徳冨蘆花著「みみずのたわごと」に、「隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。」という記述があります。
『 九月一日の地震に、千歳村は幸に大した損害はありませんでした。甲州街道筋には潰れ半潰れの家も出来、松沢病院では死人もありましたが、粕谷は八幡様の鳥居が落ちたり、墓石が転んだ位の事で、私の宅なぞが損害のひどかった方でした。村の青年達が八幡様の鳥居を直した帰途に立寄って、廊下の壁の大破を片づけたり、地蔵様を抱き起したりしてくれました。後は前述の如く素人大工で済ませて置きます。九月一日の午餐と夕食は、母屋の庭の株立ちの山楓の蔭でしたためました。今夜十二時前後に大震が来るかも知れぬ、世田ヶ谷の砲兵聯隊で二発大砲が鳴ったら、飛び出してくれ、という不思議な言いつぎが来て、三日の夜の十一時半から二時頃まで、庭のの木に提灯つるして天の河の下で物語りなどして過ごした外は、唯一夜も家の外には寝ませんでした。四日にはもう京王電車が一部分通います。五日には電燈がつきます。十日目には東京の新聞がぼつぼつ来ました。十一日目には郵便が来ました。村の復旧は早い。済まぬ事ですが、震災の百ヶ日も過ぎて私共は未だ東京を見ません。然し程度の差こそあれ、私共も罹災者です。九月一日、二日、三日と三宵に渉り、庭の大椎を黒く染めぬいて、東に東京、南に横浜、真赤に天を焦す猛火の焔は私共の心魂を悸かせました。頻繁な余震も頭を狂わせます。来る人、来る人の伝うる東京横浜の惨状も、累進的に私共の心を傷めます。関心する人人の安否を確むるまでは、何日も何日も待たねばなりませんでした。大抵は無事でした。然し思いかけない折に、新聞が相識る人の訃を伝えたのも二三に止まりません。すべてが戦時気分でした。然です。世界戦に日本は手ずさわるとは云う条、本舞台には出ませんでした。戦争過ぎて五年目に、日本は独舞台で欧洲中原の五年にわたる苦艱を唯一日の間に甞めました。あの大戦に白耳義以外何処の国が日本のようにぐいと思うさま国都を衝かれたものがありましょう? 欧羅巴に火と血を降らせたのは人間わざでしたが、日本の受けた鞭は大地震です。日本は人間の手で打たれず、自然の手でたたかれました。「誰か父の懲らしめざる子あらんや」と云う筆法から云えば、災禍の受け様にも日本は天の愛子であります。ところで此愛子の若いことがまた夥しい。強そうな事を言うて居て、まさかの時は腰がぬけます。真闇に逆上します。鮮人騒ぎは如何でした? 私共の村でもやはり騒ぎました。けたたましく警鐘が鳴り、「来たぞゥ」と壮丁の呼ぶ声も胸を轟かします。隣字の烏山では到頭労働に行く途中の鮮人を三名殺してしまいました。済まぬ事羞かしい事です。』
兄の徳富蘇峰とは違った思想の蘆花でした。Blog記事をご参照ください。明治の文豪徳冨蘆花と義士安重根
(了)