国立 滝乃川学園のチャペル十字架
私どもは、心の中に、あの子供がおられる、と気付いたかどうか、は、眼の前の子どもに対する見方を180度転回してくれます。
今日は、Young Man Luther 『青年ルター』、第Ⅷ章 終章(エピローグ)のp.253の、第4パラグラフの7行目途中から。
ルターもフロイトも、単独になって人が、自分自身がヒュポメノー、すなわち、≪いまここに踏みとどまっていること≫が大事だとに気付く内省の方法を、完全に身につけました。この2人は、また、≪いまここを生きること≫のもう1つの極致、すなわち、世代を跨って人は関わり合っていることも、もっとハッキリと主張しました。というのも、ひとりびとりの子どもの中にある、新生のあの寄る辺なさと、新生のあの希望と向かい合う時だけ、心も大人になった人(女の人も含まれます)は、イキイキと生きて、あれこれと動き回るという 取り消すことが出来ない、やり取りのある関係に気付くことが出来るからです。
ここも、西平さんの翻訳は見ない方が良い、典型ですね。ヒュポメノー、pathienthoodは、患者性ではないからです。自分のpathienthoodに気付くとは、≪いまここに踏みとどまっていること≫が大事だとに気付くなんですね。
心の中にいる子どもは、寄る辺なさ・無力と希望が同居しています。まるで、十字架上の神の独り子と一緒です。論理的に説明することは、非常に難しいのですが、この神の独り子と同様に、無力と希望が同居していることに気付くと、はじめて、イキイキとした世代を超えたやり取り、突き抜けた悦びを感じあえる関わりが出来るのですね。
エリクソンが言いたいのは、他でもありません、≪いまここに踏みとどまる≫ということが大事と気付くことを通じて、はじめて、人はイキイキとした、悦びに満ちたやり取りのある関係ができますよ、ってことですよ。
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