モノを追いかけると、人間もモノになっちゃいます。でも、どうやらそれだけでは、すまないらしい。
(この物質主義を超えて、決定的な段階だと見なしたのが、マルクスの手になる「歴史的唯物論」です。その中では、マルクスは、身体も、食欲や所有欲のような本能も、人間理解の鍵として役立つのではなくて、人の生き方全体、実際の暮らしを理解するための鍵として役立つ、と見なしたのでした。)フロイトによれば、本能的な欲望を十分に遠慮なく満たすことができれば、人は、物質的には健康になるでしょうし、物質的には幸せになれることでしょうね、と見なしました。でもね、臨床の眼から見ればはっきりすることですが、男も、女も、ブレーキが壊れた性的な満足を得ようとする人はおしなべて、幸せを手にすることもできなければ、重度な不安神経症的な葛藤や症状を背負い込むことになっちゃいますよ。本能的な欲求を満たしても、幸せの源にならないばかりか、正気でいられることさえ、保証するものにもならないんですね。
19世紀物質主義が台頭し、唯物論的な考えが優勢になると、その影響を受けない人の方が少数派になりますよね。人間も、「なんでも鑑定団」よろしく、全てモノ、 カネで測れると考えちゃった訳です。すべてがモノ、カネとなれば、モノ、カネを得た人が幸せのはずですし、健康にもなれるはず、と考えたんですね。
でもね、実際はそうじゃぁなかった。実際は、あのハーロー教授のサル君と同じで、モノ、カネを得た人も、あの「ビョーキ」になってしまいました。
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