惨めな生活も覚悟した人の決心は、良心から生まれたものですが、その良心から、人間らしい暮らしを根源的に基礎づける自由が生まれるのです。良心が自由をもたらすのです。これは、戦争の時代でも、平和な時代でも、いつの時代でも変わりません。
Young Man Luther 『青年ルター』p.231の第2パラグラフから。
本当は、ルターは剣を手にして反抗することはなど、現に想いもしなかったんですね。「争いごとの火に油を注ぐ様な事を望めば、ドイツ中に流血の大事件を起こすことになったでしょう。そうです。神聖ローマ帝国皇帝の安全を脅かす様なウォルムスの諍いだって、始められたでしょう。でもね、それが何になるんですか? 馬鹿がやることです。私は、その件を御言葉に任せたんですよね」。それでルターは、偉大なる反動者と呼ばれるようなことをすることになります。歴史のやり取りだけしてたら、偉大な革命家が偉大な反動者を孕んでるかもね、という原理原則を知りたかぁない、となるでしょうけれども、心のやり取りとなれば、偉大な革命家が偉大な反動者を孕んでいることは、ありうることですし、ありがちだと思われても仕方ないですね。
善良そうに見える人が、いともたやすく残酷なことをする。世間では立派な学識がのあると思われ、良識を日ごろ説いている人が、考えもつかない裏切りを、手のひらを反すようにできるばかりか、悪びれる様子も、詫びる様子も全くない…。
心理の学びですね。
ルターも、偉大な革命家にも、偉大な反動者にもなれた人でした。
それはなぜなのか? ご一緒に考えて生きましょうよ。
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