関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
文字数オーバーしたので、Vol.5をつくりました。
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4から
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6
■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
33.金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺
〔足利上総介義兼〕
公式Web
足利市Web資料
栃木県足利市家富町2220
真言宗大日派
御本尊:大日如来
札所:関東八十八箇所第16番、下野三十三観音霊場第28番、両野観音霊場第24番、足利七福神(大黒天)
高い家格と実力をもちながら、御家人として表舞台にあまり出てこなかった人々がいます。
足利義兼もそのひとりではないでしょうか。
しかし、調べていくと鎌倉幕府内の政争で、じつは足利氏は重要な役割を担っていたことがわかります。
鎌倉幕府における足利氏の立ち位置を捉えるとき「御門葉(ごもんよう)」という概念は避けて通れません。
「御門葉」は制度で定めた地位ではないですが、『吾妻鏡』にしばしば出てきます。
それは、たいてい武士の面目にかかわる場面で、甲斐源氏の板垣兼信は桓武平氏の土肥実平との競り合いで「御門葉」を引き合いに出し(元暦元年三月十七日条)、毛呂季光と中条家長の諍いでは、季光は自身が「御門葉」に準じる格にあるとし、家長の非礼を咎めています。(建久六年正月八日条)
職制の規定はなく任命もされていないので、誰が「御門葉」だったのかは確定できませんが、『吾妻鏡』文治元年(1185年)十月廿四日 南御堂(勝長壽院)供養供奉者(→ 原典(国会図書館D.C))で、毛呂季光より上位に記されているのは以下の9名です。
1.武藏守(平賀)義信 清和源氏義光流
2.遠江守(安田)義定 清和源氏義光流(甲斐源氏)
3.參河守(源)範頼 清和源氏為義流(河内源氏)
4.信濃守(加々美)遠光 清和源氏義光流(甲斐源氏)
5.相摸守(大内)惟義 清和源氏義光流
6.駿河守(源)廣綱 清和源氏頼光流(多田源氏)
7.上総介(足利)義兼 清和源氏義国流(河内源氏)
8.伊豆守(山名)義範 清和源氏義国流(河内源氏)
9.越後守(安田)義資 清和源氏義光流(甲斐源氏)
(10.豊後守(毛呂)季光 藤原北家小野宮流)
(11.北條四郎(時政) 桓武平氏直方流)
(12.同小四郎(義時) 桓武平氏直方流)
いずれも嫡流系の多田源氏、ないし八幡太郎義家公、新羅三郎義光公の血筋の由緒正しい清和源氏で国司に任ぜられ、このあたりが「御門葉」と認識されていたのでは。
清和源氏が必須条件とみられ、誇り高い藤原北家の毛呂季光でさえ、自らを「『御門葉』に準ずる」としています。
頼朝公の義父・北條時政は11番目、その子義時は12番目ですから、「御門葉」の格は北條(北条)氏より上であったことがわかります。
(詳細は、→こちら(鎌倉殿の御家人))をご覧くださいませ。また、清和源氏の略系図については→こちら(全国山名氏一族会資料)をご覧ください。)
足利義兼の7番目は北関東の武将では筆頭で、その点からも「御門葉」の資格を備えていたことがわかります。
時代が下った宝治二年(1248年)においてなお、義兼の子・義氏は結城朝光との争論で自らを「吾是右大將家御氏族也」とし、「御門葉」は使っていないものの、源氏宗家(右大將家)の御氏族としての矜持をもっていたことがわかります。(『吾妻鏡』宝治二年閏十二月廿八日条)
足利義兼は清和源氏義国流で八幡太郎義家公のひ孫。
足利氏二代当主として下野国足利荘に拠って勢力を蓄えました。
父・義康が早世したため若年で足利氏の家督を継ぎ、治承四年(1180年)の源頼朝公旗揚げに早くから従軍しました。
先年の保元の乱では、父・義康は源義朝公とともに後白河天皇側につきました。
また、義兼の室は藤原季範の息女(ないし養女)とされ、季範の母は尾張氏(熱田神宮大宮司職)の出で、季範の息女は源頼朝の母(由良御前)なので、頼朝公と義兼はともに藤原季範の娘を娶った(頼朝公とは相婿の間柄の)可能性があります。
このような関係のふかさから、早々に頼朝公の麾下に参じたのかもしれません。
また、以仁王の猶母・暲子内親王(八条院)の蔵人であったことを指摘する説もあります。
木曽義仲の遺児・義高の残党討伐に加わり、源平合戦では範頼公に属して従軍。
その戦功により上総国国司(上総介)に推挙され受任。
奥州合戦にも従軍し、建久元年(1190年)の奥州大河兼任の乱では追討使としてこれを平定しています。
「御門葉」としての家格、頼朝公との縁のふかさ、そしてここまでの経歴からすると、「十三人の合議制」(1999年)に名を連ねてもおかしくないですが、これに先んじて建久六年(1195年)3月、東大寺で出家し義称と称しました。
すでに1184年に甲斐源氏の嫡流筋の一条忠頼が謀殺、1190年には多田源氏の源廣綱が逐電し、甲斐源氏の有力者板垣兼信が配流、1193年には源範頼公が失脚、次いで甲斐源氏の安田義資、義定が断罪されるなど源氏一族の失脚粛清が相次ぎ、頼朝公との縁がふかい足利義兼といえども、保身のために出家せざるを得なかったという見方があります。
ことに自身より上位の範頼公の失脚(1193年)、安田義定の断罪(1194年)が大きかったのではないでしょうか。
出家後、足利氏の家督は三男の義氏が継ぎ、幾多の政変をこなして幕府重鎮の地位を保ちました。
これは、義氏が北条時政の息女・時子の実子であったためという考え方もありますが、実際はそんな生やさしい理由ではなかったように思われます。
北条時政には多くの娘がおり、政子は頼朝公、阿波局は阿野全成(頼朝公の異母弟)、時子は足利義兼に嫁いでいます。
さらに、有力御家人の稲毛重成、畠山重忠、平賀朝雅、宇都宮頼綱などにも嫁いでいますが、阿野全成、稲毛重成、畠山重忠、平賀朝雅、宇都宮頼綱はいずれも失脚または出家しているのです。
平賀氏、宇都宮氏は元久二年(1205年)の「牧氏の変」(北条時政と妻・牧の方が企図したとされる政変)を受けての失脚ですが、畠山重忠、稲毛重成の失脚はナゾが多いものとされています。
北条時政の娘を娶り、以降鎌倉御家人の重鎮として関東で命脈を保ったのはなんと足利氏しかいないのです。(宇都宮氏は関西に拠点を移す)
足利氏は一貫して北条氏との連携姿勢を崩さず、第五代頼氏まではすべて北条一門から迎えた嫁の子を嫡子としています。なので足利氏では末子相続が多くなっています。
これは足利氏が立場を維持するうえでの、大きなファクターだったと思われます。
実際、北条系を外れた第六代家時は「自分は(八幡太郎義家公)七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という有名な置文をのこして自害しています。
そして、八幡太郎義家公七代、家時から二代後の足利尊氏は、北条氏を倒して置文どおりに天下を取っています。
(この置文については後世の創作とする説もありますが、北条氏の縁戚を外れた足利氏の声望がにわかに高まったことは事実としてあるかと思います。)
清和源氏の流れをみると、武家の統領、八幡太郎義家公の次男・義親公が嫡流で義朝公・頼朝公ラインにつながりますが、三代実朝公で源家将軍家は断絶。
長男・義宗、三男・義忠は早世したため、義家公の嫡流は四男・義国となり、その長男の(新田)義重と次男の(足利)義康につながります。
新田義重は源家の名流として人望も実力もあったといいますが、頼朝公とのつながりがうすく、旗揚げにも遅参したため弟・足利義康ほどの厚遇は得られなかったとされます。
ただし、足利尊氏も新田義貞も北条討伐の主役ですから、やはり清和源氏義国流に対する「武家の統領」の声望は高かったようです。
また、これは筆者の勝手な想像ですが、北条氏は狭隘な伊豆の出身で、御家人のなかで突出した軍事力をもっていたとは思えません。
一方、足利氏は北関東の広大な所領を背景に、強大な武力を蓄えていたとみられます。
御家人が北条氏とことを構えるとき、北条氏のみならず縁戚の足利氏も同時に敵にまわすという事実は、北条氏の権力の大きな支えになったのでは。
北条氏が足利氏を優遇した(排斥できなかった)背景にはこのようなパワー・バランスもあったかもしれません。
なお、義兼の正室時子について「蛭子伝説」というナゾめいた言い伝えがありますが、その意味するところはよくわかりません。
藤姓足利氏の足利忠綱が登場することから、義兼(源姓足利氏)と藤姓足利氏の確執を暗示したものかもしれません。
出家後の義兼は足利荘の樺崎寺(現在の樺崎八幡宮)に隠棲し、逝去後は同地に葬られました。(樺崎八幡宮本殿が義兼の廟所である赤御堂とされる)
樺崎八幡宮は御朱印を授与されているようですが筆者は未拝受なので、義兼の居館跡に建立・整備された足利氏の氏寺・鑁阿寺(ばんなじ)をご紹介します。
前段が長くなったので簡単にいきます。
鑁阿寺は、建久七年(1197年)足利義兼により建立された真言宗大日派の本山です。
本尊は足利氏(ないし義兼)の守り本尊とされる大日如来です。
4万平米にも及ぶ敷地はもともと足利氏館で、現在も土塁や堀をめぐらして中世の武士館の面影を残し「史跡足利氏宅跡」として国の史跡名勝天然記念物に指定されています。
また、「日本百名城」のひとつでもあります。
義兼(戒名:鑁阿)が僧理真を招聘、発心得度して館内に持仏堂(堀内御堂)を建てたのが開基とされ、義兼の死後、子・義氏が本堂はじめ伽藍を建立して足利氏の氏寺にしています。
以降、足利氏の隆盛を背景に山内整備が進み、将軍家・足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
【写真 上(左)】 反橋と楼門
【写真 下(右)】 寺号標
名刹だけに寺宝も多く、本堂(入母屋造本瓦葺 桁行5間、梁間5間 折衷様、正安元年(1299年)建立)は国宝。
国指定重要文化財として鐘楼、経堂、金銅鑁字御正体など、栃木県指定有形文化財として木造大日如来像、御霊屋、多宝塔、山門(仁王門)などがあります。
山内は広すぎてややとりとめのない印象ですが、山内入口の重厚な反橋と楼門、本堂をはじめ堂宇群もさすがに風格を備えています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
本堂は御本尊大日如来、左脇本尊 聖観世音菩薩 歓喜天、右脇本尊 薬師如来 弘法大師とあります。
【写真 上(左)】 中御堂(不動堂)
【写真 下(右)】 経堂
中御堂(不動堂)は義兼の創建、生実御所国朝の再建で成田山からの勧請。
御本尊の不動明王は興教大師のお作とも伝わります。
(一切)経堂は、義兼が妻時子の供養のため一切経会を修する道場として創建、関東管領足利満兼の再建とされます。
【写真 上(左)】 多宝塔
【写真 下(右)】 大酉堂
多宝塔は説明板によると徳川五代将軍家綱公の母・桂昌院、あるいはそれ以前の建立で、「徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したるが故に徳川氏は祖先発祥の地なるを以て、此の宝塔を祖先の菩提供養のため再度寄進した。」とあります。
