日本語でも「名は体を表す」という言葉がありますね。講談社の『日本語大辞典』でも、三省堂の『大辞林』でも、その意味は「名はそのものの実体を表している」とあります。看板に偽りなし、なんでしょう。名はギリシャ語では、όνομαですが、「ヘブライ思想では名と実体(その名を持つ自身)とは切り離せないものであり、名はその人のいわば本質を表わすと考えられていた。特に聖なる神名の重みは計り知れない」(織田昭『新約聖書ギリシア語小辞典』p410)ということです。それだけ「私は≪話し言葉≫にしたことは≪出来事≫にするものです」と言う名は、ウソとゴマカシの全くないお名前だといえるでしょう。
p64の7行目から。
一神教という成熟した考えを辿っていくと、さらなる帰結において、たった一つの結論に到達します。神の名を全く唱えず、神について語ることもしない、ということです。それじゃぁ、神は、一神教では潜在的には、名前もない神となり、言葉では言いよどむものとなり、現象世界に背後にあるまとまりとなり、≪いまここ≫で生きることの根っこになります。神は真実で、≪真の関係≫で、正義になります。神は、私が人間である限り、≪私≫なんですね。
驚くほど、フロムの記述がエリクソンの記述に近くなります。フロムよっても、神は、私Iとisで結ばれるほど、近くにまします。
それは、≪真の関係≫を神がいつもどこででも実現してくださるからこそ、可能になるisなんですね。
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