土佐レッドアイ

アカメ釣りのパイオニアクラブ

第6回 アカメ釣り大会 台風こわい

2014-05-16 22:01:00 | アカメ釣り大会
 「台風怖い」
 これは主催する側として,これまで2回台風で大会が吹っ飛ばされていますので正直な気持ちです.

 マンクット・ウトア・チャーミー・ペパ・ウナラ・コンレイ,これは2013年8月に発生した台風のお名前です.個人的にはもう少し,日本風の可愛らしい(かわいくないか)名前(小百合とか裕子とか)を気象庁がつけたらよいと思うのですが,しかし,日本への接近が最も多いのはやはり9月10月のようです.
 
 今年の準備会では,開催時期をどうするかがやはり一番の重要課題になりました.ああだこうだの論議の結果,予備の日程をとっておけば中止ということにはなるまい.と,こういうことになりました.


 もしも8月予定の第6回アカメ釣り大会が天候不順で中止になった場合,
9月14日(日)15日(月 敬老の日)に行うことを決定しました.


 もし,それでもこの日に台風がやってきたら,もうそれはしかたありません.2014年のアカメ釣り大会は中止です.第6回大会は2015年に持ち越しです.

 アカメフォーラムは天候に左右されませんので(よほどの悪天候でない限り)こちらは予定どおりに開催します.

第5回アカメフォーラム 釣りの歴史(2)

2014-05-15 07:29:00 | アカメ釣り大会
九州のアカメ釣り



 この「かごしまの魚譜 潮の香りと渚の稚魚と」という本は1987年4月22日に出版されました.著者の今井貞彦さんは鹿児島大学名誉教授で1984年に亡くなられています.随筆など,新聞や雑誌に寄稿されていたなかの魚をテーマにしたものだけを集めて編集されたものです.
 アカメのことを「南日本新聞1981年11月5日」に「オキノフナ■ペットとして最高の魚」の題で書かれています.「先日の新聞で一.一メートル、十八キログラムのオキノフナ(スズキの一種)が、種子島の熊野港で釣りあげられたという記事を見た。オキノフナは標準名アカメという魚で、宮崎の大淀川で往時から有名なマルカである。
 マルカは、宮崎市の鮮魚商の店頭でも秋冬にはときどきみかけられる。スズキに似ているが、幅が広く丸みをおびており、全体は白銀色だが、目がルビーのように深い紅色で、アカメという和名はその特徴によるものであろう。店頭で見るマルカは三十センチメートルほどのものが多いが、古くは橘橋付近までさかのぼって来て、橋の上から子ネコを餌にして三尺(九十センチメートル)大のものを釣ったという言語道断の話しを聞いたことがある。
(青文字は引用)」

 子ネコを餌に大物を釣ったと聞いたと読んだときには,私も吃驚仰天しました.はたして,子ネコでアカメが釣れるのでしょうか?四万十川では「水を飲みに来た牛をアカメが引っぱり込んだ」という話しがあるそうですが,これはまあ,フフフと笑って済む話しですが.

 これを読んだあなた,不届きなことを連想しているでしょう. 試してはいけませんよ.絶対に.

先日の新聞で一.一メートル、十八キログラムのオキノフナ(スズキの一種)が、種子島の熊野港で釣りあげられたという記事を見た。」とありますが,その記事がこれです.

 


 この新聞の切り抜きは種子島へアカメ調査に行ったとき,釣った丸山さんご本人にお借りしてスキャンしたものです.写真の右側が丸山さんです.
 丸山さんは1981年9月19日に,中種子町熊野港で午前5時すぎ,ボラの一匹がけで1.1メートル,18㌔と1.06メートル,15㌔のオキノフナを釣っています.

 新聞には「丸山さんは釣り歴二十年だが、こんな大物は初めてで、地元の漁師も驚いた。友人の卸業・岩崎修さん(三五)に手伝ってもらって魚拓にとり、知人や親せきも集まってダレヤメのサカナにした。」青文字は引用.






