コンサートマスター高橋広氏の手記
<愛知祝祭管感想 ブルックナー編>
色々な想いが深すぎて、十分にまとめることは出来ませんし、いまだ虚脱状態から抜け出せずにおりますが、愛知祝祭管の旗揚げ公演が無事終了致しました。
これまで名古屋はおろかアマオケそのものを振られたことがない福島章恭先生をお呼びして、いきなり究極の交響曲ともいえるブルックナー8番を演奏してしまおうということ自体が相当冒険というのか、チャレンジングな企画だったわけですが、結果としては、未曾有のブルックナー像を打ち立てた記念碑的な演奏になったと思います。
往年の大巨匠の如き悠然たるテンポで演奏することは、ブルクネリアンにとって見果てぬ夢ですし、他ではあり得ないくらい独自な解釈の指揮のもと演奏することは、熱心なクラシックマニアにとって見果てぬ夢です。ただこれらはどちらも滅多に実現するものではありません。前者については、共感なしでただ長いテンポで演奏するのでは弛緩するだけで意味がないですし、後者についても、奇矯であることをアピールせんがための演奏であれば、それは唾棄すべきもので、そんな演奏をしても価値がありません。その意味で、前者に近い体験が2,3回、後者についてはほぼ皆無でした。
ところが福島先生によるブルックナーは、チェリビダッケを除く歴史上すべての巨匠を上回る「久遠」とでも形容したい巨大なスケールの演奏(通常80分程度のこの曲がなんと95分!)となり、二つの夢は同時にかなってしまいました。何より嬉しいのは、その恐るべきスローテンポが「奇矯な個性を持つことで他人の目を引こう」というショーマンシップではなく、ご自身のブルックナー観を吐露した必然的な帰結であったという点です。
実際、非常に深い呼吸に支えられた福島先生のテンポは、タイムを計れば極度にゆったりとしているのですが、体感的には実に自然。その呼吸感を共有すれば、音楽は弛緩することも違和感を感じることもなく、それどころか従来のテンポで演奏した時よりも遙かに豊かな音楽が紡がれていきます。公演本番においても、実測値としては常識はずれのテンポに、オーケストラは嬉々として従い、聴衆も水を打ったように静まり返り、特に第三楽章などは聴衆の呼吸が我々と同化していることさえ肌で感じられました。いつしか奏者・聴衆は一体となり、「愛」に溢れたブルックナー宇宙の本質が会場に満ち満ちていたものでした。
哲学者のカントは、物の本質は『物自体』というものであって、それを人間は決して認知することは出来ず、人間に出来るのは『物自体』の外側にあるものを見て、その限りにおいて判断することだけだ、と説きました。その形容を借りるならば、今回僕は『ブルックナー自体』を認知し、指揮者とオケとで本来あるがままのブルックナーの姿(『ブルックナー自体』)を原木から彫り出す行為の一端を担ったという自覚があります。夏目漱石『夢十夜』第六夜において、運慶が仁王像を彫っている様が「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と形容されたような行為といえましょうか。
実測値では異常であっても、これこそ正にブルックナーの本質、ブルックナーそのものの世界。二十年を超すブルクネリアンである僕は、演奏しながら「やっと自分はここに帰ってきのだ」という感動さえ抱いたものでした。アンケートやネットでの感想、知り合いから頂いたメイルの感想のいずれを読んでも、「長すぎ」「たるかった」といった感想は皆無。むしろブルックナー好きの方からは、あの異様な演奏時間にも拘わらず「正統的ブルックナー」と書いていただけて、「本物は伝わるし受け止めてもらえるものだ」と強く実感しました。「アマオケ史上でも最高レベルの演奏であったと賛辞を差し上げて良い名演」「心の奥深くのさらに奥深くまで刻まれるようなものスゴい瞬間に立ち会えた幸福に震えています」といったお客様の御感想は、我々にとっては最高のご褒美でありました。
どうせアマチュアだから無理だろうなどと妥協をせずに、思うがままのブルックナー像を提示して下さった福島先生、そしてそれを受け入れ最善のパフォーマンスで応えきってくださったオケの皆さん(特に驚異的テンポをものともせずついていってくれた管楽器陣)に、ただただ心から感謝を申し上げます。そして聴きに来られ、舞台と完全に一体化して下さったお客さまにも深く感謝を致しております。
