エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

#物知り顔 #実は全くわかってない と #シャローム

2018-11-09 04:54:22 | エリクソンの発達臨床心理
 
現世考: #相次ぐ企業不正 #相次ぐ猟奇的事件 #心は同じ闇
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 Toys and Reasons『おもちゃ と 賢慮』 P.112,第2パラグラフ,下から4行目途中から。ここ数日分も,ご一緒に。



 本物の大人になること と 日常生活を礼拝にする中で子どもを大切にすること


 若者の見習い期間から日常生活を焼き入れする礼拝をして,自由平等友愛の生き方を不動にした後,「男女が一体になる儀式」によって,若い大人は「許し」を得て,新たな仲間になることができます。それは,1つの生き方を次の世代に伝える,ということです。宗教の日常生活を礼拝にする礼拝は,この点で,徹頭徹尾聖書の神様に従うことですし,自由に率直に話すことでもあります。しかし,大人が習慣にしている礼拝が,自分の文化で英雄,精霊達,神々,様々な王,創立者達,様々な決まりを超越する,あるいは,その上をいく,自分自身のお手本を求めるかどうかにかかわらず,その大人たちがまずしなくてはならないのは,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気なく日々やっている礼拝を,本気で心響くものに繰り返しして生きて,繰り返し不動にすることです。なぜならば,子どものころと青年のころの日常生活を礼拝にする,何気ない礼拝こそは,文化を1つに一体化させ,秩序を創造できるからです。何気ない日々の礼拝のおかげで,大人も価値ある自分を体感できます。というのも,誰もが抱く元気をもらいたいと願うニーズには,何気ない日々の礼拝を司式する者が,聖書の神様の命が一巡する中で,繰り返し心強く元気をもらうニーズも含まれているからです。何気ない日々の礼拝を司式する者は,隣にいる子どもの目から見て,驚き感激するヌミノースのモデルに歓んでなる,ということにドンピシャリですし,悪を裁き,目には見えないけれども,目標になる様々な大切なこと(訳注:それが目に見える形を取る,倫理と人間らしい習慣)を伝えるものとして,子どもに関わる,という点でもドンピシャリです。ですから,日常生活を礼拝にする大人の原理とは,「聖書の神様が創造する業に参加する」ということです。これには,親として,教師として,生産者として,治療者として,などの関わりも含まれます。1人の大人は,正式の人をよしと認めるマントをまとっているみたいに,「私は,自分がしていることを自覚しています」という確信の中で,繰り返し元気にされなくてはなりません。唯一無二の恐れぬ気持ちが盛り上がるのは,父親側においては,父なる聖書の神様,すべての王様たちを超越する方を,1人の親イメージとして,見通すことによってです。その親イメージとは,聖書の神様が私ども人間を,聖書の神様のイメージの中で創造した時に,聖書の神様が自分のしていることを,ハッキリと自覚していました。あるいは,創立者,預言者,偉人で,一つの新世界のイメージの始まりを,皆に知らせます。今は女性が新しい世界イメージを,私どもに見せつけていますが,父権的な権威が多くの苦しみを味わう時,まごうことなく明らかになってきたのは,男が女子どもを支配してきたことが,日々の礼拝で良しとされた権威に基づいていた,ということでしたでしょ。すべての権威の中に必ずある弱い者いじめをする点で見るとき,創造的な,日常生活を礼拝にする礼拝の対になる,形ばかりの礼拝の特別な形が,自分が権威を征服し,誤って権威を奪い取った者の,形ばかりの礼拝です。お望みならば,「権威主義」と呼んでもいいでしょう。しかし,ここで,私どもは,これまで述べてきた日常生活を礼拝にする礼拝や,実際の日々の様々な礼拝の中で,大人の割り当てに近づきます。これは触れなくてはならないテーマですが,ここでは触れません。

 しかしながら,「古老の賢慮」に関する1つの言葉は,日々の礼拝の中で,聖書の神様の命を一巡します。日常生活を礼拝にする礼拝のお勤めは,「聖書の神様が示す全体像,すなわち,シャローム」だと思いますよ。この「シャローム」こそが,聖書の神様の命が一巡する大切さを不動にします。私がいつもウィリアム・ブレークの詩を味わう度に,ブレークが示しているのは,古老の賢慮は,一番上手くいけば,陽気で楽しい子どもらしさによって,(繰り返し)血が通ったものとなり,聖書の神様の命が充満する恵みに,恵まれる,ということですね。古老が伝統的に果たしてきた,日常生活を礼拝にする英知を体現する役回りは,古老の賢慮が,陽気で楽しい子どもらしさの中で,血の通ったものとなり,聖書の神様の命が充満する恵みを実現するものでしょう。しかし,現代の生き方は,多くの人の生き方を見てみると,不動で特別な人はごくわずかだと気づかされる経験しますから,ウィリアム・ブレークは,もしかしたら,古老の賢慮は,子ども騙しのチャチナおもちゃでしかない,ということを言いたかったのかもしれない,と訝しく思うほどです。古老になる前の数年,絶望と自己嫌悪を体験しつつ,私が,聖書の神様に誓って申し上げてきたのは,ウソとゴマカシのない正直な「聖書の神様が示す全体像,すなわち,シャローム」の強さです。その「シャローム」を子どもたちは直に受け止めます。シャロームは,老人と少年がお互いに親しみを感じる場です。しかし,もちろん,老人の時期にも,独自に,形ばかりの礼拝があるわけです。つまり,それは,思慮が浅いのに,賢い恰好をすることです。「物知り顔」です。



 「物知り顔」といえば,エリクソンのことが全く分かっていないのに,知ったかぶりをする,元学会理事長の顔を思い出します。バカ の典型です。

 「聖書の神様が示す全体像,すなわち,シャローム」は,明確な目的意識があり,心から謙遜で開かれた態度を生きる人の手によって,聖書の神様が実現するものです。

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