 次に紹介するのは1982年、南日本新聞が23回にもわたって連載した「マルカよ!お前は」という、アカメをとりあげた大ルポルタージュです。宮崎県ではアカメをマルカという地方名でよびます。

 「小魚を追っかけ回し、猟師がせっかく釣った魚を平気な顔でヨコ取りするなど〝川のギャング〟として嫌われもののマルカだが、釣りの対象魚としては、これ以上のヤツはいない。エサに食らいついたらすごい力で水中を走り、釣り人をひきずりこむ猛烈なファイトは釣りの醍醐味を十二分に満喫させてくれる。
 大モノになればなるほど釣りとしては面白いが、食用としては、それほど歓迎される魚ではない。
 肉質が硬く、パサパサした感じであまりうまいとはいえないだけに、スズキやチヌなど食用としては最高の小魚類が多い県北では、マルカを食用の目的で釣る者はあまりいない。地元の漁師は漁場を荒らす川のギャング退治ということでこれをねらう。
 マルカのシーズンは夏から秋にかけてである。
(青文字は南日本新聞より引用)」


 魚拓をもった方は相田俊一さん(当時、美々津在住の釣り具商)で27キログラムのマルカを釣られています.下の写真の道具が相田さんが使ったタックルです.アカメの餌釣り用のものです.

 ロープにワイヤーのハリスを付け大型のハリをつけています.そのサイズを示すためにハリのそばにはロングピースの箱が置かれています.

つづく


第5回アカメフォーラム 釣りの歴史(1)

2014-05-08 07:20:00 | アカメ釣り大会
 13/7/13 第5回アカメフォーラムで土佐レッドアイ(2名)と元スワックの辻本 隆さんの3人で,「アカメ釣りの歴史 そして今  あした」というテーマの講演をしました.

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 講演要旨

 日本のアカメがはじめて文献にあらわれたのは1922年(大正11年)です.魚類分類学の草分けとして知られる,高知出身の田中茂穂先生が記載しました.

 いつ頃からアカメは釣られていたのでしょうか.

 1980年,週刊釣りサンデーに,徳島の浅川にある海老ヶ池でアカメを60年間も専門に釣ってきたという,池田さんという老人の話しがでてきます.逆算すると1920年(大正9年)からアカメを釣っていたことになります.四万十川では1921年(大正10年)から記録があります.この大正9年前後が最も早い記録だと思われます.
 ルアーフィッシングの初記録は,南日本新聞のルポルタージュ記事「マルカよ!お前は」に1981年にでます.釣り雑誌に最初に登場したのが1983年,大坪氏の巨大な写真と記事です.同じく84年には「アカメ軍団白書」でルアーの世界にセンセーションを巻き起こします. 

 こうした初期の時代,土佐レッドアイは新たなフィールドを開拓し,情報を発信してきました.スワックの辻本氏は遠征組での最初のアカメを釣りました.

 長野は釣り人と研究者が協力してアカメの生態を解明するという活動を1993年から始めます.当時,アカメの生態は研究者にもあまり知られていなかったため大きな誤解が広まり,それが常識になっていました.「アカメの主な棲息域は汽水域だ」「大淀川と四万十川にしかいない」「絶滅が危惧される」などです.

 高知県版レッドデータブック(2002年)のアカメはたいへん誤った評価になっていました.絶滅危惧IA類だとされたのです.此を基に県条例の保護種候補にされます.長野と町田吉彦高知大教授(当時)は捕獲データ542個体分をもとに検証を行いアカメは絶滅危惧種に該当しないという結果を得て県当局に届けます.

 釣り人や研究者などが集まり,アカメと自然を豊かにする会を結成(2007年)し,釣り大会,アカメフォーラムの開催,標識放流調査やアカメの生態調査を行なってきました.

 こうした取り組みにより,アカメを保護種候補から除外することができました.今後も,アカメの生態を明らかにし,広く知っていただく活動が重要です.
 このフォーラムもその一環です.それがアカメを正当に評価することに繋がります.

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 話しの内容とそれに加筆修正を加えながらお伝えしていきます.


