害獣被害のいま むかし
私が子供の頃、里山のてっぺんまで畑で作物を作っていました。主なものはサツマイモ、ハダカムギ、サトウキビ、ササゲ(マメ科の一年草。葉は3枚の小葉からなる複葉。夏、蝶形で淡紫色の花が咲く。莢(さや)は細長く、弓なりに曲がる。種子や若い莢は食用。中央アフリカの原産、小豆によく似た実)などです。
サトウキビは冬に刈り取り、集落の協同作業場で加工して黒砂糖を作っていました。サトウキビをご存知でしょうか。辞書で引くと「イネ科の多年草。高さ2~4メートル。茎は中空ではなく、節がある。茎の汁を絞って砂糖(甘蔗糖)を作る。」とあります。その茎が山の子供のおやつでした。皮を口で咬んではぎ取り硬い縦の繊維のスポンジ状の中に含まれた甘い汁を、かじりとっては嚼んで少し青臭い甘い汁を楽しんでいました。残ったカスをぺっと吐き出してはまた嚼むのでした。
当時は砂糖ばかりでなく、各家庭で豆腐、コンニャク、味噌、醤油、ドブロク(密造)、近所では焼酎(密造)までつくっていました。ほとんど自給自足という生活です。足りないものは海の魚、肉類でしたが、肉といえばクジラ肉、それも筋ばっかりというものでした。すじ肉は、嚼んでも咬んでも、いつまでたってもそのままでしばらく嚼んでは、しかたがなく、ごくんと呑み込んだものです。
いま思うと実にのどかで、豊かな自然に包まれていたものです。田圃の溝には生き物で満ちあふれ、うなぎなどなんぼでもいました。田圃でタニシを拾っておかずにしたものです。谷川へいって少しの時間でおかずにできるだけの川エビがザルで捕れました。
風呂をわかすのは薪、ご飯を炊くのも薪、燃料は薪と木炭でした。冬、暖をとるのは囲炉裡の薪と炭、火鉢の炭でした。布団の中は湯たんぽでした。
夏は蚊帳を吊ってその中で寝ました。障子は開け放しているので蚊がたくさん飛び回っていました。蚊帳の中に入るにはコツがありました。からだが入るだけ持ち上げて素早く入るのです。いっしょに蚊が蚊帳の中に入ってくると最悪です。私は祖父母といっしょに寝ていましたので薄暗い電球の灯りをともし、みんなで蚊を追まわし、やっつけるまで寝ることはできませんでした。
山のてっぺんまで作っていたサツマイモは、おやつであり、主食の一つでもありました。芋が収穫できるようになると、毎日蒸かしたお芋はザルに入っていつでもありました。お米といっしょに炊いて芋ご飯にして食べました。当然、主食のご飯は麦飯です。麦が半分ほども入っていたと思います。白いご飯はお祝い事とか行事、正月ぐらいしか食べることはありませんでした。
麦飯は麦にある「すじ」が黒っぽいためご飯全体が黒っぽいのです。また白米だけのごはんと比べると、ぱさついていて、たまに食べる白いご飯はそれだけで子供心には「ごちそう」でした。白米ごはんをおかずに麦飯ごはんがたべられる、そんな感じですね。
「貴重なお米」をつくることができる水田は重要で、水のある所にはありとあらゆる所に田圃がつくられ、谷間には狭い田圃が棚田として上からしたまで大事にされていました。
夏草や兵どもが夢の跡
いまでは、夏草どころではなく雑木林に戻っていますが、きれいに積まれた石垣は今でも頑強に残っています。
お米がこれほど粗末にされる時代がくるとは夢にも思いませんでした。
「米国」の戦略で脱脂粉乳とともに給食にパンが使われ、「パンを食べると頭がよくなる」「パン食文化はナウい(古いなあ)」と思い込まされた日本人は、パン食に励み、「米食はダサイ(古いなあ)」「米食は太る」と思い込まされ、米食文化を蔑むようにさえなりました。日本で使われる小麦の自給率は2007年度にはたったの13%です。輸入先は「米国」が最大で2003年度、56.9%となっています。
