信頼とは、にじみ出る人格の香です。私どももこうありたいと思います。
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合理的信念は、生産的な、知的で情緒的な活動の中に根っこがあります。合理的に考える時、信頼の入り込む余地などない、と思われがちですが、合理的信念は、大事な要素になります。たとえば、科学者はどうやって新発見に至るのでしょうか? 科学者はまず実験に実験を重ねて、事実に事実を積み重ねるけれども、何を発見したいかと言うヴィジョンを持たずにそれらをしているのでしょうか? そんな感じで、真に重要な発見に至るケースなど、実際には非常に稀なことなんですね。幻想を追いかけても、大事な結論に到達することなど、決してありません。創造的な思考の成り行きは、どの分野で人が努力するのであっても、「人間らしいヴィジョン」と呼んでも構わないものをから始まることが多いんです。その「人間らしいヴィジョン」は、それを手に入れるまでには、相当研究に研究を重ねて、内省と観察を繰り返した結果なんですね。科学者がうまくデータを集めたり、1つの数学的な公式が上手に解けて、自分で気が付いたヴィジョンが見事の明らかになることは、仮説に辿りついたと言えるのかもしれませんね。仮説の意味するところを見極めるために、仮説を注意深く分析すると、より確実な仮説に至り、最終的には、普遍性のある結論に到達するのかもしれません。
科学においてさえ、最も大事なのは「人間らしいヴィジョン」。そうだろうと思います。高校生の時に、地学の大金先生が、ケプラーの法則を解説したときのことを思い出します。その時に教えていただいたことですが、ケプラーは、「惑星の動きは、神様の支配のもとにあるからには、美しい数学的な形になるはずだ」、というヴィジョンを持っていたというんですね。ですから、ほとんど円と見まがう実際の惑星の軌道を、楕円軌道だと、正確につかむことができた、という訳ですね。
金森俊朗さんの教育実践でも、「子どもの心には、センス・オブ・ワンダーがあって大人がそれを受け止めてやればどんどん大きく育っていく」(金森俊朗『いのちの教科書』p71)というヴィジョンに支えられているんですね。それがあるからこそ、大人が教えるというスタンスを止めて、子ども同士が、家族や地域の人々と一緒になって学び合う、あのピアカウンセリングのようなクラスづくりが可能になるんです。
カウンセリングでも、そのよって立つヴィジョンにはいつくかのものがありますけれども、「人間らしいヴィジョン」、たとえば、エリクソンに様な「人間皆兄弟」と「非暴力」のヴィジョンがあればこそ、あの詩人のようなまなざしのある臨床が可能になったことに、間違いないでしょう。
今の日本の政治が、こんなに無策で「人間らしい暮らし」を踏みにじっているのは、憲法9条や憲法13条などの、きわめて優れたヴィジョンがあるのに、わが安倍晋三首相はじめ政権にいる人々が、その極めて優れたヴィジョンを蔑ろにしているからなんですよね。
政治にしろ、授業にしろ、臨床にしろ、科学にしろ、何よりも必要なのは、「人間らしいヴィジョン」なんですね。その「人間らしいヴィジョン」をはっきり自覚するためには、弛まぬ努力と、内省と観察が非常に大事です。
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