発達トラウマ障害≒愛着障害の子ども達は、物質乱用と自殺に陥りがち性の発達だけじゃぁない 思春期を迎える前の「前性器期」、それは性の成熟とは直接には関係のない大事な意味のある時間です。 The life cycle ......
今朝の聖書の言葉はδέχομαι,デコマイ,頂く,受け入れる,です。
このδέχομαιは,眼の前に来たものを受け取る,と言う感じが基本形ですね。
とても大事なところでも,δέχομαιは使われています。子どもを受け入れるのは,神様を受け入れるのと同じだ,と言う言葉です。マタイ,マルコ,ルカの福音書に出てきます。『新約聖書』の最初に来るイエス・キリスト物語「マタイによる福音書」の第18章に出てきます。
「小さいものたち
18章 1そのとき弟子たちがイエスのところに来ていった、「天国で最大なのはだれですか」と。2するとひとりの子どもを呼んで彼らの間に置いていわれた、3「本当にいう、転身して子どものようにならなければ天国には入れない。4この子のように自らへりくだるものこそ天国で最大である。5わが名のゆえにこのような子ひとりを受けるものはわたしを受ける。6わたしを信ずるこれら小さい人のひとりをつまずかせるものは、臼を首にかけて海の深みにおぼれた方がいい。7つまずきのあるこの世はわざわいだ。つまずきは必ず来る。しかし、わざわいなのはつまずきのもとになる人!」
この言葉δέχομαιを,すなおにδέχομαι出来る人は,非常に根源的信頼感の豊かな方ですね。でも,もともと根源的信頼感の乏しい私は,長い間,この言葉が謎でした。心理学を学ぶようになり,インナーチャイルドのことを勉強し,さらに,エリクソンを繰り返し 味わいながら,子どものサイコセラピーをするようになってから,みっちゃんやマサくん,ユナさんやシズさん,子どもひとりびとりから,やり取りの中で体験的に,教えてもらった感じです。
子どもは,この場合,さっきの福音書では,眼の前にいる子どものことを言っています。でも,このブログの熱心な読者の皆さんは,お気づきのことと思いますが,エリクソンは,子どもは1人でも,2人いるんでしたね。そうです。眼の前の子どもと,自分の心の中にいる子どもです。
子どもは弱さ,子どもはバカ,子どもは謙虚,子どもは素直,子どもは…。眼の前の子どももそうですし,自分の心の中の子どももそうでしょ。イエス・キリストの十字架を見たら,弱さの極致,バカの極致,謙虚の極致…ですね。神様はそういう方みたぃ。
ここから,その弱い,…,子どもとのやり取りという「神様が全てをコントロールする天国」が,キラリと輝きながら,生まれますよ。
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