 土佐レッドアイはアカメのルアーフィッシングを日本に広めた張本人たち。土佐レッドアイを立ち上げて以来,3人だけで行動してきました.元スワックの辻本 隆氏はアカメ遠征組として初めてアカメを釣り,スワックのメンバーの多くもアカメを釣獲しルアーの世界に話題を提供してきました.



土佐レッドアイ:左から 内川昭二  長野博光  大坪保成

 ここでメンバーのご紹介.
 
 左からリーダーの内川昭二.安芸市で1955年に生まれます.ハウス園芸農家でナスと水晶ブンタンをつくっています.釣りは何でもこい.父親譲りの漁船に乗って土佐湾を走り回っています.
 
 中央,長野博光.安芸市で1950年生まれ.ミカン農家でプロの猟師でもあります.1970年代からアカメとつきあっています.2003年にアカメのデータ収集のため釣りを止めました.それでも夢の中でアカメに挑戦する,現役の釣り人だと主張しています.

 右,大坪保成.安芸市で1955年生まれ.内川とは同級生.ハウス園芸農家でナスをつくっています.釣りは何でもやりますが,それぞれ名人級.特にアユ釣りでは高知県で名人と呼ばれてから久しい腕前.シーズン中はアユ命.フォーラム当日,アユの全国大会に出場が決まっていて県外に遠征中でした.


 大坪の初アカメ 1983年(アングリング誌No.2より)


 内川・長野の初アカメ 1984年


 辻本 隆さんの初アカメ 1986年

 写真はそれぞれ初めてアカメを釣ったときのものです.初めて手にしたあかめには各人各様の物語があります.

 土佐レッドアイは伝説のチームになって久しくなります.顔を合わせると腰が痛いの膝が痛いの頭が薄くなったぞ,物覚えが悪くなったなどとあちこちの故障の自慢で盛り上がります.それでもそれぞれの分野でぼつぼつやっているというのが現状です.

 今回は,アカメ釣りの初期からの話と,土佐レッドアイが誕生してからスワックとの交流時代の話しをします.そしてあしたはどうするかというふうにつなげていけたらと思います.

 こうして3人が並んでお話をするいうのは初体験でして,みなさんにお渡ししたレジュメの内容をお伝えできるだろうか,時間はだいじょうぶかと不安でいっぱいでした.
    
 


それでは,アカメと釣りを紹介した本からアカメ釣りの歴史をみていきます.

 日本のアカメがはじめて文献にあらわれたのは1922年(大正11年)です.田中茂穂先生が記載しています.田中先生は魚類分類学の草分けとして著名なかたで高知県出身です.その後,1940年(昭和15年)に発行された,この「魚」という本は,同じく田中先生が書かれたもので,アカメ釣りについてふれられているので紹介します.

田中茂穂著
昭和15年7月13日 創元社発行
売価 1円60銭


 アカメは35pに
 「鱸,アカメ、𩺊,この三種はすこぶる近いものであるが,鱸と𩺊とは温帯性のもので,アカメは熱帯魚である.それ故,まったく東京付近にはいないので,高知県及びその西南方,例えば宮崎などに多い.」とあります.

 またアカメ釣りについて37pに
 「アカメは高知でアカメ,宮崎でマルカと云う.中々勇壮な魚で,釣り師の喜ぶものである.鱸と同様に遡河するが,鱸と違って塩分のない所までは遡り得ないようである.」と書かれています.



「アカメは,それと接触した人たちに何かを感じさせる〝偉魚〟のようだ」


小さな大物 釣れ釣れ週記 第2集」という本は週刊つりサンデーの社長だった故小西和人さんが書いていた,釣れ釣れ週記という連載をまとめたものです.



週刊つりサンデー1980年10月26日号より


 小西さんはアカメを釣ってやろうと高知の浦戸湾へ来るのですが,最初に桂浜水族館に行きます. 「桂浜水族館の堀内誠さんという青年がせっせとアカメを釣ってきては,水族館でアカメを飼っているというので,なにはともあれ,堀内さんに会ってからである.