してやれましたね。みなさん。瑞穂の国が「米国」に。それにしても当て字が米国とはなんという皮肉でしょう。麦で大成功したので今度は米国から米が狙われています。気をつけませう。
いまでは優れた「食」として日本の米食文化が世界中から注目され騒いでいるのですが、ブラックジョークのようでお嗤いです。
ぶはははは。と一笑い。
世界人口の推移
1900年 20億人
1960年 30億人
1974年 40億人
1987年 50億人
1999年 60億人
2006年 65億人
2050年 91億人(国連予測)
だそうです。
いつまでもお金さえ出せば食料は買えると思っている能天気な多くの日本人は、そろそろ農業を大事にしていかないと、とんでもないことになりますぜ。
わたくし、一農民はみなさんが飢え始めて、米作れ、米作れとせっつかれても自分の食べる分しか作りません。
実際は作りたくても作れなくなってきました。どれほど多くの里山の田畑が耕作放棄されて野山になっているのでしょう。恐ろしいことです。どれほど平野部の一等農地が道路にされ、無秩序な開発で宅地にされ、大型量販店が作られてきたことか。恐ろしいことです。
ずいぶん脱線しました。もとい。害獣被害へもどります。
サツマイモはいまではイノシシの大好物の一つです。現在、家の裏の畑でも襲われて食べられてしまいますが、その頃は遥か山のてっぺんまで芋畑でした。当時はイノシシやシカなどは動物園の生き物でした。見たことも話題になることもなかったのです。現在のように山道を車で走っていて、シカやカモシカ、イノシシに遭遇するなど想像すらできませんでした。こういう状況というのは当時だとアフリカを連想させるような出来事なのです。
動物による食害は野ウサギがササゲの茎を齧ったり、野ネズミがサツマイモを齧ったりとそれぐらいでした。
繰り返しますが、イノシシやシカなどの被害は、まったく、全然、一切、けっして、完全に一切合切なかったのです。
今ではどうでしょう。
被害が最も大きかった当時、近所での出来事です。夜、トイレに行こうとすると、家の下の田圃でヘンな音がしているので、いったい何事だろうと家に入って懐中電灯を持ってきて音のする方を照らしたそうです。すると光の輪の中にいたのは大きなイノシシ。
「ギロリと睨まれた」そうです。
その田圃はお米を収穫することはありませんでした。全滅させられました。これは稀な出来事ではありません。イノシシは人を恐れて夜活動することが多いのですが、いまや、もう真っ昼間、イノシシの群れが田圃を襲撃するのです。近くの集落の知人の話では、子供を7匹連れたイノシシが、車の目の前を通って自分が栽培する稲田へとことこ歩いて入って行ったので、車を停めて石を投げて追い払ったそうです。その田圃の稲も収穫することはできなかったそうです。彼の耕作していた中で、一番広い面積だった田圃は今では耕作放棄されています。
季節は春、チョウチョウが飛び、山桜が咲きます。山菜の収穫の喜びを味わいます。山里は一見のどかな風景ですが、被害は一年中続いています。
画像:盛期のタケノコ、大きいものは12キロ以上のものもあります。
タケノコ(主に孟宗竹、マダケ、ハチク)は山村にとって、これも生産物であり現金収入になります。私の集落でとれる孟宗竹のタケノコは市内では好評です。「ここのタケノコでないといかん」というファンもたくさんいます。ところが12月ごろからイノシシはタケノコを掘りだして食べ始めます。
11月ごろから孟宗竹はタケノコの準備がはじまり、土中深くにタケノコが生えています。まだ小型ですが年末のタケノコは希少で価格が高く値打ちものです。
ところでみなさん、タケノコ掘りをしたことがありますか?