新田氏宗家の本領は上野国碓氷郡八幡荘(現・安中市)とみられていますが、新田庄(現・太田市)には徳川氏ゆかりの寺院や遺跡がたくさんあり、ここ足利にも律儀にゆかりの事物が配置されていることは、徳川氏の新田氏発祥説(清和源氏義国流説)へのこだわりを感じさせます。
大酉堂は足利尊氏公を祀るお堂として室町時代に建立と伝わります。
本堂裏手の北側にある智願寺殿御霊屋(蛭子堂)は、義兼の正室(北条)時子をお祀りするものです。
【写真 上(左)】 校倉(大黒天)
【写真 下(右)】 北門
御朱印は本堂脇の授与所にて拝受しました。
札所として関東八十八箇所第16番、下野三十三観音霊場第28番の御朱印を授与。
両野観音霊場第24番も授与情報がありますが、足利七福神(大黒天)は不授与のようです。
【写真 上(左)】 関東八十八箇所の御朱印
【写真 下(右)】 下野三十三観音霊場の御朱印
34.多福山 一乗院 大寳寺
〔佐竹四郎秀義〕
鎌倉市Web資料
鎌倉市観光協会Web
神奈川県鎌倉市大町3-6-22
日蓮宗
御本尊:三宝諸尊(『鎌倉市史 社寺編』)
佐竹氏は新羅三郎源義光公嫡流の常陸の名族。
源義光公の嫡男・義業の子・昌義 - 隆義 - 秀義とつづきます。
義光公の室(義業の母)は 平(吉田)清幹の息女です。
桓武天皇の孫の平高望(高望王)- 平国香 - 平(大掾)繁盛 - 平(大掾・多気)維幹 - 平(多気)為幹 - 平(多気)重幹 - 平(吉田)清幹 - 娘(義光公の室) - 源義業 - 佐竹昌義の流れで、佐竹氏は清和源氏義光流嫡流であるとともに、桓武平氏の流れもひくという名族です。
いわゆる常陸平氏は、平(吉田)清幹以前からすでに常陸国に勢力基盤を築き、源義業も佐竹氏の名字の地である久慈郡佐竹郷を領したといわれますが、佐竹氏を名乗ったのは佐竹昌義からとされます。(よって、佐竹氏初代は昌義とされる。)
鎌倉幕府草創期の当主は2代隆義、3代秀義で、隆義は平家に仕えて在京が長かったとみられます。
治承四年(1180年)8月の源頼朝公旗揚時、佐竹氏は平家との縁が深かったため参陣せず、同年10月の富士川の戦いでも平家方についています。
平家方の敗戦をうけて佐竹秀義は本拠の常陸国に撤収しますが、頼朝公は上総介広常らの意もあってこれを追撃。
佐竹隆義は在京中で、軍事折衝は隆義の子(兄弟ともいわれる)義政(大掾忠義)と秀義が当たり、攻軍の将・上総介広常との面会に応じた義政はその場で討たれ、金砂城に拠った秀義ら佐竹一族は頼朝軍に攻め落とされて奥州・花園へと落ち延びました。(金砂城の戦い)
寿永二年(1183年)、父・隆義の死により秀義は佐竹氏の家督を相続、佐竹氏3代当主となりました。
その後のいきさつがはっきりしないのですが、秀義は文治五年(1189年)の奥州討伐で頼朝軍のなかにその名が見えるので、それ以前に頼朝公に帰順したとみられます。
『吾妻鏡』の文治元年(1185年)十月廿四日 南御堂(勝長壽院)供養供奉者にはその名が見えず、帰順はそれ以降かもしれません。
奥州討伐では武功を挙げ、御家人の地位を固めています。
奥州討伐の往路、秀義は頼朝公から佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」を賜っているので、すでに有力御家人として認知されていることがわかります。
文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵の鎌倉出御御供輩にはその名が見えず、常陸からの途中参陣かも知れません。
(上記の家紋賜いは宇都宮出立時という資料(→『新編鎌倉志』)があります。)
建久元年(1190年)十一月七日 頼朝公上洛参院御供輩(→ 原典(国会図書館D.C))には先陣随兵廿八番に「佐竹別當」としてその名が見えます。
先陣随兵廿八番は格高の番で、他に「武田太郎」(武田信義?)、「遠江四郎」(安田義定?)の有力御家人2名がいるので、やはり相応の地位を得ていたのでは。
承久の乱後の嘉禄元年(1225年)末、有力御家人としての地位を保って鎌倉名越の館にて死去。
この「名越の館」は現・大寶寺周辺とみられています。
後を継いだ4代義重は承久の乱でも活躍し、寛元三年(1245年)常陸介に任ぜられています。
佐竹氏は本来国司にふさわしい家柄ですから、その格式を義重の代でとりもどしたということになります。
(秀義の代に、すでに常陸介に任ぜられたという説もあり。)
富士川の戦い、金砂城の戦いと頼朝公に敵対した佐竹氏が滅ぼされることなく、このように有力御家人の座を確保したのは不思議な感じもします。
佐竹氏は清和源氏義光流で、新羅三郎義光公の嫡男・義業ないしその子・昌義を祖とし、桓武平氏の流れもひく常陸の名族。
秋霜烈日な頼朝公も、名流・佐竹氏を滅ぼすことにはためらいがあったということでしょうか。
鎌倉・大町にある日蓮宗寺院、大寶寺は、新羅三郎義光公や佐竹氏とのゆかりをもち、歴史好きは見逃せないお寺です。
現地掲示、鎌倉市Webなどによると、この一帯は佐竹氏の祖先である新羅三郎源義光公が、兄の義家公とともに永保三年(1083年)の後三年の役に出陣し、戦捷ののちに館をかまえ、以降佐竹氏の屋敷になったといいます。
應永六年(1399年)佐竹義盛が出家して多福寺を開基建立した後、文安元年(1444年)日蓮宗の高僧一乗院日出上人が再興開山となり、号を改め多福山大寶寺となりました。
源義光公は、戦捷は日頃から信仰されていた多福大明神の御加護によるものとし、この地に多福明神社を建てられたと伝わります。
山内掲示には以下のとおりあります。(抜粋)
「後三年の役の間日頃(義光公が)信仰していた御守護神の霊顕あらたかで 或る時は雁の伏兵を知らせ時には御神火となって奇瑞を顕す 御義光は甲斐守となり長男義業は常陸に住する 義光は鎌倉館(現大宝寺域)に居住し御守護神を勧請する 其の後八雲神社に合祀した(中略)明應八年(1499年)松葉谷日證上人の霊夢により本地たる現地に再勧請し大多福稲荷大明神と称する。」
山内の多福明神社(大多福稲荷大明神)は、もともと義光公が信仰され、多福寺が一旦廃寺になったときに大町の八雲神社に合祀され、明應八年(1499年)に松葉ヶ谷妙法寺の日證上人によって八雲神社から大寶寺に再勧請とあります。
ちなみに、義光公の子孫は武家として栄え、嫡男・義業からは佐竹氏(常陸源氏)、義清からは武田、小笠原、南部、三好などの甲斐源氏、盛義からは平賀、大内などの信濃源氏が出ています。
『新編鎌倉志』『鎌倉攬勝考』ともに、大寳寺についての記載はみあたりませんでした。
佐竹氏屋敷跡の記載はありましたので引用します。
『新編鎌倉志』
「佐竹屋敷は、名越道の北、妙本寺の東の山に、五本骨扇の如なる山のウネあり。其下を佐竹秀義が舊宅と云。【東鑑】に、文治五年(1189年)七月廿六日、頼朝、奥州退治の時、宇都宮を立給時、無紋白旗也。二品頼朝是を咎給、仍月を出の御扇を佐竹に賜り、旗の上に付べきの由仰せらる。御旗と等しかるべからずの故也。佐竹、御旨にしたがひ、是を付るとあり。今に佐竹の家これを以て紋とす。此山のウネも、家の紋をかたどり作りたるならん。」
『鎌倉攬勝考』
「佐竹四郎秀義第跡 名越往来の北の方、妙本寺の東の山に五本骨の扇のごとくなる山のウネあり。其下を佐竹冠者秀義が舊跡といふ。此秀義扇の紋を賜ひしは、文治五年(1189年)、右大将家奥州征伐の時なり。山の谷を穿ち、五本骨に造りしは後世の事なり。足利家の代となりても、此所に佐竹氏住居の事にや、公方持氏朝臣、應永廿九年(1422年)十月三日、家督の事に依て、佐竹上総介入道を上杉憲直に討しむ。」
ともに佐竹氏定紋の「扇に月」(日の丸扇・佐竹扇)を奥州討伐の際に頼朝公から給い、これにちなんで屋敷の周辺を「五本骨扇」のかたちに整えたという内容です。
『新編相模國風土記稿』には以下のとおり大寳寺の記載がありました。
「佐竹山ニアリ。多福山一乗院ト号ス(妙本寺末)。寺伝ハ文安元年(1444年)開山日出(長禄三年(1459年)四月九日寂ス)起立シ、此地ニ新羅三郎義光ノ霊廟アルガ故、其法名多福院ト云フヲ執テ山号トスト云ヘリ。サレド義光ノ法名ト云フモノ信用シ難シ。恐ラクハ訛ナルベシ。土人ノ伝ニ此地ハ佐竹常陸介秀義以後数世居住ノ地ニテ。今猶当所ヲ佐竹屋鋪ト字スルハ此故ナリト云フ。是ニ『諸家系図纂』ヲ参考スルニ秀義ノ後裔右馬頭義盛。應永六年(1399年)鎌倉ニ多福寺ヲ建トアリ 是ニ拠レバ其先義盛当所ノ邸宅ヲ転ジテ一寺創建アリシガ、蚤ク廢寺トナリシヲ文安(1444-1449年)ニ至リ。日出其舊趾ニ就テ当寺ヲ営ミ舊寺号ヲ執テ山ニ名ヅケ。今ノ寺院号ヲ称セシナルベシ。本尊三寶諸尊及ビ祖師ノ像ヲ安ス。」
「祖師堂。日蓮及ビ開山日出ノ像ヲ安ス。鬼子母神ノ像ヲモ置ケリ。」
「多福明神社。新羅三郎義光ノ霊廟ト云フ。明應八年(1499年)權大僧都日證(本山九世)一社ニ勧請シ其法号ヲ神号トスト伝フ。恐ラクハ佐竹義盛ノ霊廟ヲ義光ト訛リ伝フルナルベシ。毎年六月七日佐竹天王祭禮ノ時。爰ニ彼神輿ヲ渡シ神事ヲ行フ。其式舊例ニ随フト云フ。前ノ天王社伝ニ昔此地ニ佐竹秀義ノ霊社アリシガ破壊ノ後。彼祇園ノ相殿ニ祀ルト云フ。是ニ拠レバ当社モ義盛ガ霊社ト云ンニ論ナカルベシ。」
名族、佐竹氏は室町時代も勢力を保ち、関東管領上杉家ともふかい関係をもちました。
應永十四年(1407年)、第11代当主佐竹義盛が実子を残さず没したため、鎌倉公方足利満兼の裁可により、関東管領上杉憲定の次男・義人が義盛の娘源姫の婿として入り家督を継承しました。
足利満兼の子で第4代鎌倉公方の足利持氏も義人を後見・支持しました。
山入氏をはじめとする佐竹氏庶流はこれに反発し、山入(佐竹)与義(上総介入道常元)をかつぎました。
与義は京都扶持衆(将軍家直属の扶持衆)に任ぜられ、鎌倉府の支配外という強みもあったようです。
應永廿三年(1416年)の上杉禅秀の乱では、義人・持氏派と与義・禅秀派が対立、与義は降伏するものの以降も抵抗をつづけました。
これに対して應永廿九年(1422年)、ついに持氏は側近の上杉憲直(宅間上杉)に対し佐竹屋敷に拠る与義の討伐を命じ、憲直に攻められた与義は裏山を伝って比企ヶ谷妙本寺に遁れ、法華堂(新釈迦堂)にて自刃したと伝えられます。
上記から、1400年代中盤までは、佐竹氏ないし庶流の山入氏が佐竹屋敷に拠っていたことがわかります。
山入氏をはじめとする佐竹氏庶流がここまで頑強に宗主の義人に反抗したのは、義人が清和源氏の出ではなく、藤原北家流の上杉氏の出であったことも大きいとする説があります。
應永六年(1399年)、鎌倉公方足利満兼が旧来の名族として定めた「関東八屋形」に、佐竹氏は、宇都宮氏、小田氏、小山氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏とともに列格しています。
「関東八屋形」のうち清和源氏は佐竹氏のみで、新羅三郎義光公嫡流としての矜持はすこぶる高かったのでは。
佐竹氏は伝統的に反与党の立ち位置が目立ちましたが、中世の戦乱をくぐり抜け、先祖伝来の常陸国から秋田(久保田)に転封されたものの二十万石強(実高40万石ともいわれる)の石高を保ち、明治まで大名家として存続しました。
