≪真≫において、人と人として繋がることが、実存的な不安を解消するのに役立つらしい。それじゃあ、その≪真≫において、人と人として繋がるって、どういうことでしょうか? 今日はp.17の第二段落から。
人と人とが一つのなることをこのように願う願いが、人間の中で一番強力な欲求になります。この最深欲求においてはじめて、人類が一つになり、一族をなし、家族を作り、社会を形成し続ける力になります。それができないと、人は正気でいられなくなりますし、破滅に向かいます。自殺と殺人です。≪真≫でないと、人間は一日だって、生きていけません。それなのに、人と人として一つになることを、≪真≫と呼ぶとしましたら、私どもは抜き差しならぬ困難の中にあることがわかります。一つになることがいろんなやり方でできる、そのいろんな違いが、いろんな形の≪真≫に共通するものと同様に、大事です。すべてが≪真≫と呼んで大丈夫なんでしょうか? あるいは、≪真≫は特別な種類の一つになることにだけ、とっておいたほうが良いんでしょうか? その特別な種類の一つになることとは、洋の東西を問わず、過去四千年の歴史の中で、人類の幸福に資する偉大な宗教や哲学の体系において、理想とされた美徳です。
人と人とが一つになる。本当にそれが叶ったら、こんなに嬉しいことはありません。フロムは、この一つになることには、いろんなやり方がある、といいます。それでも、≪真≫と呼ぶ場合は、一つになることすべてをそう呼べで良いのか? それとも、一つ特別な場合だけをそう呼んだほうが良いのか? あなたはどう思われますか?
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