父なる神は、多神教であろうと、一神教であろうと、方針と法に従順であることを人々に厳しく求めます。
p61の下から10行目途中から。
しかしながら、母親から掛け値なしに大事にされたい、という願いは、人の心から根こそぎにできるものではありませんから、掛け値なしに大事にしてくれる母親像が、神殿から完全に追い出されるわけでもありません。ユダヤ教では、神様の母なる側面が、いろんな流れのある神秘主義のなかに、再び取り入れられています。カトリックでは、母なる神は教会と聖母マリアとによって象徴されます。プロテスタントでさえ、母なる神の像は、完全にはなくなっていません。ただし、目立ちませんけれども。ルターは彼の主たる原理を、人間以外者は神からの一方的な救いの恵みをいただけない、としました。神様の真は恵みです。ルターの宗教的姿勢は、この恵みを信頼することですし、自分自身がちっぽけで寄る辺ないとハッキリさせることなんですね。いくら善行を積んでも、神様を動かせるものはありません。善行を積んだから、神様が私どもを大事にしてくれるのじゃぁありません。カトリック教理が説くように、神様が私どもを大事にするように差し向ける、ということなどできません。私どもがここから分かるのは、カトリックの善行に対する教理は、父なる神の絵の一部である、ということです。すなわち、私が父なる神様から大事にされるのは、従順だから、父なる神様からの求めを十分に果たすからなんですね。ルターの教理は、逆に、明らかに父なる神の性質にも関わらず、その父なる神の中に、母なる神の要素が隠れているですね。母なる神の掛け値のない思いは、手に入れることができるものではありません。そこにあるのか、ないのか、ですね。できることがあるとすれば、信頼することだけなんですね。すなわち、母なる神の像は、明らかな絵の中からは排除されて、その代わりに、父なる神の像が取って代わっています。母親から掛け値なしで大事にされるのではなくって、強い疑いを持ちつつ、父なる神から無条件に大事にされる希望に抗して希望することが、最高の特色になります。そういうことに対する信頼です。
父なる神の中に、母なる神の掛け値なしの真がある。それは、明示されたものではないのかもしれませんが、眼に見えないところに、恵みがあるんですね。
それを実感するのが、光の時間(とき)です。恵みと指針が同時にあります。
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