「自分を確かにする」と「共に見る」の不思議
図らずも、内村鑑三の『後世への最大遺物』が話題になりました。内村鑑三が人生の挫折の中で、貧困に喘いでいる時に、この講演をしたというのですから、内村鑑三の精神的にしなやかな強さ、レ...
「共に見る」不思議。「共に見る」は、赤ちゃんと、赤ちゃんを抱くお母さんが見つめ合うところから始まります。見つめあう二人です。それはまるで「聖母子像」の絵ですね。まずは、一対一の関係が、2人で見つめあうところから「共に見る」は始まります。
その関係が十分にできると、次に来るのが、三つめのものごとを赤ちゃんとそのお母さんは「共に見る」ことが始まります。最初は、身の回りにある音のなるおもちゃや、おとうさんを赤ちゃんとそのお母さんは「共に見る」のかもしれません。それから、車や飛行機、ご飯やお布団などを「共に見る」ことが続き、今度は一緒にご飯を食べる予定を「共に見る」ことや昨日あった楽しいことを「共に見る」ことが続くのかもしれません。「共に見る」ことは、身の回りの《いまここ》から、過去や未来のこととなり、さらには、「価値があるもの」、「価値がないもの〕(バカ、最低、裏切者、バッチイもの、恥かしいこと、貧しいことなど)の区別(正と不正、浄と不浄、高と低、上と下などの分別)を「共に見る」ことに進みます。
学校でやっているほぼすべてはこの「共に見る」。しかし、ビックリするほどたくさんな子どもが、最初の一対一の関係、2人で見つめあう関係が、極端に不十分なのです。ですから、そう言うビックリするほどたくさんな子どもが、学校でやるほぼすべてのことが、上辺はともかく、本当にはできないのです。
さらに、困ったことは、今申し上げたあらゆる分別(正と不正、浄と不浄、高と低、上と下など)は「共に見る」ことを繰り返す中から、親などから子どもに伝えられることなのですが、それが伝わりません。ですから、ビックリするほどたくさんな子どもが、その種の分別が、上辺はともかく、本当には身に付けていないのです。
ですからわたくしは思います。長時間労働や、低賃金、「サービス残業」という名の強制労働で、お母さんを子どもから引きはがす政権や企業経営者は、極道以上の極悪人である、ということを。そんなことはさせないためには、このような極道以上の極悪人をしっかり批判する視点を持ち、それを政治に反映する意識を日々持ち合わせることが大事だと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます