米ソの朝鮮占領政策と南北分断体制の形成過程―「解放」と「二つの政権」の相克 |
件名 : 38度線の由来について
【米ソの朝鮮占領と南北分断の形成過程】
李圭泰著 信山社出版株式会社1997年発行
第一章 連合国の朝鮮戦後構想と三八度線の画定過程
『マッカーサ将軍に送るべき指令および他の連合国政府との協定について緊急に検討するようになった。そのために8月10Elから11日の間、国務省のダン(JamesC.Dunn)、陸軍省のマックロイ(J。hnJ.McCloy)、海軍省のバード(RalphBard)など3人がペンタゴンのマックロイの部屋でSWNCCの徹夜会議を開いた。その日の会議は夜を徹して続けられた。、議題は日本降伏の受理に関する協定であった。国務省側は米軍ができるかぎり北の方で降伏を受理すべきであるという意見を提出した。軍はただちに動かせる兵力がないという事実に直面した。時間的、空間的にソ連軍が入る前にずっと北まで占領することは困難であった。軍の見解は、降伏を受理するためのわれわれの提案が、予想される軍事能力をはるかに越えるものであった場合、ソ連がそれを受け入れる可能性はほとんどないということであった。事実、時間もなかった。マックロイはポンスティール(Charles且Bonesteel)大佐と本人に、隣の部屋にいって、米軍ができるかぎり北の方で降伏を受理すべきだという政治的希望と、米軍進駐の能力の明白な限界を調和させる案を作成してくるように要請した。われわれはソ連が同意しなかった場合、米軍が現実的に進駐することは難しいと考えたが、米軍占領地域内に首都を含ませることが重要であったので、38度線を提案したのである。
このように38度線は、原爆の投下とソ連軍の参戦によって戦況が急激に変化していった状況のなかで、30分という短い時間のうちに、手元にあった壁掛けの小さな極東地図を利用して出来うる限り北方に位置する線、しかも首都ソウルを米占領地区に含む線として選ばれ、それがそのまま米ソ分割線になってしまったというのがその画定過程だったのである。
8月10日、日本側の降伏提案が行なわれるまで、戦後朝鮮に4ヶ国信託統治を実施するという口頭での合意以外は、連合国の間で合意された計画案は確かに存在しなかった。したがって突然状況が急変し、日本の降伏接収案を策定する必要が生じて、その代案として「一般命令第1号」を策定する過程で38度線が生まれたといえる。
しかしながら、戦況の急激な変化という状況で38度線が画定されたということが、当事者である米国の主張のように、単に朝鮮における日本軍の武装解除だけを目的とした「純粋に軍事的な決定」であるということにはならない。
前述したように、米国の政策担当者たちは、戦後朝鮮に口頭ではあっても連合国の間で合意された4ヶ国信託統治を実施するという計画案をもっていた。』
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【第2次世界大戦の終結と南北分断】
『1945年8月9日、日本に宣戦布告したソ連は満州と朝鮮半島北部に侵攻を開始した。この状況を受けてアメリカは対応を検討し、ソ連軍が単独で朝鮮半島を占領する事態を防ぐため、ソ連に対し半島の分割占領案を提示する事が決まった。しかし、具体的な分割方法については議論が紛糾して話が纏まらなかったため、その場に居合わせた2人の若い将校が呼ばれ(チャールズ・ボーンスティルと、後に国務長官となるディーン・ラスク)、分割方法の決定が彼らに託された[要出典]。その結果「北緯38度線で分割する」という案が提案され、この案をソ連側に提示しソ連はこれに同意する。』
38度線の由来については上記の論説があります。
何れにしても当時の米国国務省が深く関わっていたと思われますのでご教示ください。