見ることの恵み 時間に継続性を、空間に一貫性を与えるもの
子どもの意識は完全であるから、その観点から、子どもの意識も、大人の意識も見直してみる、その大切さを教えられました。今日は、見ることの恵みです。ここは段落が長いので、前半を翻訳しま...
人の経験って、どういう風にひとまとまりになるのか? また、どういうときに、まとまらないでバラバラなままなのか? 忙しい毎日を過ごしている日本の皆さんには、少数の例外はともかく、そんな「つまんないことは考えない」でしょう。第一そんなことをしても、一円の得にもなりませんしね。
今日のエリクソンは、その一円の得にもならないことを教えてくれているところです。でも、「損得」ばかり考えていると、心無い大人になっちゃいますよ!
エリクソンは、スピッツという、赤ちゃんや子どもの心理を研究していた心理学者の研究を報告します。その報告は、五感から入る様々な情報を最初に統合するのは、視覚だ、というものです。耳から入るお母さんの声や音、舌が感じるおっぱいの甘さやぬくもり、鼻が感じるおっぱいやうんちのにおい、肌身でとらえる、ぬくもりや心地よさ、ときには、冷たさや熱さや痛さもあるかもわかりません。それらの感覚情報をまとめてくれるのが、視覚が捉えるお母さんの優しい笑顔でしたり、輝くような瞳だというのです。それは、おなか一杯になった喜びやお尻がさっぱりとした心地よさと結びつけるのも、このお母さんの笑顔だったり、輝く瞳だというのです。
こんな素敵な出会いを毎日繰り返せば、それは、たとえそこに言葉がなくっても、赤ちゃんは、この喜び、生きる喜び、生かされて大事にされる喜びを、様々な感覚情報と結び付けます。そして、後から覚える言葉によって、それが、「うれしい」や「楽しい」や「アッタカイ」や「大事にすること」という言葉と関係することを学びます。五感が感じるぬくもりなどの≪感じ≫(出来事)と、「うれしい」などの≪話し言葉≫と、お母さんのやさしい笑顔・輝く瞳などの≪イメージ≫、が一つに結びつきます。そして、その内のどの一つ、それが≪感じ≫(出来事)であっても、≪話し言葉≫であっても、≪イメージ≫であっても、一つを経験すると、他の二つが自ずから思い出され、繰り返し、「嬉しい」、「楽しい」、「アッタカイ」を感じることができます。それは、本物の恵み、と言って間違いありません。どなたにも、このような本物の恵みを味わっていただきたいものですね。特に、すべての赤ちゃん、すべての幼子に、この恵みがあらんことを、祈りたい気持ちです。
ところが、残念ですが、こういう恵みに恵まれない人もおります。そうすると、こういう形では五感は統合されなくなります。いや、統合されないんですね。バラバラです。五感もバラバラなら、≪話し言葉≫もバラバラですから、どうしてもウソとゴマカシが増えますね。当人もどこまでそれを意識できていることやら。≪イメージ≫は、冷たい感じがするものになりますね。そこにある感じは、「さびしい」、「悲しい」、「満たされない感じ」が最初かもしれません。しかし、そういう体験と「感じ」を体験し続けると、それが、「憎い」、「激しい怒り」、それから、自分の気持ちや思いを出してはいけないという「恥ずかしい」などを繰り返し感じることになります。そこにくっつく≪話し言葉≫といったら、「お前なんかダメだ」、「当てになんかなるもんか」、「現実は甘くなんかないんだよ」、「信じるな」...ですかね。すると、≪感じ≫(出来事)、≪話し言葉≫、≪イメージ≫のなかで、取りこぼすものがたくさん出てきます。まず最初に取りこぼされてしまうのが、前の段落に出てくるような、「本当の恵み」に繋がる≪感じ≫、≪話し言葉≫、≪イメージ≫です。ガッチリ結びついちゃうのは、「冷たい感じ」、「寂しい感じ」、「激しい怒り」などの残念な≪感じ≫と、「ダメだ」などの否定的な≪話し言葉≫と、「自分は相手にしない冷たい態度」の≪イメージ≫です。どの一つでも、その否定的・消極的なものに出くわすと、他の二つが猛烈な勢いで思い出されてしまいます。しかも、それが毎日続くのです。それはまるで、呪いです。こうなったら、病気になるのも無理ないなって思います。
一円の得にもなりませんが、私どもは、この≪感じ≫(出来事)、≪話し言葉≫、≪イメージ≫が結び付ける、子どもひとりびとりと、その子どもとの日々のやり取りを大事にしたいものですね。
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