<愛知祝祭管感想 ブルックナー編>
色々な想いが深すぎて、十分にまとめることは出来ませんし、いまだ虚脱状態から抜け出せずにおりますが、愛知祝祭管の旗揚げ公演が無事終了致しました。
これまで名古屋はおろかアマオケそのものを振られたことがない福島章恭先生をお呼びして、いきなり究極の交響曲ともいえるブルックナー8番を演奏してしまおうということ自体が相当冒険というのか、チャレンジングな企画だったわけですが、結果としては、未曾有のブルックナー像を打ち立てた記念碑的な演奏になったと思います。
往年の大巨匠の如き悠然たるテンポで演奏することは、ブルクネリアンにとって見果てぬ夢ですし、他ではあり得ないくらい独自な解釈の指揮のもと演奏することは、熱心なクラシックマニアにとって見果てぬ夢です。ただこれらはどちらも滅多に実現するものではありません。前者については、共感なしでただ長いテンポで演奏するのでは弛緩するだけで意味がないですし、後者についても、奇矯であることをアピールせんがための演奏であれば、それは唾棄すべきもので、そんな演奏をしても価値がありません。その意味で、前者に近い体験が2,3回、後者についてはほぼ皆無でした。
ところが福島先生によるブルックナーは、チェリビダッケを除く歴史上すべての巨匠を上回る「久遠」とでも形容したい巨大なスケールの演奏(通常80分程度のこの曲がなんと95分!)となり、二つの夢は同時にかなってしまいました。何より嬉しいのは、その恐るべきスローテンポが「奇矯な個性を持つことで他人の目を引こう」というショーマンシップではなく、ご自身のブルックナー観を吐露した必然的な帰結であったという点です。
実際、非常に深い呼吸に支えられた福島先生のテンポは、タイムを計れば極度にゆったりとしているのですが、体感的には実に自然。その呼吸感を共有すれば、音楽は弛緩することも違和感を感じることもなく、それどころか従来のテンポで演奏した時よりも遙かに豊かな音楽が紡がれていきます。公演本番においても、実測値としては常識はずれのテンポに、オーケストラは嬉々として従い、聴衆も水を打ったように静まり返り、特に第三楽章などは聴衆の呼吸が我々と同化していることさえ肌で感じられました。いつしか奏者・聴衆は一体となり、「愛」に溢れたブルックナー宇宙の本質が会場に満ち満ちていたものでした。
哲学者のカントは、物の本質は『物自体』というものであって、それを人間は決して認知することは出来ず、人間に出来るのは『物自体』の外側にあるものを見て、その限りにおいて判断することだけだ、と説きました。その形容を借りるならば、今回僕は『ブルックナー自体』を認知し、指揮者とオケとで本来あるがままのブルックナーの姿(『ブルックナー自体』)を原木から彫り出す行為の一端を担ったという自覚があります。夏目漱石『夢十夜』第六夜において、運慶が仁王像を彫っている様が「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」と形容されたような行為といえましょうか。
実測値では異常であっても、これこそ正にブルックナーの本質、ブルックナーそのものの世界。二十年を超すブルクネリアンである僕は、演奏しながら「やっと自分はここに帰ってきのだ」という感動さえ抱いたものでした。アンケートやネットでの感想、知り合いから頂いたメイルの感想のいずれを読んでも、「長すぎ」「たるかった」といった感想は皆無。むしろブルックナー好きの方からは、あの異様な演奏時間にも拘わらず「正統的ブルックナー」と書いていただけて、「本物は伝わるし受け止めてもらえるものだ」と強く実感しました。「アマオケ史上でも最高レベルの演奏であったと賛辞を差し上げて良い名演」「心の奥深くのさらに奥深くまで刻まれるようなものスゴい瞬間に立ち会えた幸福に震えています」といったお客様の御感想は、我々にとっては最高のご褒美でありました。
どうせアマチュアだから無理だろうなどと妥協をせずに、思うがままのブルックナー像を提示して下さった福島先生、そしてそれを受け入れ最善のパフォーマンスで応えきってくださったオケの皆さん(特に驚異的テンポをものともせずついていってくれた管楽器陣)に、ただただ心から感謝を申し上げます。そして聴きに来られ、舞台と完全に一体化して下さったお客さまにも深く感謝を致しております。