土の中深く(20~30センチ)から出てくるタケノコをきれいに掘り取るのはコツもあり経験を積まないと難しいのですが、見つけることがまず大変です。土中にあるものを経験者が100本みつけることができても、初心者だと一本も見つけることはできないでしょう。
イノシシはこれを見事に見つけて掘り出して食べてしまいます。
どうやって見つけるのでしょうか、私たちベテランのタケノコ掘り師?は、地面の変化を見て発見しますが、イノシシは匂いを嗅ぎ取り見つけるのです。
ヨーロッパで、キノコを採るのに豚を使う話があります。キノコの匂いをたよりに豚が探し当てさせるというのですが、この能力をイノシシに発揮してもらって土中のタケノコを探させたらという想いが、タケノコを探しているといつもします。うちの愛猪「ハナ子」なら手伝ってくれるかもしれません。
ところでイノシシは豚と種が同じだということをご存知でしょうか。
イノシシ(学名:Sus scrofa Linnaeus, 1758)には世界で約30種の亜種がいるそうです。もとはアジア、ヨーロッパなどを中心に生息していたものが、人間によってアメリカ大陸、オーストラリアなどにも放され、生息域を広げたそうです。日本にはニホンイノシシとリュウキュウイノシシの2亜種がいます。
もともとブタは、イノシシを家畜化したものです。しかし、家畜化されたブタとイノシシを比べるとその運動能力、闘争能力などは月とスッポンほども違います。
また脱線しました。
イノシシのタケノコ食害ですが、とても優れた臭覚をもつ鼻で見つけだしたタケノコをどうやって掘ると思われますか。
ヒント
●クワを使って掘る ●手?(前足)で掘る ●後ろ足で掘る ●おならで土を吹き飛ばして掘る ●鼻で掘る ●鼻息で土を吹き飛ばして掘る ●土掘りの得意なアナグマに頼んでほる、などが考えられます(考えられないか)がいったい正解はどれでしょうか。そうそう、ぬかっておりました。この質問をすると●キバで掘るという答えが多かったですね。さて?
画像:2月にイノシシが掘って食べた跡
つづく
私が子供の頃、里山のてっぺんまで畑で作物を作っていました。主なものはサツマイモ、ハダカムギ、サトウキビ、ササゲ(マメ科の一年草。葉は3枚の小葉からなる複葉。夏、蝶形で淡紫色の花が咲く。莢(さや)は細長く、弓なりに曲がる。種子や若い莢は食用。中央アフリカの原産、小豆によく似た実)などです。
サトウキビは冬に刈り取り、集落の協同作業場で加工して黒砂糖を作っていました。サトウキビをご存知でしょうか。辞書で引くと「イネ科の多年草。高さ2~4メートル。茎は中空ではなく、節がある。茎の汁を絞って砂糖(甘蔗糖)を作る。」とあります。その茎が山の子供のおやつでした。皮を口で咬んではぎ取り硬い縦の繊維のスポンジ状の中に含まれた甘い汁を、かじりとっては嚼んで少し青臭い甘い汁を楽しんでいました。残ったカスをぺっと吐き出してはまた嚼むのでした。
当時は砂糖ばかりでなく、各家庭で豆腐、コンニャク、味噌、醤油、ドブロク(密造)、近所では焼酎(密造)までつくっていました。ほとんど自給自足という生活です。足りないものは海の魚、肉類でしたが、肉といえばクジラ肉、それも筋ばっかりというものでした。すじ肉は、嚼んでも咬んでも、いつまでたってもそのままでしばらく嚼んでは、しかたがなく、ごくんと呑み込んだものです。
いま思うと実にのどかで、豊かな自然に包まれていたものです。田圃の溝には生き物で満ちあふれ、うなぎなどなんぼでもいました。田圃でタニシを拾っておかずにしたものです。谷川へいって少しの時間でおかずにできるだけの川エビがザルで捕れました。
風呂をわかすのは薪、ご飯を炊くのも薪、燃料は薪と木炭でした。冬、暖をとるのは囲炉裡の薪と炭、火鉢の炭でした。布団の中は湯たんぽでした。