 小西さんは2日間の取材で10人ほどのアカメと関わりをもつ人に会うのですが,感想として,「みんなに共通していることは,アカメの話になると,その人の眼まで,アカメのように輝いてくることだ. アカメはそれと接触した人たちに何かを感じさせる〝偉魚〟のようだ.」と述べています.


 徳島のアカメ釣り

 また,最後の方にこうあります.「徳島の浅川にある海老が池,アカメを60年間も専門に釣ってきたという,池田さんという老人を尋ねた.」この記事が書かれた1980年から60年遡ると1920年(大正9年)から,この池田さんはアカメを釣ってきたということになります.




 つづく

ミツバチの逃去

2014-05-05 09:07:00 | 生き物色々
 先日紹介した,4月25日に重箱式巣箱に移したミツバチ群が4月28日に見に行くともぬけの空になっていました.
 

 右側が新居の重箱式巣箱.

 逃去していました.

 巣箱が気に入らなかったのか,
設置場所が気に入らなかったのか,あるいは巣箱の入り口の方向が気に入らなかった,はたまた,分封群が結集した土手の土の窪という採集しにくい場所から,蜂群を少しずつ何度も移す課程で女王蜂を傷つけてしまったのか,逃去の動機はわかりません.

 分封群を採集して新しい巣箱に移し,やれやれ全て収まったと安心していると,数日たつといつのまにやら空っぽになっていた,こうした経験はこれまでに何度もありました.

ミツバチの気持ちはわからないので,ほんとうにそうなのか,といわれると「さあ」と無責任に応えるしかないのですが,単純に「巣箱がきにいらんのじゃ」と出て行かれるというのが,もっとも多いように思います.

2014 別の巣箱の分封

2014-05-01 07:17:00 | 生き物色々
 2014年4月25日,ミカン畑で仕事をしていました.

 昨年分封して巣箱に入れたミツバチが大きな蜂群になっていましたので,いつ分封するか気になっていました.



 午後3時23分,気になるので巣箱を見に行くと様子がおかしいのです.たくさんのミツバチが巣箱の周りを飛び交い巣箱の外側には多くとまっています.



 巣箱の底にもたくさんいて,蜂球のようにかたまっています.
 
 これはおかしい.

 今から分封するのだろうかと巣箱の近くに座り込んで見ていました.そのうち外に出ていたミツバチたちはほとんどが巣箱の中に入りました.

 どうやらこれは分封したあとではないかと考えました.それなら近くに分封群がついているはずです.

 分封群が近くにいると,彼らは新しい住処を探すため偵察バチがそこから飛び立っているはずだから見つけることができます.

 巣箱から約30メートルほどはなれたミカン畑の山地から色々な方向に向かって何かが飛び出しています.

 やはり.

 自分の勘の鋭さを褒めながら近づきました.



 前回と同様に山地の土手の,土の中にかたまっていました.ミツバチたちはミカンの木は嫌いなのでしょうか.ミカンの木ならミツバチが好みそうな枝張りの木がいくらでも近くにあるのです.
 
 何十年も分封を見てきましたが,土の窪に蜂球をつくるのは,前回とこれで2回だけしか経験がありません.



 木の枝などに蜂球がぶら下がると,とても採集がしやすいのですが,こうした窪みに固まるとひとすくいで袋に入れることはできません.

 軽トラに常備してある,ネット付きの帽子をかぶり,軍手をしてレジ袋で運びます.一度に少量しか掬えませんので,蜂群を新しく構えた巣箱に運ぶのに20回あまりかかってしまいました.



 新しい巣箱は,3段の重箱式です.重箱式は蜂蜜採集の際,ミツバチにダメージが少なくとても合理的な巣箱です.
 
 この巣箱は愛媛の狩猟の弟子からもらったものです.




 手前の巣箱は分封前に棲んでいた古巣の巣箱で右が新しい重箱式巣箱です.

 2012年どこからかやってきて巣箱にはいって,2013年には2つになって,今年は昨年の2つがそれぞれ分封し4つになりました.