生死の意味を理解するためには、<私>と相手を繋ぐ絆と、その絆を支える、この世を超えた人格(的価値)が必要なことが分かりました。<私>と相手の絆が必要なことは分かりやすいのですけれども、それでは なぜ、<私>と相手の繋ぎ役がこの世的であってはならないのでしょうか? それは、「金の切れ目が、縁(絆)の切れ目」になる程度の絆では、生死の意味を理解するのに、役立たないからでしょう!
あの静謐な「受胎告知」の絵は、そこで、光とスピリット、その顔とその言葉が一体になって、絶対的な暗闇と魂の死、つまり、自分自身を諦めること(顔なしfacelessness)と生きる意味が分からないことに対して、繰り返し襲ってくるすさまじい恐怖から、説得力を得ているのです。しかし、忘れないでおきたいのは、不思議な自信を持っているためには、この絵描きは、決まりきった形で戯れるような、ピチピチした描き方ができるくらいの腕がなくてはらない、ということです。それほどの腕と不思議な自信があるときに初めて、その絵描きの作品は、見る者の最深欲求に訴えかける力を持てますし、絵に表した真実によって、(見る者の)信頼感も確かにすることできるのです。
ここは、不思議な件です。エリクソンは絵描きを志していた時期があるが故の含蓄を感じる文章ではないでしょうか? 「不思議な自信を持つためには、相当の絵の腕がなくてはなりません。その不思議な自信があって初めて、その絵を見る者の最深欲求に訴えかける力を持てますし、真実によって見る者の信頼感を確かにすることもできる」とエリクソンは言いますが、「不思議な自信」って何でしょう? 「最深欲求」って何でしょう?
「不思議な自信」は4月に翻訳したところに出てきましたね(2013年4月16日)。これは、ユーロック族の人々が、サケ漁をする時に、いかに考え、いかに祈り、いかにサケに語るかをつぶさに述べる中で、ユーロック族の人々にエリクソンが見て取ったものでした。それは、ユーロック族の人々が、サケの生態も分からないままで、サケも人間も共存共栄することに対して抱いていた確信でしたね。そこから押し広げて考えれば、この「不思議な自信」は、絵を描く者も絵を見る者も共存共栄できると確信していることになりますね。
それでは、 「最深欲求」って何なんでしょうか?こんな言葉を聞いたことがありますか? このブログの読者の皆さんに問いかけたいのですが、自分の一番深い、本音の願い、日頃はあまり意識していないし、「自分はそうなれている」とはとても言えないけれども、それでも、よく考えてみると、「自分が一番願っているのは、これだ」という願いがありませんでしょうか? それは、心の奥底の願いでしょう!言葉を換えれば、「私は真実な人間になりたい」、「全うな生き方をしていきたい」、「自分を確かにしたい=自分自身を生きたい」という願いです。
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