新羅三郎義光公の流れを汲むとされる江戸期の大名家は、小笠原家、南部家、溝口家、柳沢家、蠣崎家(松前家)などがありますがいずれも甲斐源氏(義清流)で、嫡流系(義業流)の佐竹氏は、その点でも格別のポジションにあったのでは。
義光公の墓所は、調べのついたところでは滋賀県大津市園城寺町(新羅善神堂のそば)とここ大寳寺にしかありません。
その点からも清和源氏にとって大切な寺院とみられます。
【写真 上(左)】 道標
【写真 下(右)】 山内入口
大町大路から北東、釈迦堂切通しに向かう小路沿いは著名寺院がなく、切通しも現在通行止めとなっているので観光客の姿はほとんどなく、閑静な住宅地となっています。
大寳寺はこの小路から、さらに左手山側に入ったところにあります。
位置的にいうと、ちょうど名越の妙法寺と比企谷の妙本寺の中間あたりです。
【写真 上(左)】 「佐竹屋敷跡」の石碑
【写真 下(右)】 寺号標
山内入口に「佐竹屋敷跡」の石碑と寺号標、曲がり参道でここからは本堂は見えません。
参道を進むと、右手に大多福稲荷大明神。左手正面が本堂です。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 お題目塔
本堂はおそらく入母屋造桟瓦葺の妻入り。妻部の千鳥破風の下に向拝が設けられています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に朱雀(?)の彫刻。
正面サッシュ窓のうえには寺号扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 天水鉢
本堂には三宝祖師のほか、新羅三郎源義光公像、子育鬼子母神、出世大黒天神、日出上人像などが祀られているそうです。
こちらの「子育鬼子母神」は子育てに霊験あらたかとして知られ、毎年5月9日には子育鬼子母神祭が催されています。
本堂手前の天水鉢には、「扇に月」(日の丸扇・佐竹扇)の紋が見えます。
【写真 上(左)】 大多福稲荷大明神
【写真 下(右)】 大多福稲荷大明神の鳥居扁額
山内右手の大多福稲荷大明神は石像の稲荷鳥居(台輪鳥居)で「多福稲荷」の扁額。
拝殿は石造の一間社流造りで、全体に真新しい感じです。
新羅三郎義光公の墓所についてはよくわかりませんでしたが、いくつかある宝篋印塔のひとつが、墓所ないし供養塔かもしれません。(墓所は裏山という情報もあり)
御首題、御朱印ともに庫裡にて拝受しました。
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印
35.萬徳山(梅田山) 梅林寺 明王院
〔志田三郎先生義広〕
公式Web
東京都足立区梅田4-15-30
真言宗豊山派
御本尊:不動明王(赤不動尊)
札所:荒綾八十八ヶ所霊場第35番、荒川辺八十八ヶ所霊場第43番
このあたりで、少しく時代を遡ります。
源頼朝公の祖父・源為義公の三男・義広ははやくから都で東宮帯刀先生職にあり、仁平三年(1151年)頃関東に下向し常陸国信太(志田)荘(現・茨城県稲敷市)を開墾して本拠地(志田庄を立荘)としたため、通称を志田(志太、信太)三郎先生と呼ばれました。
『吾妻鏡』(文治四年六月大四日条)には、八條院領として常陸國志太庄が載っています。
八條院領は美福門院(1117-1160年)およびその息女・八条院暲子内親王の所領なので、志田義広は所領を通じて美福門院、八条院、あるいは八条院の猶子・以仁王と関係があったとみられます。
その当時、源為義公は京にあって摂関家との関係を強めたのに対し、長男・義朝公は東国へ下り相州を中心とした南関東で勢力を伸ばしました。
義朝公は妻の実家の熱田大宮司家を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家方の為義公とは政治的にも対立関係にありました。
仁平三年(1153年)義朝公は下野守に任じられ、父・為義公を凌いで受領となりました。為義公は東国における義朝公の勢力を削ぐために次男の義賢を上野国に下向させ、義賢は武蔵国で留守所総検校職にあった秩父重隆の娘を娶り、武蔵国比企郡の大蔵に館を構えました。
久寿二年(1155年)8月、義朝公の長男・義平(悪源太)が大蔵館を襲撃し、義賢と秩父重隆を攻め殺しました。(大蔵合戦)
その背景には諸説ありますが、鎌倉を本拠とする義平が北上をもくろみ、武蔵國の叔父・義賢と対立したためとみられています。
義賢は義広の同母兄とされますが、大蔵合戦時における義広の動向は不明です。
保元元年(1156年)の保元の乱は、後白河天皇方として義朝公、義朝公の父・為義公以下、四男・頼賢、五男・頼仲、六男・為宗、七男・為成、八男・為朝、九男・為仲が崇徳上皇方につき、上皇方の敗戦により伊豆大島に流された八男・為朝をのぞいて斬首されました。
保元の乱(保元元年(1156年))、平治の乱(平治元年(1159年))における志田義広の動向は諸説ありよくわかりませんが、乱後も勢力を保っていることから、無傷で乗り切ったとみられています。
次男・義賢(木曾義仲の父)は、大蔵合戦で討ち死にしているので、治承四年(1180年)5月の以仁王挙兵時点では、三男・義憲(義広)と十男・行家を残すのみでした。(ほかにも庶子がいたという説あり。)
十男・行家は東国に地盤をもたず、以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達していたので、この時点で東国で勢力を張っていたのは義広のみでした。
以仁王挙兵の際、末弟の源行家が甥の頼朝公に以仁王の令旨を伝達したのち、義広の元に向かったとされ(『平家物語』)、これは以仁王令旨が八條院領に触れられたという記録と合致します。
同年11月、頼朝公と常陸佐竹氏が戦った「金砂城の戦い」での義広動向はよくわかりませんが、戦の直後に常陸国府で行家ととともに頼朝公に対面しているので(『吾妻鏡』)、頼朝公と直接の敵対関係はなかったとみられます。
その後も頼朝公の麾下に入ったということもなく、常陸で独自の勢力を維持しました。
東国に地盤をもつ唯一の叔父、志田義広に対し、の時点では頼朝公も強い態度を打ち出せなかったのかもしれません。
寿永二年(1183年)2月、義広は鹿島社所領の押領を頼朝公に諫められたことに反発、下野に勢力を張る藤姓足利氏の足利俊綱・忠綱父子と連合し2万の兵を集めて頼朝公に反旗を翻し下野に兵を進めました。
下野国の有力者小山朝政は、源範頼公、結城朝光、長沼宗政、佐野基綱らと連合して野木宮(現・野木町)で義広勢に攻めかかり、激戦ののち義広勢は敗れて常陸の本拠地を失いました。(野木宮合戦)
頼朝公は野木宮合戦に直接関与していないという説もありますが、頼朝公からすると叔父に当たり、常陸に勢力を維持していた義広に強い警戒感をもっていたことは確かかと。
その後、義広は同母兄・義賢の子・木曾義仲に合流し、義仲は義広を叔父として遇して義仲とともに上洛を果たし、義広は信濃守に任官されています。
元暦元年(1184年)の宇治川の戦いでは西上した義経軍と対峙、粟津の戦いで義仲が討ち死にした後も反頼朝の立場を崩さず、同年5月伊勢国羽取山(現・三重県鈴鹿市)で波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊らと合戦の末、斬首されました(『吾妻鏡』)。
志田義広の子として、志田義延、志田義国、志田頼重の名が伝わり、Wikipediaによると「志駄氏、梅田氏、楢崎氏、比志島氏、小山田氏などが義広の後裔を称している」とのことです。
東京都足立区の明王院は義広の開基と伝わり、同寺の公式Webには以下のとおりあります。
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1178 治承2 志田三郎先生源義廣、榎戸(現在地より南方、荒川寄り)に祈願所を草創する
義廣三世の左馬之助義純、当所に蟄居する
以後、その子孫が代々居住する
義廣五世常陸介久廣、天満宮を勧請する
久廣、この頃より性を梅田氏と名乗る
また、寺の山号を萬徳山、寺号を梅林寺と称するようになる
永正年間 義廣二十一世梅田久義、丹波に移住
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治承二年(1178年)の時点で義広が榎戸の地に祈願所を草創していたということは、この地に所領をもっていたのかもしれません。
「義廣三世の左馬之助義純」は、義広の子・志田義延、志田義国、志田頼重いずれかの子ということになります。
その後、梅田と姓を改め、少なくとも室町後期の永正年間(1504-1521年)までは当寺と関係があったとみられます。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山内
東武伊勢崎線「梅島」駅から徒歩約20分と交通はやや不便ですが、「赤不動尊」と通称され、このあたりでは有数の名刹として親しまれています。
下町らしく狭い路地に家が建て込む街区ですが、そのなかに広々とした山内を構え、基壇のうえにそびえる入母屋造銅板葺流れ向拝の本堂は、さすがに名刹の風格があります。
【写真 上(左)】 回向堂
【写真 下(右)】 本堂
参道正面は回向堂で不動三尊が御本尊。
参道右手の朱塗りの堂宇が不動堂(本堂)で、御本尊・感得不動明王、如意輪観世音菩薩が御座します。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 荒綾霊場の札所板
御本尊の感得不動明王(赤不動尊)は、弘法大師が御歳42歳のときに厄除祈願のため造立された御像と伝わります。
当初高野山に安置、根来寺、清閑寺と遷られ、寛保二年(1742年)当寺に奉戴されました。(当寺縁起書)
如意輪観世音菩薩像は南北朝時代の応安二年(1369年)、院派の院秀作とされ、都の有形文化財に指定されています。
当山の鎮守として天満宮、咳止めに霊験あらたかな八彦尊もお祀りされています。
不動尊とのゆかりがふかい寺院で、明和元年(1764年)8月には成田山の出張開帳がおこなわれ、明和二年(1765年)には本所回向院で御本尊・感得不動明王の出開帳がなされているので、篤く信仰されたお不動さまであることがわかります。
徳川家光公・八代将軍吉宗公・十二代将軍家慶公など歴代将軍の鷹狩りの折の御膳所となり、『江戸名所図絵』にも掲載されている江戸の名所のひとつです。
御朱印は庫裡にて荒綾霊場のものが授与されています。
■ 明王院の御朱印
36.白山 東光寺
〔畠山次郎重忠〕
公式Web
神奈川県横浜市金沢区釜利谷2-40-8
臨済宗円覚寺派
御本尊:薬師如来
札所:武州金沢三十四観音霊場第16番、かなざわの霊場めぐり第12番
畠山氏は足利幕府の管領家だったこともあり清和源氏のイメージがありますが、もともとの発祥は桓武平氏良文流で秩父氏の一族です。
秩父氏初代の平将恒は、平良文公の子・武蔵介忠頼公と平将門公の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡に拠って秩父氏を称しました。
将恒の子孫は武蔵国の各所に土着して勢力を広げ、将恒の曾孫・秩父重綱は「武蔵国留守所総検校職」に就きました。
