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国連がヘイトスピーチで日本に勧告【下】神功皇后編

2014年09月02日 | 韓国・北朝鮮問題

 今朝の毎日新聞に『記者の目:売れる「嫌韓憎中」=青島顕(東京社会部)』という記事がありました。管理人は「嫌韓」と「憎中」は意味合いが少し違うような気がします。

 日清戦争の下関条約によって、清国の台湾と澎湖諸島が日本の植民地になり、1910年に韓国併合条約によって大韓帝国も日本の植民となりました。同じ植民地であっても広大な領土をもつ清(辛亥革命後は中華民国)にとっては、台湾は小さな島である一方、大韓帝国という独立した国家を植民地にした日本の植民地政策の違いと同時に、被植民地人民の抵抗にも大きな違いがありました。治安維持法によって日本人は死刑にはなっていませんが、朝鮮人は死刑判決がありました。(小林多喜二らは特高による虐殺)

 韓国併合条約を締結した夜「小早川、加藤、小西らが世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と朝鮮総督寺内正毅は得意げに詠みました。一方石川啄木は「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」と憂いたのです。管理人はこの短歌を手づくりの「靖国神社ガイドブック」に載せていますがが、遊就館展示パネルの「征韓論」と「神功皇后」から勉強しなければ、韓国・朝鮮の人たちが首相の靖国参拝に何故反発するのかを理解することは出来ないと感じていました。【注】小早川隆景(文禄の役)、小早川秀秋(慶長の役)、加藤清正(文禄の役・慶長の役)小西行長(文禄の役)

 明治の文豪徳冨蘆花は、大正2(1913)年妻愛子らをつれて九州・満州:朝鮮・山陰を旅行します。平壌と京城を観光しますが、日本人から差別を受けている朝鮮人の姿を見聞したり、市内に別荘を持っている兄蘇峰に反感を持ち、京城駅頭での別れが14年間の疎遠になります。紀行文「死の蔭に」の中に、逗子に住んでいた両親を訪ねた時を次のように記述しています。

『朝鮮の不快を語る余を耳遠い父が縁側から聞きつけて、「どうし、素盞鳴尊(すさのをのみこと)、神功皇后(じんぐうこうごう)以來、朝鮮な日本(にっぽん)の有(もん)だもん、色々言ふこたア出來(でけ)ん」と入って來い來い言ふた。』

とあるように、多くの日本人は「神功皇后」の「三韓征伐」によって「朝鮮半島」の植民地化は当然のこととすり込まれていましたが、「朝鮮侵略」の思想的源流は、「吉田松陰の朝鮮論」とにあるのではないかと管理人は考えています。

【参考文献】『吉田松陰の朝鮮論』 「松陰の対外政策、とりわけ朝鮮に関する認識は、どのようなものであったのか。彼が、朝鮮に関して述べているところを抜書きしてメモとして書いてみたい(引用は山口県教育会編『吉田松陰全集』(大和書房、一九七二~一九七四年)大衆版全10巻・別巻1)。」

 大日本帝国の敗戦後は、「カイロ宣言」で約束されている通り、朝鮮半島は独立出来たはずですが、米ソの冷戦によって北緯三十八度線で南北に分断され、大韓民国と朝鮮人民共和国が成立します。【注】「三大国ハ朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」

【管理人ブログ記事「朝鮮半島分断の歴史」を参照】

【防衛省防衛研究所史料閲覧室蔵】「在朝鮮米国軍司令官宛朝鮮北緯三十八度線以南ノ地域に在ル日本陸海軍高級司令官ノ降伏書正文」

下記は、防衛省防衛研究所史料閲覧室で閲覧し、コピーしたものですが、当時の日本政府や軍部の中にあった在日朝鮮人を帰国させない考えがあった貴重な証拠だと考えてます。

朝鮮軍報導部長長屋尚作「朝鮮の状況報告」

「(略)

 留日鮮人ノ歸還二就テ

 在鮮日本人ノ引揚ゲト在内地朝鮮人ノ歸還ト十分調子ヲ会セ其ノ数ト時期的按配トヲ適切ナラシムル要アリ

 (略)」

1950年の朝鮮戦争によって日本への渡航など、「在日コリアン」問題は現在に到るも複雑な要因が横たわっています。このような歴史認識を持たないで「嫌韓」を叫ぶ人種差別のヘイトスピーチは絶対に許すことが出来ません。


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