夏は蚊帳を吊ってその中で寝ました。障子は開け放しているので蚊がたくさん飛び回っていました。蚊帳の中に入るにはコツがありました。からだが入るだけ持ち上げて素早く入るのです。いっしょに蚊が蚊帳の中に入ってくると最悪です。私は祖父母といっしょに寝ていましたので薄暗い電球の灯りをともし、みんなで蚊を追まわし、やっつけるまで寝ることはできませんでした。
山のてっぺんまで作っていたサツマイモは、おやつであり、主食の一つでもありました。芋が収穫できるようになると、毎日蒸かしたお芋はザルに入っていつでもありました。お米といっしょに炊いて芋ご飯にして食べました。当然、主食のご飯は麦飯です。麦が半分ほども入っていたと思います。白いご飯はお祝い事とか行事、正月ぐらいしか食べることはありませんでした。
麦飯は麦にある「すじ」が黒っぽいためご飯全体が黒っぽいのです。また白米だけのごはんと比べると、ぱさついていて、たまに食べる白いご飯はそれだけで子供心には「ごちそう」でした。白米ごはんをおかずに麦飯ごはんがたべられる、そんな感じですね。
「貴重なお米」をつくることができる水田は重要で、水のある所にはありとあらゆる所に田圃がつくられ、谷間には狭い田圃が棚田として上からしたまで大事にされていました。
夏草や兵どもが夢の跡
いまでは、夏草どころではなく雑木林に戻っていますが、きれいに積まれた石垣は今でも頑強に残っています。
お米がこれほど粗末にされる時代がくるとは夢にも思いませんでした。
「米国」の戦略で脱脂粉乳とともに給食にパンが使われ、「パンを食べると頭がよくなる」「パン食文化はナウい(古いなあ)」と思い込まされた日本人は、パン食に励み、「米食はダサイ(古いなあ)」「米食は太る」と思い込まされ、米食文化を蔑むようにさえなりました。日本で使われる小麦の自給率は2007年度にはたったの13%です。輸入先は「米国」が最大で2003年度、56.9%となっています。
してやれましたね。みなさん。瑞穂の国が「米国」に。それにしても当て字が米国とはなんという皮肉でしょう。麦で大成功したので今度は米国から米が狙われています。気をつけませう。
いまでは優れた「食」として日本の米食文化が世界中から注目され騒いでいるのですが、ブラックジョークのようでお嗤いです。
ぶはははは。と一笑い。
世界人口の推移
1900年 20億人
1960年 30億人
1974年 40億人
1987年 50億人
1999年 60億人
2006年 65億人
2050年 91億人(国連予測)
だそうです。
いつまでもお金さえ出せば食料は買えると思っている能天気な多くの日本人は、そろそろ農業を大事にしていかないと、とんでもないことになりますぜ。
わたくし、一農民はみなさんが飢え始めて、米作れ、米作れとせっつかれても自分の食べる分しか作りません。
実際は作りたくても作れなくなってきました。どれほど多くの里山の田畑が耕作放棄されて野山になっているのでしょう。恐ろしいことです。どれほど平野部の一等農地が道路にされ、無秩序な開発で宅地にされ、大型量販店が作られてきたことか。恐ろしいことです。
ずいぶん脱線しました。もとい。害獣被害へもどります。
サツマイモはいまではイノシシの大好物の一つです。現在、家の裏の畑でも襲われて食べられてしまいますが、その頃は遥か山のてっぺんまで芋畑でした。当時はイノシシやシカなどは動物園の生き物でした。見たことも話題になることもなかったのです。現在のように山道を車で走っていて、シカやカモシカ、イノシシに遭遇するなど想像すらできませんでした。こういう状況というのは当時だとアフリカを連想させるような出来事なのです。
動物による食害は野ウサギがササゲの茎を齧ったり、野ネズミがサツマイモを齧ったりとそれぐらいでした。
繰り返しますが、イノシシやシカなどの被害は、まったく、全然、一切、けっして、完全に一切合切なかったのです。