「武蔵国留守所総検校職」は、国司のいなかった武蔵国の国衙で在庁官人のトップとして、武蔵国内の武士を統率・動員する権限をともなう役職で、大きな権限をもっていました。
重綱の孫・重能は武蔵国大里郡畠山荘(現在の埼玉県深谷市)に拠り勢力を張って、畠山氏初代となりました。
桓武平氏良文流で坂東で発展した8つの氏族はとくに「坂東八平氏」と呼ばれ、上総氏・千葉氏・相馬氏・三浦氏・土肥氏・梶原氏・秩父氏・畠山氏などが名を連ねます。(諸説あり)
うち秩父氏・畠山氏が秩父姓で、「坂東八平氏」以外にも小山田氏、稲毛氏、河越氏、渋谷氏、師岡氏、豊島氏、江戸氏などの有力氏族が秩父姓(秩父党)です。
平安時代後期の当主は初代の畠山重能。
久寿二年(1155年)、重能は関東に下向していた源義朝・源義平父子と結んで比企郡の大蔵館を襲い、叔父の重隆とその婿・源義賢を討ちました。(大蔵合戦)
父・秩父重弘が長男でありながら、秩父氏嫡流は次男の重隆が継いだことへの不満が動機のひとつとみられています。
重能はこの勝戦により、秩父氏嫡流が嗣ぐ「武蔵国留守所総検校職」となる立場を得た筈ですが、なぜかこの職は重隆の孫・河越重頼が継いでいます。
保元元年(1156年)の保元の乱には参戦せず、平治元年(1159年)の平治の乱では重能・有重兄弟は平家の郎等として記されています。(『平家物語』『愚管抄』)
源頼朝公の旗揚げ時、重能は大番役として在京し平家方として転戦しています。
武蔵国の領地を守っていたのは、三浦義明(ないし江戸重継)の息女を母とする17歳の嫡男・重忠。
重忠も平家方として頼朝公と対立、治承四年(1180年)8月には秩父党(河越氏、江戸氏)、村山党などを糾合し、源氏方の三浦義明を衣笠城に攻めて討ち取っています。(衣笠城合戦)
この戦の背景は、畠山:平家方、三浦:源氏方という単純な理由だけではないとみられ、諸説展開されていますがここでは触れません。
このあたりから畠山氏の主役は重忠に移り、重忠は弱冠17歳の時点から源平合戦に突入していくことになります。
治承四年(1180年)10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに隅田川の長井渡しで頼朝公に帰順しました。
反頼朝公の色が強かったのは江戸重長で、重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家公より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという逸話(『源平盛衰記』)もあるので、遅参したとはいえ頼朝公の重忠への心証は悪くはなかったとみられます。
源平合戦では数々の戦功を打ち立て、武名をあげました。
宇治川の渡河で立ち往生した同僚の大串重親を対岸へ投げ上げ、三条河原では木曾義仲の愛妾・巴御前と一騎討ちを演じ、一ノ谷の鵯越では馬をいたわりこれを背負って逆落としを掛けるなど、無双の強者ぶりが『平家物語』などに描かれています。
秩父氏嫡流を嗣いでいた河越重頼は義経の舅だったこともあって誅殺され、「武蔵国留守所総検校職」は重忠が継承、名実ともに武蔵国を代表する御家人となりました。
その後も梶原景時の讒言により重忠追討が審議されるなどの危機がありましたが、これをこなして文治五年(1189年)の奥州合戦では先陣を務めて戦功をあげています。
建久元年(1190年)、頼朝公上洛の際は先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をしています。
北条時政の息女を娶っていた重忠の立場は重く、幕閣でも重きをなしたとみられます。
建仁三年(1203年)の比企能員の変では北条側につき、比企氏一族を滅ぼしています。
上洛して京都守護職となった平賀朝雅は、北条時政の娘婿で武蔵守でした。
その名分もあってか、武蔵国の大勢力・比企氏亡き後、時政はその後釜として武蔵国掌握を目論んだとみられます。
本領の中伊豆とは比較にならない広大な武蔵国は、時政にとっては垂涎の地だったのでは。
武蔵国には強豪・畠山氏が健在でしたが、当主の重忠は娘婿なので甘くみていたふしもあります。
しかし、畠山重忠はけっして甘い人間ではなく、時政と重忠は次第に対立を深めていきました。
建仁三年(1204年)11月、源実朝公の御台所を京から迎えるため上洛していた重忠の子・畠山重保と平賀朝雅の間で口論となり、畠山氏と平賀氏の確執は強まりました。
両者の義父である北条時政は一貫して平賀朝雅を支持したとみられ、時政は重忠父子を勘当したという説もみられます。
時政が寵愛した後妻・牧の方の娘が平賀朝雅の壻であったことも大きいとみられます。
また、畠山重保と平賀朝雅の口論の前後に、牧の方の息子の北条政範が京で命を落としていることも重要なファクターという見方もあります。(諸説あり)
牧の方は池禅尼の姪という説があり、池禅尼は中納言・藤原隆家の血筋で平清盛の継母、崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母でもあったので、先妻の伊東祐親の娘よりも血筋的には上で、自分の子が北条氏を継ぐべきという考えをもっていたのかもしれません。
じっさい、北条政範は16歳にしてすでに従五位下・左馬権助に任ぜられており、政範が北条氏の嫡子であったとみなす説さえあります。
元久二年(1205年)6月、平賀朝雅は重保から悪口を受けたと牧の方に訴え、牧の方はこれを重忠・重保父子の叛意であるとして時政に対応を迫りました。
時政は子の義時と時房に畠山討伐を相談すると、2人は反対したものの時政の意思は堅く、ついに義時も討伐に同意したといいます。
6月22日、時政の意を受けた三浦義村が由比ヶ浜で畠山重保を討ち、鎌倉へ向かった重忠を迎撃すべく鎌倉から大軍が発向しました。
重忠は鎌倉の不穏を感じてすでに6月19日に菅谷館(現・埼玉県嵐山町)を発っており、22日に二俣川で鎌倉軍と遭遇して激戦を展開したものの衆寡敵せず、ついにこの地で討ち死にしました。
享年42と伝わります。(畠山重忠の乱)
翌23日、義時は重忠謀反は虚報で重忠は無実であった旨を時政に伝えると、その日の夕方、重忠討伐軍に加わった秩父党の稲毛重成父子、榛谷重朝父子が三浦義村らによって殺害されました。
畠山討伐にあたり三浦義村の動きが目立ちますが、これは衣笠城合戦で畠山氏をはじめとする秩父党に衣笠城を攻められ、祖父・義明を討ち取られた恨みもあったものとみられています。
義時は戦後送られてきた重忠の首級に接し「年来合眼の昵を忘れず、悲涙禁じがたし」と嘆いたといいます。
重忠父子は無実の罪で誅されたとされ、討伐を強引に押し進めた時政に対する御家人たちの不満が高まって、ついに時政と牧の方は義時・政子によって伊豆に追放され、平賀朝雅は誅殺されました。(牧氏事件)
↑ ざっと調べた概略だけでもこれだけのボリュームになるので、深く掘り下げれば1冊の本が仕上がるほどのネタがあるかと思います。
『吾妻鏡』も政子と義時が父時政を追放したという事実は描きにくいらしく、この一連の政変の背景については明示していません。
それだけ複雑な事情と、多くのナゾを秘めた政変であったということかと。
乱後の情勢をみると武蔵の強豪・秩父党はほとんどその勢力を失い、相対的に北条執権家(義時・政子)の力が強まりました。
このあたりにも、この政変を評価する深い意味合いがあるのかもしれません。
畠山重忠の乱が時政の失脚に直結したのは、時政の独裁への反発もさることながら、重忠の人望も大きかったのではないでしょうか。
奥州討伐ののちに藤原泰衡の郎党・由利八郎を取り調べた際、梶原景時は傲慢不遜な態度で接したため八郎は頑として取り調べに応じませんでした。
かたや重忠は八郎に礼を尽くして接し、取り調べに応じた八郎は「先ほどの男(景時)とは雲泥の違いである」と述べたという逸話が伝わります。
『源平盛衰記』『義経記』では分別をわきまえた模範的な武士として描かれ、『曽我物語』では曾我兄弟を讒言から救う恩人として描かれています。
東光寺の公式Webではその人柄をつぎのように記しています。
「義を重んじて正路を覆み 文武両道全うし忠良にして私心無く(中略)公明にして寛大 人は其の誠純を敬す」
判官びいきのきらいはあるにしても、人々からその高潔な人格を認められていたことはまちがいないかと思います。
重忠亡きあと、畠山氏の旧領と名跡は足利義兼の子・義純が重忠の未亡人(時政の息女)と婚姻することで継承し、以降畠山氏は源姓の足利家一門として存続することとなります。
(義純の室は重忠と時政の娘の息女という説もあり。)
室町幕府では三管領の一画を占め、高い家格を保つとともに奥州二本松、紀伊、和泉、大和、河内など各地の守護大名としても発展しました。
戦国期に緒戦で敗れ大名の地位は失うものの、子孫は江戸幕府の高家として幕末まで家格を保ちました。
畠山重忠ゆかりの寺社はいくつかありますが、御朱印を授与されている例は少なくここでは横浜市金沢区の東光寺をご紹介します。
長くなったので簡単にいきます。
東光寺は、建仁年間(1201-1204年)畠山重忠が開基となり、重忠の念持佛・薬師如来を御本尊として建長寺六世勅謚大興禅師が鎌倉二階堂薬師ヶ谷(現・鎌倉宮周辺)に開山、医王山東光寺を号したと伝わります。(弘安五年(1282年)開山説もあり。)
応仁年間(1467-1469年)に現在地(釜利谷)へ移転。
釜利谷付近には重忠・重保父子の供養塔があり、重忠の自領か一族の誰かが住していたとされ、そのゆかりで当地に移転したとみられています。
当寺所蔵の鞍・鐙・轡・鞖は重忠ゆかりのものと伝えられ、横浜市の有形文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 山門-1
【写真 下(右)】 山門-2
金沢区には落ち着きのある禅刹が多いですが、こちらもそのひとつ。
戸建て住宅が整然と並ぶニュータウンに緑ゆたかな山内を残しています。
山門は風格のある切妻屋根本瓦葺の四脚門で、山号扁額が掲げられています。
軒丸瓦に描かれた五三の桐紋は、畠山氏の家紋のひとつとされているものです。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2
手入れのきいた参道まわりのおくに入母屋造銅板葺の本堂で、向拝柱のないすっきりとした向拝です。
【写真 上(左)】 山内-3
【写真 下(右)】 本堂
向拝正面格子扉のうえには「東光禅寺」の寺号扁額。
上部の斗栱や垂木、下場の格子窓とのバランスが絶妙です。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額と軒
御本尊の薬師如来の説明書には「厳しい顔つき、ひきしまった肉どり、うねりの強い写実的な衣文などに鎌倉時代初期の運慶派の特色が明らかである。」とありました。
名刹にふさわしく、「酸漿蒔絵蔵」「絹本著色釈迦十六善神図」などの文化財も所蔵しています。
山内には畠山重忠の供養塔もあります。
■ 東光寺の御朱印
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6へつづく。
【 BGM 】
