日ソ戦争への道 ノモンハンから千島占領まで 価格:¥ 4,830(税込) 発売日:1999-07 |
日本陸海軍事典 価格:¥ 20,790(税込) 発売日:1997-07 |
管理人は新宿平和委員会の機関紙「平和通信」に下記の論考を投稿しました。
朝鮮半島38度線分断の歴史
日本平和委員会機関紙「平和新聞」の新年号で政治学者畑田重夫先生と千坂純事務局長の新春対談が掲載されました。畑田先生が「38度線以南の部隊は大本営直属、以北の部隊は関東軍直属でした。」と朝鮮半島38度線分断の歴史について発言をされていらっしゃいます。
私は「中国人遺棄毒ガス被害者損害賠償請求裁判」の支援運動にたずさわっている関係で、1945年8月9日のソ連軍参戦時の旧日本軍について研究をしてきましたので畑田先生の発言に疑問を感じました。そこで千坂事務局長に「畑田先生にどのような文献資料から発言をされたのかお確かめ下さい。」とメールを送信しましたところ、畑田先生から私の自宅に直接「文献資料」が郵送されてきました。そこには畑田先生の卒寿記念誌「感動あれば生涯青春」に掲載された論文『21世紀の日本と世界を展望する』と高峻石著『戦後朝・日関係史』他1点のコピーがありました。同封されていたお手紙には『朝鮮問題に関心のある者にとっては常識化いていることなのです。』と書かれていました。
旧日本軍は日露戦争時(1905年)韓国駐剳(ちゅうさつ)軍を設け、『韓国併合』に伴い、韓国を朝鮮に改め、軍も朝鮮駐剳軍に改称、軍司令官は朝鮮総督府の統率下に置かれました。45年2月、対ソ・対米作戦準備のため第17方面軍と朝鮮軍管区が設けられ、朝鮮軍は解消しました。(日本陸海軍事典)この経緯は別図をご参照下さい。
中国人戦争被害者の要求を支える会事務局長大谷猛夫さんから次のようなメールを頂きました。
「今日、韓国でいわれている38度線が敷かれた経過は、韓国の高校の歴史教科書にはこう書かれています。『ソ連参戦にあわてた米軍が、1945年8月12日に、ソ連軍に対して、対日武装解除の分担を提案して、ソ連も了承したとされています。この時に敷かれたのが38度線で、武装解除の分担だったといえます。』
ちなみに韓国では次のようにも言われています。
・・・・もし、日本軍がもっと早く降伏していたら、ソ連の参戦はなく、朝鮮半島はアメリカの占領下にはいり、分断はなかった。
・・・・もし、日本軍の降伏がさらにおくれていたら、ソ連は朝鮮半島を占領し、朝鮮は全体として社会主義国になり、こちらも分断はなかった。1945年8月15日降伏という絶妙のタイミングが今日の分断の根源である。・・・・と。
ソ連崩壊後の1999年に発刊された「日ソ戦争への道・ノモンハンから千島占領まで」(ポリス・スラヴィンスキー著)に8月15日の時点には、『既に米ソ間で合意に達した朝鮮の占領地域を三八度線に沿って分割する協定』があったとという記述がありますが、ヤルタ会談では、朝鮮の戦後処理案として「米・ソ・英・中の四ヵ国による信託統治案を合意した」(李圭泰著「米ソの朝鮮占領政策と南北分断の形成過程」)ということが正確ではないかと考えています。
連合国最高司令官 ダグラス・マッカーサーが1945年9月2日に発令した『一般命令第1号(陸、海軍)」(ロ)満洲、北緯三十八度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島二在ル日本國ノ先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東最高司令官二降伏スヘシ』即ち、「北緯三十八度線以南の日本軍はアメリカ軍に降伏すべし」というこの文書が現在における『朝鮮半島38度線分断の歴史的な常識』だと思っています。 何故「38度線なのか」については諸説ありますので、さらに研究をしていきたいと思っております。