今ではどうでしょう。
被害が最も大きかった当時、近所での出来事です。夜、トイレに行こうとすると、家の下の田圃でヘンな音がしているので、いったい何事だろうと家に入って懐中電灯を持ってきて音のする方を照らしたそうです。すると光の輪の中にいたのは大きなイノシシ。
「ギロリと睨まれた」そうです。
その田圃はお米を収穫することはありませんでした。全滅させられました。これは稀な出来事ではありません。イノシシは人を恐れて夜活動することが多いのですが、いまや、もう真っ昼間、イノシシの群れが田圃を襲撃するのです。近くの集落の知人の話では、子供を7匹連れたイノシシが、車の目の前を通って自分が栽培する稲田へとことこ歩いて入って行ったので、車を停めて石を投げて追い払ったそうです。その田圃の稲も収穫することはできなかったそうです。彼の耕作していた中で、一番広い面積だった田圃は今では耕作放棄されています。
季節は春、チョウチョウが飛び、山桜が咲きます。山菜の収穫の喜びを味わいます。山里は一見のどかな風景ですが、被害は一年中続いています。
画像:盛期のタケノコ、大きいものは12キロ以上のものもあります。
タケノコ(主に孟宗竹、マダケ、ハチク)は山村にとって、これも生産物であり現金収入になります。私の集落でとれる孟宗竹のタケノコは市内では好評です。「ここのタケノコでないといかん」というファンもたくさんいます。ところが12月ごろからイノシシはタケノコを掘りだして食べ始めます。
11月ごろから孟宗竹はタケノコの準備がはじまり、土中深くにタケノコが生えています。まだ小型ですが年末のタケノコは希少で価格が高く値打ちものです。
ところでみなさん、タケノコ掘りをしたことがありますか?
土の中深く(20~30センチ)から出てくるタケノコをきれいに掘り取るのはコツもあり経験を積まないと難しいのですが、見つけることがまず大変です。土中にあるものを経験者が100本みつけることができても、初心者だと一本も見つけることはできないでしょう。
イノシシはこれを見事に見つけて掘り出して食べてしまいます。
どうやって見つけるのでしょうか、私たちベテランのタケノコ掘り師?は、地面の変化を見て発見しますが、イノシシは匂いを嗅ぎ取り見つけるのです。
ヨーロッパで、キノコを採るのに豚を使う話があります。キノコの匂いをたよりに豚が探し当てさせるというのですが、この能力をイノシシに発揮してもらって土中のタケノコを探させたらという想いが、タケノコを探しているといつもします。うちの愛猪「ハナ子」なら手伝ってくれるかもしれません。
ところでイノシシは豚と種が同じだということをご存知でしょうか。
イノシシ(学名:Sus scrofa Linnaeus, 1758)には世界で約30種の亜種がいるそうです。もとはアジア、ヨーロッパなどを中心に生息していたものが、人間によってアメリカ大陸、オーストラリアなどにも放され、生息域を広げたそうです。日本にはニホンイノシシとリュウキュウイノシシの2亜種がいます。
もともとブタは、イノシシを家畜化したものです。しかし、家畜化されたブタとイノシシを比べるとその運動能力、闘争能力などは月とスッポンほども違います。
また脱線しました。
イノシシのタケノコ食害ですが、とても優れた臭覚をもつ鼻で見つけだしたタケノコをどうやって掘ると思われますか。
ヒント
●クワを使って掘る ●手?(前足)で掘る ●後ろ足で掘る ●おならで土を吹き飛ばして掘る ●鼻で掘る ●鼻息で土を吹き飛ばして掘る ●土掘りの得意なアナグマに頼んでほる、などが考えられます(考えられないか)がいったい正解はどれでしょうか。そうそう、ぬかっておりました。この質問をすると●キバで掘るという答えが多かったですね。さて?
画像:2月にイノシシが掘って食べた跡
つづく