■ Paradise Island - Thom Rotella (1989)
■ If You'd Only Believe - Randy Crawford (1992)
■ Sailing - Rodney Franklin (1982)
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4から
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-1
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-2
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-3
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-4
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-5
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6
■ 鎌倉殿の御家人
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
33.金剛山 仁王院 法華坊 鑁阿寺
〔足利上総介義兼〕
公式Web
足利市Web資料
栃木県足利市家富町2220
真言宗大日派
御本尊:大日如来
札所:関東八十八箇所第16番、下野三十三観音霊場第28番、両野観音霊場第24番、足利七福神(大黒天)
高い家格と実力をもちながら、御家人として表舞台にあまり出てこなかった人々がいます。
足利義兼もそのひとりではないでしょうか。
しかし、調べていくと鎌倉幕府内の政争で、じつは足利氏は重要な役割を担っていたことがわかります。
鎌倉幕府における足利氏の立ち位置を捉えるとき「御門葉(ごもんよう)」という概念は避けて通れません。
「御門葉」は制度で定めた地位ではないですが、『吾妻鏡』にしばしば出てきます。
それは、たいてい武士の面目にかかわる場面で、甲斐源氏の板垣兼信は桓武平氏の土肥実平との競り合いで「御門葉」を引き合いに出し(元暦元年三月十七日条)、毛呂季光と中条家長の諍いでは、季光は自身が「御門葉」に準じる格にあるとし、家長の非礼を咎めています。(建久六年正月八日条)
職制の規定はなく任命もされていないので、誰が「御門葉」だったのかは確定できませんが、『吾妻鏡』文治元年(1185年)十月廿四日 南御堂(勝長壽院)供養供奉者(→ 原典(国会図書館D.C))で、毛呂季光より上位に記されているのは以下の9名です。
1.武藏守(平賀)義信 清和源氏義光流
2.遠江守(安田)義定 清和源氏義光流(甲斐源氏)
3.參河守(源)範頼 清和源氏為義流(河内源氏)
4.信濃守(加々美)遠光 清和源氏義光流(甲斐源氏)
5.相摸守(大内)惟義 清和源氏義光流
6.駿河守(源)廣綱 清和源氏頼光流(多田源氏)
7.上総介(足利)義兼 清和源氏義国流(河内源氏)
8.伊豆守(山名)義範 清和源氏義国流(河内源氏)
9.越後守(安田)義資 清和源氏義光流(甲斐源氏)
(10.豊後守(毛呂)季光 藤原北家小野宮流)
(11.北條四郎(時政) 桓武平氏直方流)
(12.同小四郎(義時) 桓武平氏直方流)
いずれも嫡流系の多田源氏、ないし八幡太郎義家公、新羅三郎義光公の血筋の由緒正しい清和源氏で国司に任ぜられ、このあたりが「御門葉」と認識されていたのでは。
清和源氏が必須条件とみられ、誇り高い藤原北家の毛呂季光でさえ、自らを「『御門葉』に準ずる」としています。
頼朝公の義父・北條時政は11番目、その子義時は12番目ですから、「御門葉」の格は北條(北条)氏より上であったことがわかります。
(詳細は、→こちら(鎌倉殿の御家人))をご覧くださいませ。また、清和源氏の略系図については→こちら(全国山名氏一族会資料)をご覧ください。)
足利義兼の7番目は北関東の武将では筆頭で、その点からも「御門葉」の資格を備えていたことがわかります。
時代が下った宝治二年(1248年)においてなお、義兼の子・義氏は結城朝光との争論で自らを「吾是右大將家御氏族也」とし、「御門葉」は使っていないものの、源氏宗家(右大將家)の御氏族としての矜持をもっていたことがわかります。(『吾妻鏡』宝治二年閏十二月廿八日条)
足利義兼は清和源氏義国流で八幡太郎義家公のひ孫。
足利氏二代当主として下野国足利荘に拠って勢力を蓄えました。
父・義康が早世したため若年で足利氏の家督を継ぎ、治承四年(1180年)の源頼朝公旗揚げに早くから従軍しました。
先年の保元の乱では、父・義康は源義朝公とともに後白河天皇側につきました。
また、義兼の室は藤原季範の息女(ないし養女)とされ、季範の母は尾張氏(熱田神宮大宮司職)の出で、季範の息女は源頼朝の母(由良御前)なので、頼朝公と義兼はともに藤原季範の娘を娶った(頼朝公とは相婿の間柄の)可能性があります。
このような関係のふかさから、早々に頼朝公の麾下に参じたのかもしれません。
また、以仁王の猶母・暲子内親王(八条院)の蔵人であったことを指摘する説もあります。
木曽義仲の遺児・義高の残党討伐に加わり、源平合戦では範頼公に属して従軍。
その戦功により上総国国司(上総介)に推挙され受任。
奥州合戦にも従軍し、建久元年(1190年)の奥州大河兼任の乱では追討使としてこれを平定しています。
「御門葉」としての家格、頼朝公との縁のふかさ、そしてここまでの経歴からすると、「十三人の合議制」(1999年)に名を連ねてもおかしくないですが、これに先んじて建久六年(1195年)3月、東大寺で出家し義称と称しました。
すでに1184年に甲斐源氏の嫡流筋の一条忠頼が謀殺、1190年には多田源氏の源廣綱が逐電し、甲斐源氏の有力者板垣兼信が配流、1193年には源範頼公が失脚、次いで甲斐源氏の安田義資、義定が断罪されるなど源氏一族の失脚粛清が相次ぎ、頼朝公との縁がふかい足利義兼といえども、保身のために出家せざるを得なかったという見方があります。
ことに自身より上位の範頼公の失脚(1193年)、安田義定の断罪(1194年)が大きかったのではないでしょうか。
出家後、足利氏の家督は三男の義氏が継ぎ、幾多の政変をこなして幕府重鎮の地位を保ちました。
これは、義氏が北条時政の息女・時子の実子であったためという考え方もありますが、実際はそんな生やさしい理由ではなかったように思われます。
北条時政には多くの娘がおり、政子は頼朝公、阿波局は阿野全成(頼朝公の異母弟)、時子は足利義兼に嫁いでいます。
さらに、有力御家人の稲毛重成、畠山重忠、平賀朝雅、宇都宮頼綱などにも嫁いでいますが、阿野全成、稲毛重成、畠山重忠、平賀朝雅、宇都宮頼綱はいずれも失脚または出家しているのです。
平賀氏、宇都宮氏は元久二年(1205年)の「牧氏の変」(北条時政と妻・牧の方が企図したとされる政変)を受けての失脚ですが、畠山重忠、稲毛重成の失脚はナゾが多いものとされています。
北条時政の娘を娶り、以降鎌倉御家人の重鎮として関東で命脈を保ったのはなんと足利氏しかいないのです。(宇都宮氏は関西に拠点を移す)
足利氏は一貫して北条氏との連携姿勢を崩さず、第五代頼氏まではすべて北条一門から迎えた嫁の子を嫡子としています。なので足利氏では末子相続が多くなっています。
これは足利氏が立場を維持するうえでの、大きなファクターだったと思われます。
実際、北条系を外れた第六代家時は「自分は(八幡太郎義家公)七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」という有名な置文をのこして自害しています。
そして、八幡太郎義家公七代、家時から二代後の足利尊氏は、北条氏を倒して置文どおりに天下を取っています。
(この置文については後世の創作とする説もありますが、北条氏の縁戚を外れた足利氏の声望がにわかに高まったことは事実としてあるかと思います。)
清和源氏の流れをみると、武家の統領、八幡太郎義家公の次男・義親公が嫡流で義朝公・頼朝公ラインにつながりますが、三代実朝公で源家将軍家は断絶。
長男・義宗、三男・義忠は早世したため、義家公の嫡流は四男・義国となり、その長男の(新田)義重と次男の(足利)義康につながります。
新田義重は源家の名流として人望も実力もあったといいますが、頼朝公とのつながりがうすく、旗揚げにも遅参したため弟・足利義康ほどの厚遇は得られなかったとされます。
ただし、足利尊氏も新田義貞も北条討伐の主役ですから、やはり清和源氏義国流に対する「武家の統領」の声望は高かったようです。
また、これは筆者の勝手な想像ですが、北条氏は狭隘な伊豆の出身で、御家人のなかで突出した軍事力をもっていたとは思えません。
一方、足利氏は北関東の広大な所領を背景に、強大な武力を蓄えていたとみられます。
御家人が北条氏とことを構えるとき、北条氏のみならず縁戚の足利氏も同時に敵にまわすという事実は、北条氏の権力の大きな支えになったのでは。
北条氏が足利氏を優遇した(排斥できなかった)背景にはこのようなパワー・バランスもあったかもしれません。
なお、義兼の正室時子について「蛭子伝説」というナゾめいた言い伝えがありますが、その意味するところはよくわかりません。
藤姓足利氏の足利忠綱が登場することから、義兼(源姓足利氏)と藤姓足利氏の確執を暗示したものかもしれません。
出家後の義兼は足利荘の樺崎寺(現在の樺崎八幡宮)に隠棲し、逝去後は同地に葬られました。(樺崎八幡宮本殿が義兼の廟所である赤御堂とされる)
樺崎八幡宮は御朱印を授与されているようですが筆者は未拝受なので、義兼の居館跡に建立・整備された足利氏の氏寺・鑁阿寺(ばんなじ)をご紹介します。
前段が長くなったので簡単にいきます。
鑁阿寺は、建久七年(1197年)足利義兼により建立された真言宗大日派の本山です。
本尊は足利氏(ないし義兼)の守り本尊とされる大日如来です。
4万平米にも及ぶ敷地はもともと足利氏館で、現在も土塁や堀をめぐらして中世の武士館の面影を残し「史跡足利氏宅跡」として国の史跡名勝天然記念物に指定されています。
また、「日本百名城」のひとつでもあります。
義兼(戒名:鑁阿)が僧理真を招聘、発心得度して館内に持仏堂(堀内御堂)を建てたのが開基とされ、義兼の死後、子・義氏が本堂はじめ伽藍を建立して足利氏の氏寺にしています。
以降、足利氏の隆盛を背景に山内整備が進み、将軍家・足利氏の氏寺として手厚く庇護されました。
【写真 上(左)】 反橋と楼門
【写真 下(右)】 寺号標
名刹だけに寺宝も多く、本堂(入母屋造本瓦葺 桁行5間、梁間5間 折衷様、正安元年(1299年)建立)は国宝。
国指定重要文化財として鐘楼、経堂、金銅鑁字御正体など、栃木県指定有形文化財として木造大日如来像、御霊屋、多宝塔、山門(仁王門)などがあります。
山内は広すぎてややとりとめのない印象ですが、山内入口の重厚な反橋と楼門、本堂をはじめ堂宇群もさすがに風格を備えています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂向拝
本堂は御本尊大日如来、左脇本尊 聖観世音菩薩 歓喜天、右脇本尊 薬師如来 弘法大師とあります。
