の場合は、絵描きが形式を縦横無尽に駆使できるほどの腕があれば、見る者の最深欲求に訴えかけるだけの力のある絵が描けるし、その絵は、見る者の信頼感を確かにすることができる絵にもなる、というのは、実に面白いですね。一級品の絵を見ると、確かに今まで気付かなかったことに目が向いたり、生きている喜びを感じたりして、心が揺さぶられますよね。エリクソンは、たぶんそのようなことをここで述べているのだろうと考えます。
このことを心に留めておくことが必要不可欠です。それは、私どもが他の「枠組み」や領域に触れているとおりです。その中には、お互いに全く相容れないように見えるものもあります。1枚の額に入った絵は、夢や、劇場の客と舞台を分ける壁のところと形が似ている、と主張するのは容易です。しかし、劇場(theater)や理論(theory)が、経験上、言葉の上でと同様、共通の語根がありうると主張するのは、もっと容易です。しかも、この2つの言葉は、共通して、「うっとりする気持ちと信頼を呼び起こす、目に見える、ないしは、目に見える形にした領域」という意味があります。同様に、毎日使っている言葉で、見ることに関する語根から派生してきた言葉が多いです。事実が証拠になるのは、でも、その気になれば、その事実を見ることができるからです。それが証拠です。しかも、言葉の目に見える部分を際立たせる語根を含むとっても大事な言葉があります。たとえば、心の眼のひな形としての1つの考え方やら、出来事を目に見える絵巻物にした歴史やら、究極的な全体的見通しとしての英知やらがあります。 しかも、有り余る機知(wit 、語源は「見て知る」)で見通す、究極的な全体的見通しが、英知なのです。このように、本物の見通しならすべて、奥行きの見える視覚を持って生まれた、想像力に富んだ被造物(である人間)が、理解するための源の器官(目)を肯定しますし、さらには、1つの見通し、1つの展望を持ちたい気持ちも肯定してくれます。
ここも「見ること」の不思議に満ちた部分ですね。考え方や歴史や英知が、目に関係がある、などと考えることはないのではないでしょうか? しかし、考え方や歴史や英知が、見通しと関係がある、と言われれば、「そういうところが確かにあるな」と感じる方も、あるいは、おられるのではないでしょうか?
本物の見通しは、目で見た出来事と、 「こんな人間になりたい」「こんな社会を創る人になりたい」という、私どもの最深欲求を肯定してくれるのです。
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