恵みであると同時に、呪いである眼差し お母さんの眼差しの偉大さ
赤ちゃんが視覚を通して、お母さんとの関係で体験すること、自分がしてもらっていることから、さまざまな感覚、さまざまな感情、その空間と時間、そして、お母さんのイメージを結びつけ、それ...
≪ぬくもりのある眼差し≫、子どもと係るものにとって、これ以上に大事なものはありません。意識してできるレベルの≪ぬくもりのある眼差し≫もあるのかもしれません。しかし、私が感じる≪ぬくもりのある眼差し≫、それは体からにじみ出るものって感じです。意識してできることを突き抜けている…。子どもはすぐに≪ぬくもりのある眼差し≫に気づきます。黙っていても、初めて出会った時でも、≪ぬくもりのある眼差し≫にはすぐに気づきます。それが不思議でなりません。だって、赤ちゃんでも、気付くんですからね。
その根っこには、自分との対話、自分の最深欲求との対話があります。それは「自分を自分でいさせてくださっているもの」(前掲書、p.58)との対話なのかもしれません。≪ぬくもりのある眼差し≫は、したがって、対話に対話を重ねた中から、おのずから生まれてくるものだ、ということができます。
ぬくもりのある眼差しの反対は何でしょうか? なんか≪冷たい眼≫ではない感じです。私はあえて、≪ぬくもりのある眼差し≫の反対は、「忙しい眼差し」と呼びたいですね。その特色は、焦点が定まっていません。「早くして」という声が聞こえてきそうです。次にやらなくちゃならないことに、気が行っちゃっている眼ですからね。そして、言い訳がいくつも聞こえてきそうです。「だって、しょうがないでしょ」、「いろいろやんなくちゃならないんだから」、「私が稼がなくちゃならないんだし…。」…。でも、人間に本当に必要なことって、そんなにたくさんあるのかしら?
自分との対話が足りないんじゃないのかな? 自分を自分でいさせてくださっているものに、まだ気づいてないだけじゃないのかな? 忙しくって、静かな時間をないがしろにしているのじゃないのかな?
どちらを選ぶのか? これも選択でしょうね。
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