【写真 上(左)】 中御堂(不動堂)
【写真 下(右)】 経堂
中御堂(不動堂)は義兼の創建、生実御所国朝の再建で成田山からの勧請。
御本尊の不動明王は興教大師のお作とも伝わります。
(一切)経堂は、義兼が妻時子の供養のため一切経会を修する道場として創建、関東管領足利満兼の再建とされます。
【写真 上(左)】 多宝塔
【写真 下(右)】 大酉堂
多宝塔は説明板によると徳川五代将軍家綱公の母・桂昌院、あるいはそれ以前の建立で、「徳川氏は新田氏の後裔と称し、新田氏は足利の庄より新田の庄に分家したるが故に徳川氏は祖先発祥の地なるを以て、此の宝塔を祖先の菩提供養のため再度寄進した。」とあります。
新田氏宗家の本領は上野国碓氷郡八幡荘(現・安中市)とみられていますが、新田庄(現・太田市)には徳川氏ゆかりの寺院や遺跡がたくさんあり、ここ足利にも律儀にゆかりの事物が配置されていることは、徳川氏の新田氏発祥説(清和源氏義国流説)へのこだわりを感じさせます。
大酉堂は足利尊氏公を祀るお堂として室町時代に建立と伝わります。
本堂裏手の北側にある智願寺殿御霊屋(蛭子堂)は、義兼の正室(北条)時子をお祀りするものです。
【写真 上(左)】 校倉(大黒天)
【写真 下(右)】 北門
御朱印は本堂脇の授与所にて拝受しました。
札所として関東八十八箇所第16番、下野三十三観音霊場第28番の御朱印を授与。
両野観音霊場第24番も授与情報がありますが、足利七福神(大黒天)は不授与のようです。
【写真 上(左)】 関東八十八箇所の御朱印
【写真 下(右)】 下野三十三観音霊場の御朱印
34.多福山 一乗院 大寳寺
〔佐竹四郎秀義〕
鎌倉市Web資料
鎌倉市観光協会Web
神奈川県鎌倉市大町3-6-22
日蓮宗
御本尊:三宝諸尊(『鎌倉市史 社寺編』)
佐竹氏は新羅三郎源義光公嫡流の常陸の名族。
源義光公の嫡男・義業の子・昌義 - 隆義 - 秀義とつづきます。
義光公の室(義業の母)は 平(吉田)清幹の息女です。
桓武天皇の孫の平高望(高望王)- 平国香 - 平(大掾)繁盛 - 平(大掾・多気)維幹 - 平(多気)為幹 - 平(多気)重幹 - 平(吉田)清幹 - 娘(義光公の室) - 源義業 - 佐竹昌義の流れで、佐竹氏は清和源氏義光流嫡流であるとともに、桓武平氏の流れもひくという名族です。
いわゆる常陸平氏は、平(吉田)清幹以前からすでに常陸国に勢力基盤を築き、源義業も佐竹氏の名字の地である久慈郡佐竹郷を領したといわれますが、佐竹氏を名乗ったのは佐竹昌義からとされます。(よって、佐竹氏初代は昌義とされる。)
鎌倉幕府草創期の当主は2代隆義、3代秀義で、隆義は平家に仕えて在京が長かったとみられます。
治承四年(1180年)8月の源頼朝公旗揚時、佐竹氏は平家との縁が深かったため参陣せず、同年10月の富士川の戦いでも平家方についています。
平家方の敗戦をうけて佐竹秀義は本拠の常陸国に撤収しますが、頼朝公は上総介広常らの意もあってこれを追撃。
佐竹隆義は在京中で、軍事折衝は隆義の子(兄弟ともいわれる)義政(大掾忠義)と秀義が当たり、攻軍の将・上総介広常との面会に応じた義政はその場で討たれ、金砂城に拠った秀義ら佐竹一族は頼朝軍に攻め落とされて奥州・花園へと落ち延びました。(金砂城の戦い)
寿永二年(1183年)、父・隆義の死により秀義は佐竹氏の家督を相続、佐竹氏3代当主となりました。
その後のいきさつがはっきりしないのですが、秀義は文治五年(1189年)の奥州討伐で頼朝軍のなかにその名が見えるので、それ以前に頼朝公に帰順したとみられます。
『吾妻鏡』の文治元年(1185年)十月廿四日 南御堂(勝長壽院)供養供奉者にはその名が見えず、帰順はそれ以降かもしれません。
奥州討伐では武功を挙げ、御家人の地位を固めています。
奥州討伐の往路、秀義は頼朝公から佐竹氏の家紋「五本骨扇に月丸」を賜っているので、すでに有力御家人として認知されていることがわかります。
文治五年(1189年)七月十九日の奥州出兵の鎌倉出御御供輩にはその名が見えず、常陸からの途中参陣かも知れません。
(上記の家紋賜いは宇都宮出立時という資料(→『新編鎌倉志』)があります。)
建久元年(1190年)十一月七日 頼朝公上洛参院御供輩(→ 原典(国会図書館D.C))には先陣随兵廿八番に「佐竹別當」としてその名が見えます。
先陣随兵廿八番は格高の番で、他に「武田太郎」(武田信義?)、「遠江四郎」(安田義定?)の有力御家人2名がいるので、やはり相応の地位を得ていたのでは。
承久の乱後の嘉禄元年(1225年)末、有力御家人としての地位を保って鎌倉名越の館にて死去。
この「名越の館」は現・大寶寺周辺とみられています。
後を継いだ4代義重は承久の乱でも活躍し、寛元三年(1245年)常陸介に任ぜられています。
佐竹氏は本来国司にふさわしい家柄ですから、その格式を義重の代でとりもどしたということになります。
(秀義の代に、すでに常陸介に任ぜられたという説もあり。)
富士川の戦い、金砂城の戦いと頼朝公に敵対した佐竹氏が滅ぼされることなく、このように有力御家人の座を確保したのは不思議な感じもします。
佐竹氏は清和源氏義光流で、新羅三郎義光公の嫡男・義業ないしその子・昌義を祖とし、桓武平氏の流れもひく常陸の名族。
秋霜烈日な頼朝公も、名流・佐竹氏を滅ぼすことにはためらいがあったということでしょうか。
鎌倉・大町にある日蓮宗寺院、大寶寺は、新羅三郎義光公や佐竹氏とのゆかりをもち、歴史好きは見逃せないお寺です。
現地掲示、鎌倉市Webなどによると、この一帯は佐竹氏の祖先である新羅三郎源義光公が、兄の義家公とともに永保三年(1083年)の後三年の役に出陣し、戦捷ののちに館をかまえ、以降佐竹氏の屋敷になったといいます。
應永六年(1399年)佐竹義盛が出家して多福寺を開基建立した後、文安元年(1444年)日蓮宗の高僧一乗院日出上人が再興開山となり、号を改め多福山大寶寺となりました。
源義光公は、戦捷は日頃から信仰されていた多福大明神の御加護によるものとし、この地に多福明神社を建てられたと伝わります。
山内掲示には以下のとおりあります。(抜粋)
「後三年の役の間日頃(義光公が)信仰していた御守護神の霊顕あらたかで 或る時は雁の伏兵を知らせ時には御神火となって奇瑞を顕す 御義光は甲斐守となり長男義業は常陸に住する 義光は鎌倉館(現大宝寺域)に居住し御守護神を勧請する 其の後八雲神社に合祀した(中略)明應八年(1499年)松葉谷日證上人の霊夢により本地たる現地に再勧請し大多福稲荷大明神と称する。」
山内の多福明神社(大多福稲荷大明神)は、もともと義光公が信仰され、多福寺が一旦廃寺になったときに大町の八雲神社に合祀され、明應八年(1499年)に松葉ヶ谷妙法寺の日證上人によって八雲神社から大寶寺に再勧請とあります。
ちなみに、義光公の子孫は武家として栄え、嫡男・義業からは佐竹氏(常陸源氏)、義清からは武田、小笠原、南部、三好などの甲斐源氏、盛義からは平賀、大内などの信濃源氏が出ています。
『新編鎌倉志』『鎌倉攬勝考』ともに、大寳寺についての記載はみあたりませんでした。
佐竹氏屋敷跡の記載はありましたので引用します。
『新編鎌倉志』
「佐竹屋敷は、名越道の北、妙本寺の東の山に、五本骨扇の如なる山のウネあり。其下を佐竹秀義が舊宅と云。【東鑑】に、文治五年(1189年)七月廿六日、頼朝、奥州退治の時、宇都宮を立給時、無紋白旗也。二品頼朝是を咎給、仍月を出の御扇を佐竹に賜り、旗の上に付べきの由仰せらる。御旗と等しかるべからずの故也。佐竹、御旨にしたがひ、是を付るとあり。今に佐竹の家これを以て紋とす。此山のウネも、家の紋をかたどり作りたるならん。」
『鎌倉攬勝考』
「佐竹四郎秀義第跡 名越往来の北の方、妙本寺の東の山に五本骨の扇のごとくなる山のウネあり。其下を佐竹冠者秀義が舊跡といふ。此秀義扇の紋を賜ひしは、文治五年(1189年)、右大将家奥州征伐の時なり。山の谷を穿ち、五本骨に造りしは後世の事なり。足利家の代となりても、此所に佐竹氏住居の事にや、公方持氏朝臣、應永廿九年(1422年)十月三日、家督の事に依て、佐竹上総介入道を上杉憲直に討しむ。」
ともに佐竹氏定紋の「扇に月」(日の丸扇・佐竹扇)を奥州討伐の際に頼朝公から給い、これにちなんで屋敷の周辺を「五本骨扇」のかたちに整えたという内容です。
『新編相模國風土記稿』には以下のとおり大寳寺の記載がありました。
「佐竹山ニアリ。多福山一乗院ト号ス(妙本寺末)。寺伝ハ文安元年(1444年)開山日出(長禄三年(1459年)四月九日寂ス)起立シ、此地ニ新羅三郎義光ノ霊廟アルガ故、其法名多福院ト云フヲ執テ山号トスト云ヘリ。サレド義光ノ法名ト云フモノ信用シ難シ。恐ラクハ訛ナルベシ。土人ノ伝ニ此地ハ佐竹常陸介秀義以後数世居住ノ地ニテ。今猶当所ヲ佐竹屋鋪ト字スルハ此故ナリト云フ。是ニ『諸家系図纂』ヲ参考スルニ秀義ノ後裔右馬頭義盛。應永六年(1399年)鎌倉ニ多福寺ヲ建トアリ 是ニ拠レバ其先義盛当所ノ邸宅ヲ転ジテ一寺創建アリシガ、蚤ク廢寺トナリシヲ文安(1444-1449年)ニ至リ。日出其舊趾ニ就テ当寺ヲ営ミ舊寺号ヲ執テ山ニ名ヅケ。今ノ寺院号ヲ称セシナルベシ。本尊三寶諸尊及ビ祖師ノ像ヲ安ス。」
「祖師堂。日蓮及ビ開山日出ノ像ヲ安ス。鬼子母神ノ像ヲモ置ケリ。」
「多福明神社。新羅三郎義光ノ霊廟ト云フ。明應八年(1499年)權大僧都日證(本山九世)一社ニ勧請シ其法号ヲ神号トスト伝フ。恐ラクハ佐竹義盛ノ霊廟ヲ義光ト訛リ伝フルナルベシ。毎年六月七日佐竹天王祭禮ノ時。爰ニ彼神輿ヲ渡シ神事ヲ行フ。其式舊例ニ随フト云フ。前ノ天王社伝ニ昔此地ニ佐竹秀義ノ霊社アリシガ破壊ノ後。彼祇園ノ相殿ニ祀ルト云フ。是ニ拠レバ当社モ義盛ガ霊社ト云ンニ論ナカルベシ。」
名族、佐竹氏は室町時代も勢力を保ち、関東管領上杉家ともふかい関係をもちました。
應永十四年(1407年)、第11代当主佐竹義盛が実子を残さず没したため、鎌倉公方足利満兼の裁可により、関東管領上杉憲定の次男・義人が義盛の娘源姫の婿として入り家督を継承しました。
足利満兼の子で第4代鎌倉公方の足利持氏も義人を後見・支持しました。
山入氏をはじめとする佐竹氏庶流はこれに反発し、山入(佐竹)与義(上総介入道常元)をかつぎました。
与義は京都扶持衆(将軍家直属の扶持衆)に任ぜられ、鎌倉府の支配外という強みもあったようです。
應永廿三年(1416年)の上杉禅秀の乱では、義人・持氏派と与義・禅秀派が対立、与義は降伏するものの以降も抵抗をつづけました。
これに対して應永廿九年(1422年)、ついに持氏は側近の上杉憲直(宅間上杉)に対し佐竹屋敷に拠る与義の討伐を命じ、憲直に攻められた与義は裏山を伝って比企ヶ谷妙本寺に遁れ、法華堂(新釈迦堂)にて自刃したと伝えられます。
上記から、1400年代中盤までは、佐竹氏ないし庶流の山入氏が佐竹屋敷に拠っていたことがわかります。
山入氏をはじめとする佐竹氏庶流がここまで頑強に宗主の義人に反抗したのは、義人が清和源氏の出ではなく、藤原北家流の上杉氏の出であったことも大きいとする説があります。
應永六年(1399年)、鎌倉公方足利満兼が旧来の名族として定めた「関東八屋形」に、佐竹氏は、宇都宮氏、小田氏、小山氏、千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏とともに列格しています。
