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徳冨蘆花「みみずのたわごと」烏山では鮮人を三名殺した。済まぬ事羞はずかしい事です。

2020年09月01日 | 韓国・北朝鮮問題

徳冨蘆花著「みみずのたわごと」に、「隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事はずかしい事です。」という記述があります。

『 九月一日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。甲州街道すじには潰れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが、粕谷は八幡様の鳥居が落ちたり、墓石がころんだ位の事で、私の宅なぞが損害のひどかった方でした。村の青年達が八幡様の鳥居を直した帰途かえりに立寄って、廊下の壁の大破たいはを片づけたり、地蔵様をき起したりしてくれました。あとは前述の如く素人大工で済ませて置きます。九月一日の午餐と夕食は、母屋の庭のかぶ立ちの山楓やまもみじの蔭でしたためました。今夜十二時前後に大震が来るかも知れぬ、世田ヶ谷の砲兵聯隊で二発大砲が鳴ったら、飛び出してくれ、という不思議な言いつぎが来て、三日の夜の十一時半から二時頃まで、庭の※(「木+解」、第3水準1-86-22)かしわの木に提灯ちょうちんつるして天の河の下で物語りなどして過ごした外は、唯一夜も家の外には寝ませんでした。四日にはもう京王電車が一部分通います。五日には電燈がつきます。十日目には東京の新聞がぼつぼつ来ました。十一日目には郵便が来ました。村の復旧は早い。済まぬ事ですが、震災の百ヶ日も過ぎて私共は未だ東京を見ません。然し程度の差こそあれ、私共も罹災者りさいしゃです。九月一日、二日、三日と三宵にわたり、庭の大椎おおしいくろく染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天をこがす猛火のほのおは私共の心魂しんこんおののかせました。頻繁な余震も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心をいためます。関心する人人の安否をたしかむるまでは、何日も何日も待たねばなりませんでした。大抵は無事でした。然し思いかけない折に、新聞が相識る人のを伝えたのも二三に止まりません。すべてが戦時気分でした。そうです。世界戦に日本はずさわるとは云うじょう、本舞台には出ませんでした。戦争過ぎて五年目に、日本は独舞台で欧洲中原の五年にわたる苦艱くげんを唯一日の間に甞めました。あの大戦に白耳義以外何処どこの国が日本のようにぐいと思うさま国都をかれたものがありましょう? 欧羅巴に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けたむちは大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父のらしめざる子あらんや」と云う筆法ひっぽうから云えば、災禍さいかの受けようにも日本は天の愛子であります。ところで此愛子の若いことがまたおびただしい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇まっくら逆上ぎゃくじょうします。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事はずかしい事です。』

兄の徳富蘇峰とは違った思想の蘆花でした。Blog記事をご参照ください。明治の文豪徳冨蘆花と義士安重根

(了)

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