「関東八屋形」のうち清和源氏は佐竹氏のみで、新羅三郎義光公嫡流としての矜持はすこぶる高かったのでは。
佐竹氏は伝統的に反与党の立ち位置が目立ちましたが、中世の戦乱をくぐり抜け、先祖伝来の常陸国から秋田(久保田)に転封されたものの二十万石強(実高40万石ともいわれる)の石高を保ち、明治まで大名家として存続しました。
新羅三郎義光公の流れを汲むとされる江戸期の大名家は、小笠原家、南部家、溝口家、柳沢家、蠣崎家(松前家)などがありますがいずれも甲斐源氏(義清流)で、嫡流系(義業流)の佐竹氏は、その点でも格別のポジションにあったのでは。
義光公の墓所は、調べのついたところでは滋賀県大津市園城寺町(新羅善神堂のそば)とここ大寳寺にしかありません。
その点からも清和源氏にとって大切な寺院とみられます。
【写真 上(左)】 道標
【写真 下(右)】 山内入口
大町大路から北東、釈迦堂切通しに向かう小路沿いは著名寺院がなく、切通しも現在通行止めとなっているので観光客の姿はほとんどなく、閑静な住宅地となっています。
大寳寺はこの小路から、さらに左手山側に入ったところにあります。
位置的にいうと、ちょうど名越の妙法寺と比企谷の妙本寺の中間あたりです。
【写真 上(左)】 「佐竹屋敷跡」の石碑
【写真 下(右)】 寺号標
山内入口に「佐竹屋敷跡」の石碑と寺号標、曲がり参道でここからは本堂は見えません。
参道を進むと、右手に大多福稲荷大明神。左手正面が本堂です。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 お題目塔
本堂はおそらく入母屋造桟瓦葺の妻入り。妻部の千鳥破風の下に向拝が設けられています。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に朱雀(?)の彫刻。
正面サッシュ窓のうえには寺号扁額が掲げられています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 天水鉢
本堂には三宝祖師のほか、新羅三郎源義光公像、子育鬼子母神、出世大黒天神、日出上人像などが祀られているそうです。
こちらの「子育鬼子母神」は子育てに霊験あらたかとして知られ、毎年5月9日には子育鬼子母神祭が催されています。
本堂手前の天水鉢には、「扇に月」(日の丸扇・佐竹扇)の紋が見えます。
【写真 上(左)】 大多福稲荷大明神
【写真 下(右)】 大多福稲荷大明神の鳥居扁額
山内右手の大多福稲荷大明神は石像の稲荷鳥居(台輪鳥居)で「多福稲荷」の扁額。
拝殿は石造の一間社流造りで、全体に真新しい感じです。
新羅三郎義光公の墓所についてはよくわかりませんでしたが、いくつかある宝篋印塔のひとつが、墓所ないし供養塔かもしれません。(墓所は裏山という情報もあり)
御首題、御朱印ともに庫裡にて拝受しました。
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印
35.萬徳山(梅田山) 梅林寺 明王院
〔志田三郎先生義広〕
公式Web
東京都足立区梅田4-15-30
真言宗豊山派
御本尊:不動明王(赤不動尊)
札所:荒綾八十八ヶ所霊場第35番、荒川辺八十八ヶ所霊場第43番
このあたりで、少しく時代を遡ります。
源頼朝公の祖父・源為義公の三男・義広ははやくから都で東宮帯刀先生職にあり、仁平三年(1151年)頃関東に下向し常陸国信太(志田)荘(現・茨城県稲敷市)を開墾して本拠地(志田庄を立荘)としたため、通称を志田(志太、信太)三郎先生と呼ばれました。
『吾妻鏡』(文治四年六月大四日条)には、八條院領として常陸國志太庄が載っています。
八條院領は美福門院(1117-1160年)およびその息女・八条院暲子内親王の所領なので、志田義広は所領を通じて美福門院、八条院、あるいは八条院の猶子・以仁王と関係があったとみられます。
その当時、源為義公は京にあって摂関家との関係を強めたのに対し、長男・義朝公は東国へ下り相州を中心とした南関東で勢力を伸ばしました。
義朝公は妻の実家の熱田大宮司家を通じて鳥羽法皇に接近し、摂関家方の為義公とは政治的にも対立関係にありました。
仁平三年(1153年)義朝公は下野守に任じられ、父・為義公を凌いで受領となりました。為義公は東国における義朝公の勢力を削ぐために次男の義賢を上野国に下向させ、義賢は武蔵国で留守所総検校職にあった秩父重隆の娘を娶り、武蔵国比企郡の大蔵に館を構えました。
久寿二年(1155年)8月、義朝公の長男・義平(悪源太)が大蔵館を襲撃し、義賢と秩父重隆を攻め殺しました。(大蔵合戦)
その背景には諸説ありますが、鎌倉を本拠とする義平が北上をもくろみ、武蔵國の叔父・義賢と対立したためとみられています。
義賢は義広の同母兄とされますが、大蔵合戦時における義広の動向は不明です。
保元元年(1156年)の保元の乱は、後白河天皇方として義朝公、義朝公の父・為義公以下、四男・頼賢、五男・頼仲、六男・為宗、七男・為成、八男・為朝、九男・為仲が崇徳上皇方につき、上皇方の敗戦により伊豆大島に流された八男・為朝をのぞいて斬首されました。
保元の乱(保元元年(1156年))、平治の乱(平治元年(1159年))における志田義広の動向は諸説ありよくわかりませんが、乱後も勢力を保っていることから、無傷で乗り切ったとみられています。
次男・義賢(木曾義仲の父)は、大蔵合戦で討ち死にしているので、治承四年(1180年)5月の以仁王挙兵時点では、三男・義憲(義広)と十男・行家を残すのみでした。(ほかにも庶子がいたという説あり。)
十男・行家は東国に地盤をもたず、以仁王の平家追討の令旨を各地の源氏に伝達していたので、この時点で東国で勢力を張っていたのは義広のみでした。
以仁王挙兵の際、末弟の源行家が甥の頼朝公に以仁王の令旨を伝達したのち、義広の元に向かったとされ(『平家物語』)、これは以仁王令旨が八條院領に触れられたという記録と合致します。
同年11月、頼朝公と常陸佐竹氏が戦った「金砂城の戦い」での義広動向はよくわかりませんが、戦の直後に常陸国府で行家ととともに頼朝公に対面しているので(『吾妻鏡』)、頼朝公と直接の敵対関係はなかったとみられます。
その後も頼朝公の麾下に入ったということもなく、常陸で独自の勢力を維持しました。
東国に地盤をもつ唯一の叔父、志田義広に対し、の時点では頼朝公も強い態度を打ち出せなかったのかもしれません。
寿永二年(1183年)2月、義広は鹿島社所領の押領を頼朝公に諫められたことに反発、下野に勢力を張る藤姓足利氏の足利俊綱・忠綱父子と連合し2万の兵を集めて頼朝公に反旗を翻し下野に兵を進めました。
下野国の有力者小山朝政は、源範頼公、結城朝光、長沼宗政、佐野基綱らと連合して野木宮(現・野木町)で義広勢に攻めかかり、激戦ののち義広勢は敗れて常陸の本拠地を失いました。(野木宮合戦)
頼朝公は野木宮合戦に直接関与していないという説もありますが、頼朝公からすると叔父に当たり、常陸に勢力を維持していた義広に強い警戒感をもっていたことは確かかと。
その後、義広は同母兄・義賢の子・木曾義仲に合流し、義仲は義広を叔父として遇して義仲とともに上洛を果たし、義広は信濃守に任官されています。
元暦元年(1184年)の宇治川の戦いでは西上した義経軍と対峙、粟津の戦いで義仲が討ち死にした後も反頼朝の立場を崩さず、同年5月伊勢国羽取山(現・三重県鈴鹿市)で波多野盛通、大井実春、山内首藤経俊らと合戦の末、斬首されました(『吾妻鏡』)。
志田義広の子として、志田義延、志田義国、志田頼重の名が伝わり、Wikipediaによると「志駄氏、梅田氏、楢崎氏、比志島氏、小山田氏などが義広の後裔を称している」とのことです。
東京都足立区の明王院は義広の開基と伝わり、同寺の公式Webには以下のとおりあります。
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1178 治承2 志田三郎先生源義廣、榎戸(現在地より南方、荒川寄り)に祈願所を草創する
義廣三世の左馬之助義純、当所に蟄居する
以後、その子孫が代々居住する
義廣五世常陸介久廣、天満宮を勧請する
久廣、この頃より性を梅田氏と名乗る
また、寺の山号を萬徳山、寺号を梅林寺と称するようになる
永正年間 義廣二十一世梅田久義、丹波に移住
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治承二年(1178年)の時点で義広が榎戸の地に祈願所を草創していたということは、この地に所領をもっていたのかもしれません。
「義廣三世の左馬之助義純」は、義広の子・志田義延、志田義国、志田頼重いずれかの子ということになります。
その後、梅田と姓を改め、少なくとも室町後期の永正年間(1504-1521年)までは当寺と関係があったとみられます。
【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山内
東武伊勢崎線「梅島」駅から徒歩約20分と交通はやや不便ですが、「赤不動尊」と通称され、このあたりでは有数の名刹として親しまれています。
下町らしく狭い路地に家が建て込む街区ですが、そのなかに広々とした山内を構え、基壇のうえにそびえる入母屋造銅板葺流れ向拝の本堂は、さすがに名刹の風格があります。
【写真 上(左)】 回向堂
【写真 下(右)】 本堂
参道正面は回向堂で不動三尊が御本尊。
参道右手の朱塗りの堂宇が不動堂(本堂)で、御本尊・感得不動明王、如意輪観世音菩薩が御座します。
【写真 上(左)】 本堂向拝
【写真 下(右)】 荒綾霊場の札所板
御本尊の感得不動明王(赤不動尊)は、弘法大師が御歳42歳のときに厄除祈願のため造立された御像と伝わります。
当初高野山に安置、根来寺、清閑寺と遷られ、寛保二年(1742年)当寺に奉戴されました。(当寺縁起書)
如意輪観世音菩薩像は南北朝時代の応安二年(1369年)、院派の院秀作とされ、都の有形文化財に指定されています。
当山の鎮守として天満宮、咳止めに霊験あらたかな八彦尊もお祀りされています。
不動尊とのゆかりがふかい寺院で、明和元年(1764年)8月には成田山の出張開帳がおこなわれ、明和二年(1765年)には本所回向院で御本尊・感得不動明王の出開帳がなされているので、篤く信仰されたお不動さまであることがわかります。
徳川家光公・八代将軍吉宗公・十二代将軍家慶公など歴代将軍の鷹狩りの折の御膳所となり、『江戸名所図絵』にも掲載されている江戸の名所のひとつです。
御朱印は庫裡にて荒綾霊場のものが授与されています。
■ 明王院の御朱印
36.白山 東光寺
〔畠山次郎重忠〕
公式Web
神奈川県横浜市金沢区釜利谷2-40-8
臨済宗円覚寺派
御本尊:薬師如来
札所:武州金沢三十四観音霊場第16番、かなざわの霊場めぐり第12番
畠山氏は足利幕府の管領家だったこともあり清和源氏のイメージがありますが、もともとの発祥は桓武平氏良文流で秩父氏の一族です。
秩父氏初代の平将恒は、平良文公の子・武蔵介忠頼公と平将門公の娘・春姫との間に生まれ、武蔵国秩父郡に拠って秩父氏を称しました。
将恒の子孫は武蔵国の各所に土着して勢力を広げ、将恒の曾孫・秩父重綱は「武蔵国留守所総検校職」に就きました。
「武蔵国留守所総検校職」は、国司のいなかった武蔵国の国衙で在庁官人のトップとして、武蔵国内の武士を統率・動員する権限をともなう役職で、大きな権限をもっていました。
重綱の孫・重能は武蔵国大里郡畠山荘(現在の埼玉県深谷市)に拠り勢力を張って、畠山氏初代となりました。
桓武平氏良文流で坂東で発展した8つの氏族はとくに「坂東八平氏」と呼ばれ、上総氏・千葉氏・相馬氏・三浦氏・土肥氏・梶原氏・秩父氏・畠山氏などが名を連ねます。(諸説あり)
うち秩父氏・畠山氏が秩父姓で、「坂東八平氏」以外にも小山田氏、稲毛氏、河越氏、渋谷氏、師岡氏、豊島氏、江戸氏などの有力氏族が秩父姓(秩父党)です。
平安時代後期の当主は初代の畠山重能。
久寿二年(1155年)、重能は関東に下向していた源義朝・源義平父子と結んで比企郡の大蔵館を襲い、叔父の重隆とその婿・源義賢を討ちました。(大蔵合戦)
父・秩父重弘が長男でありながら、秩父氏嫡流は次男の重隆が継いだことへの不満が動機のひとつとみられています。
重能はこの勝戦により、秩父氏嫡流が嗣ぐ「武蔵国留守所総検校職」となる立場を得た筈ですが、なぜかこの職は重隆の孫・河越重頼が継いでいます。
保元元年(1156年)の保元の乱には参戦せず、平治元年(1159年)の平治の乱では重能・有重兄弟は平家の郎等として記されています。(『平家物語』『愚管抄』)
源頼朝公の旗揚げ時、重能は大番役として在京し平家方として転戦しています。
武蔵国の領地を守っていたのは、三浦義明(ないし江戸重継)の息女を母とする17歳の嫡男・重忠。
重忠も平家方として頼朝公と対立、治承四年(1180年)8月には秩父党(河越氏、江戸氏)、村山党などを糾合し、源氏方の三浦義明を衣笠城に攻めて討ち取っています。(衣笠城合戦)
この戦の背景は、畠山:平家方、三浦:源氏方という単純な理由だけではないとみられ、諸説展開されていますがここでは触れません。
このあたりから畠山氏の主役は重忠に移り、重忠は弱冠17歳の時点から源平合戦に突入していくことになります。
治承四年(1180年)10月、重忠は河越重頼、江戸重長とともに隅田川の長井渡しで頼朝公に帰順しました。
反頼朝公の色が強かったのは江戸重長で、重忠は先祖の平武綱が八幡太郎義家公より賜った白旗を持って帰参し、頼朝を喜ばせたという逸話(『源平盛衰記』)もあるので、遅参したとはいえ頼朝公の重忠への心証は悪くはなかったとみられます。
源平合戦では数々の戦功を打ち立て、武名をあげました。
宇治川の渡河で立ち往生した同僚の大串重親を対岸へ投げ上げ、三条河原では木曾義仲の愛妾・巴御前と一騎討ちを演じ、一ノ谷の鵯越では馬をいたわりこれを背負って逆落としを掛けるなど、無双の強者ぶりが『平家物語』などに描かれています。
秩父氏嫡流を嗣いでいた河越重頼は義経の舅だったこともあって誅殺され、「武蔵国留守所総検校職」は重忠が継承、名実ともに武蔵国を代表する御家人となりました。
その後も梶原景時の讒言により重忠追討が審議されるなどの危機がありましたが、これをこなして文治五年(1189年)の奥州合戦では先陣を務めて戦功をあげています。
建久元年(1190年)、頼朝公上洛の際は先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれて参院の供奉をしています。
北条時政の息女を娶っていた重忠の立場は重く、幕閣でも重きをなしたとみられます。
建仁三年(1203年)の比企能員の変では北条側につき、比企氏一族を滅ぼしています。
上洛して京都守護職となった平賀朝雅は、北条時政の娘婿で武蔵守でした。
その名分もあってか、武蔵国の大勢力・比企氏亡き後、時政はその後釜として武蔵国掌握を目論んだとみられます。
本領の中伊豆とは比較にならない広大な武蔵国は、時政にとっては垂涎の地だったのでは。
武蔵国には強豪・畠山氏が健在でしたが、当主の重忠は娘婿なので甘くみていたふしもあります。
しかし、畠山重忠はけっして甘い人間ではなく、時政と重忠は次第に対立を深めていきました。
建仁三年(1204年)11月、源実朝公の御台所を京から迎えるため上洛していた重忠の子・畠山重保と平賀朝雅の間で口論となり、畠山氏と平賀氏の確執は強まりました。
両者の義父である北条時政は一貫して平賀朝雅を支持したとみられ、時政は重忠父子を勘当したという説もみられます。
時政が寵愛した後妻・牧の方の娘が平賀朝雅の壻であったことも大きいとみられます。
また、畠山重保と平賀朝雅の口論の前後に、牧の方の息子の北条政範が京で命を落としていることも重要なファクターという見方もあります。(諸説あり)
牧の方は池禅尼の姪という説があり、池禅尼は中納言・藤原隆家の血筋で平清盛の継母、崇徳天皇の皇子・重仁親王の乳母でもあったので、先妻の伊東祐親の娘よりも血筋的には上で、自分の子が北条氏を継ぐべきという考えをもっていたのかもしれません。
じっさい、北条政範は16歳にしてすでに従五位下・左馬権助に任ぜられており、政範が北条氏の嫡子であったとみなす説さえあります。
元久二年(1205年)6月、平賀朝雅は重保から悪口を受けたと牧の方に訴え、牧の方はこれを重忠・重保父子の叛意であるとして時政に対応を迫りました。
時政は子の義時と時房に畠山討伐を相談すると、2人は反対したものの時政の意思は堅く、ついに義時も討伐に同意したといいます。
6月22日、時政の意を受けた三浦義村が由比ヶ浜で畠山重保を討ち、鎌倉へ向かった重忠を迎撃すべく鎌倉から大軍が発向しました。
重忠は鎌倉の不穏を感じてすでに6月19日に菅谷館(現・埼玉県嵐山町)を発っており、22日に二俣川で鎌倉軍と遭遇して激戦を展開したものの衆寡敵せず、ついにこの地で討ち死にしました。
享年42と伝わります。(畠山重忠の乱)
翌23日、義時は重忠謀反は虚報で重忠は無実であった旨を時政に伝えると、その日の夕方、重忠討伐軍に加わった秩父党の稲毛重成父子、榛谷重朝父子が三浦義村らによって殺害されました。
畠山討伐にあたり三浦義村の動きが目立ちますが、これは衣笠城合戦で畠山氏をはじめとする秩父党に衣笠城を攻められ、祖父・義明を討ち取られた恨みもあったものとみられています。
義時は戦後送られてきた重忠の首級に接し「年来合眼の昵を忘れず、悲涙禁じがたし」と嘆いたといいます。
重忠父子は無実の罪で誅されたとされ、討伐を強引に押し進めた時政に対する御家人たちの不満が高まって、ついに時政と牧の方は義時・政子によって伊豆に追放され、平賀朝雅は誅殺されました。(牧氏事件)
↑ ざっと調べた概略だけでもこれだけのボリュームになるので、深く掘り下げれば1冊の本が仕上がるほどのネタがあるかと思います。
『吾妻鏡』も政子と義時が父時政を追放したという事実は描きにくいらしく、この一連の政変の背景については明示していません。
それだけ複雑な事情と、多くのナゾを秘めた政変であったということかと。
乱後の情勢をみると武蔵の強豪・秩父党はほとんどその勢力を失い、相対的に北条執権家(義時・政子)の力が強まりました。
このあたりにも、この政変を評価する深い意味合いがあるのかもしれません。
畠山重忠の乱が時政の失脚に直結したのは、時政の独裁への反発もさることながら、重忠の人望も大きかったのではないでしょうか。
奥州討伐ののちに藤原泰衡の郎党・由利八郎を取り調べた際、梶原景時は傲慢不遜な態度で接したため八郎は頑として取り調べに応じませんでした。
かたや重忠は八郎に礼を尽くして接し、取り調べに応じた八郎は「先ほどの男(景時)とは雲泥の違いである」と述べたという逸話が伝わります。
『源平盛衰記』『義経記』では分別をわきまえた模範的な武士として描かれ、『曽我物語』では曾我兄弟を讒言から救う恩人として描かれています。
東光寺の公式Webではその人柄をつぎのように記しています。
「義を重んじて正路を覆み 文武両道全うし忠良にして私心無く(中略)公明にして寛大 人は其の誠純を敬す」
判官びいきのきらいはあるにしても、人々からその高潔な人格を認められていたことはまちがいないかと思います。
重忠亡きあと、畠山氏の旧領と名跡は足利義兼の子・義純が重忠の未亡人(時政の息女)と婚姻することで継承し、以降畠山氏は源姓の足利家一門として存続することとなります。
(義純の室は重忠と時政の娘の息女という説もあり。)
室町幕府では三管領の一画を占め、高い家格を保つとともに奥州二本松、紀伊、和泉、大和、河内など各地の守護大名としても発展しました。
戦国期に緒戦で敗れ大名の地位は失うものの、子孫は江戸幕府の高家として幕末まで家格を保ちました。
畠山重忠ゆかりの寺社はいくつかありますが、御朱印を授与されている例は少なくここでは横浜市金沢区の東光寺をご紹介します。
長くなったので簡単にいきます。
東光寺は、建仁年間(1201-1204年)畠山重忠が開基となり、重忠の念持佛・薬師如来を御本尊として建長寺六世勅謚大興禅師が鎌倉二階堂薬師ヶ谷(現・鎌倉宮周辺)に開山、医王山東光寺を号したと伝わります。(弘安五年(1282年)開山説もあり。)
応仁年間(1467-1469年)に現在地(釜利谷)へ移転。
釜利谷付近には重忠・重保父子の供養塔があり、重忠の自領か一族の誰かが住していたとされ、そのゆかりで当地に移転したとみられています。
当寺所蔵の鞍・鐙・轡・鞖は重忠ゆかりのものと伝えられ、横浜市の有形文化財に指定されています。
【写真 上(左)】 山門-1
【写真 下(右)】 山門-2
金沢区には落ち着きのある禅刹が多いですが、こちらもそのひとつ。
戸建て住宅が整然と並ぶニュータウンに緑ゆたかな山内を残しています。
山門は風格のある切妻屋根本瓦葺の四脚門で、山号扁額が掲げられています。
軒丸瓦に描かれた五三の桐紋は、畠山氏の家紋のひとつとされているものです。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 寺号標
【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2
手入れのきいた参道まわりのおくに入母屋造銅板葺の本堂で、向拝柱のないすっきりとした向拝です。
【写真 上(左)】 山内-3
【写真 下(右)】 本堂
向拝正面格子扉のうえには「東光禅寺」の寺号扁額。
上部の斗栱や垂木、下場の格子窓とのバランスが絶妙です。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 本堂扁額と軒
御本尊の薬師如来の説明書には「厳しい顔つき、ひきしまった肉どり、うねりの強い写実的な衣文などに鎌倉時代初期の運慶派の特色が明らかである。」とありました。
名刹にふさわしく、「酸漿蒔絵蔵」「絹本著色釈迦十六善神図」などの文化財も所蔵しています。
山内には畠山重忠の供養塔もあります。
■ 東光寺の御朱印
■ 「鎌倉殿の13人」と御朱印-6へつづく。
【 BGM 】
■ Paradise Island - Thom Rotella (1989)
■ If You'd Only Believe - Randy Crawford (1992)
■ Sailing - Rodney Franklin (1982)
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