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■ 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で出てくる寺院もけっこうあるので、こちらも「鎌倉殿の13人」と御朱印「鎌倉市の御朱印」と併行してUPしていきます。

新型コロナウイルス感染拡大警戒中です。また、令和3年7月伊豆山土砂災害等の影響も懸念され、寺社様によっては御朱印授与を中止されている可能性があります。ご留意をお願いします。

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伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6から。
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8へ。

〔 参考文献 〕
『こころの旅』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 こころの旅』(㈱ピーシードクター 刊)
『霊場めぐり』は、『伊豆八十八ヶ所霊場 霊場めぐり』(伊豆観光霊跡振興会 刊)
を示します。


■ 第49番 神護山 太梅寺(たいばいじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市横川342
曹洞宗
御本尊:地蔵菩薩
札所本尊:地蔵菩薩
他札所:-
授与所:庫裡

『こころの旅』『霊場めぐり』には以下のとおりあります。
寛徳三年(1046年)、弘法大師の法孫・桓舜僧都がこの地に行脚の折、霊夢にひとりの童子があらわれて云うには「此地末世仏法興隆の勝境なれば、ここに一宇を建て法灯を永く伝えて光明世間を照さば利益広大なり。」と。
この地はまさに桓舜僧都の求めていた霊地の地勢でもあったため、歓喜して近在の村人から勧募しこの地に草庵を結びました。この童子は東方の明星(の化身)と伝わります。

ある晩の深夜、ひとりの老人があらわれて「此の地は地蔵薩埵有縁の地なり。汝常に持念の地蔵尊を安置して群生を利せよ。」と告げられました。
桓舜僧都がその名を問うたところ「吾是稲荷神なり。」と告げ、姿を消されました。

桓舜僧都には日頃持念する行基菩薩の御作と伝わる地蔵菩薩があり、このお告げにしたがいこの地蔵尊を御本尊と仰ぎ、背後の山に稲荷神を勧請して守護神(鎮守神)とし、明星山満珠寺と号しました。

保元年中(1156-1159年)、京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、伊豆に流された文覚上人が当寺にて大般若経を写経して源氏再興を祈願され、神護寺と改めたといいます。

後に太梅山深居庵と改め臨済宗に改宗、さらに弘治三年(1557年)には曹洞宗に改宗し深居山太梅寺、嘉永五年(1852年)に現在の神護山太梅寺に定まったと伝わります。

『豆州志稿』には「横川村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊地蔵 寛徳二年(1045年)真言ノ僧建ツ 僧桓舜ヲ祖トス 太梅山深居庵ト号ス(諏訪神社文明十七年(1485年)上梁文ニ深居庵住僧徹定トアリ) 康應元年(1389年)●特賜一源和尚住シ臨済宗ト為ル 天文八年(1539年)相州大住郡田原香雲寺ニ隷ス 香雲寺ハ舊本州下田ニ在テ壽福寺ト称ス ●鵜嶋城(下田城?)ヲ増築ノ時相州ニ移ル 弘治三年(1557年)實堂和尚継席ス 是ヲ開山初祖トス 元和(1615-1624年)ノ頃今ノ称号トス 八幡社慶長十三年(1608年)上梁文ニ太梅寺寂用叟ト記ス 地頭吉田泰盛ノ喜捨文小田原北條氏及安國寺(天正十八年(1590年)豊臣氏東征ノ時ノ文書ナリ)ノ禁牓(札)ヲ蔵ム」とあり、かなり複雑な寺歴をもたれるようです。

下田市宇土金の「(公財)上原美術館」のWebによると、太梅寺には、戦国時代頃に書かれた伊豆最古の禅語録『寂用禅師語録』や、下田の地が戦国時代に戦場だったことを物語る『安国寺恵瓊奉制札』などの貴重な資料が遺されているそうです。

また、御本尊の地蔵菩薩像は絶対秘仏ですが、御前立ちの地蔵菩薩坐像も、中世鎌倉を中心とした禅刹で流行した「法衣垂下」の技法を用いた名作として知られているようです。

■ 紹介動画 ↓


報本寺、太梅寺いずれも、当地の明神、守護神があらわれ、そのお告げを受けて開山されています。
これは、弘法大師が高野山に金剛峯寺を開かれるにあたり、高野御子大神(狩場明神)が高野山まで導かれ、地主神の丹生都比売大神(丹生明神)が神領を譲られて、以降も高野山と深い関係をもったという御由緒に似た展開となっています。

報本寺、太梅寺ともに当初は真言宗での開山であり、高野山開山伝承の影響を受けているのかもしれません。

札所本尊は御本尊の地蔵菩薩。
伊豆八十八ヶ所の南伊豆エリアでは唯一の地蔵菩薩の札所となります。

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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 冠木門

第48番報本寺からすこし下田寄りに戻ったところ、横川温泉のそばにあります。
このあたりには、”飲む温泉”で有名な「観音温泉」、お湯のよさで知られる「昭吉の湯」もあり、温泉好きにはなじみのあるエリアです。

県道側の寺号標から境内までかなりの距離があり、名刹であることがわかります。
駐車場はたしか県道沿いにあったかと思います。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山門下

参道入口に冠木門。その先に杉木立の下、苔むした石段が伸びています。
石段の先の山門下は報本寺と同様のがっしりとした石垣で、この寺構はこのあたりの寺院の特徴なのかもしれません。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の扁額

山門は切妻屋根瓦葺、がっしりとした朱塗りの四脚門の山号扁額が掲げられています。


【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 鐘楼

山内は正面に本堂、左手に堂宇、右手が庫裡のコの字の伽藍配置。
本堂前の2本の巨木が存在感を放っています。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 本堂扁額

本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱はなく、格子戸メインのシンプルな構成。
向拝見上げに寺号扁額を掲げています。

左手の堂宇はなぜか写真が残っていないので不明ですが、経堂か収蔵庫のようなものかもしれません。


【写真 上(左)】 本堂と庫裡
【写真 下(右)】 庫裡

御朱印は雰囲気ある庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 地蔵菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第50番 古松山 玄通寺(げんつうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
南伊豆町一條456
曹洞宗
御本尊:正観世音菩薩
札所本尊:正観世音菩薩
他札所:-
授与所:第63番保春寺

巡路は稲生沢川沿いの第49番の横川・太梅寺から、いきなり一条川沿いの第50番の玄通寺(南伊豆町一條)に飛び、そこから51番、52番と下田方向に戻るかたちとなります。
いまの道路状況からすると唐突な巡路にみえますが、おそらく稲生沢川沿いの横川から峠を越えて一条川筋に至る巡礼路があったかと思われます。

寺伝によると当初は下田寄りの小松野山の頂上にありましたが、数度の火災で記録を失い創建等は不詳となっています。
開山は玄翁心昭(源翁心照空外)。應永三年(1396年)の入寂につき草創はそれ以前とみられています。
『豆州志稿』には、玄翁心昭は那須野が原の殺生石を破砕して妖事を止められたと記されています。

慶長・元和の頃(1596-1624年)、鶴翁和尚により再興。
明治44年(1911年)に庫裏、翌年には本堂が現在地に移されています。

『豆州志稿』には「一條村 曹洞宗 下田大安寺末 本尊観世音 源翁禅師開基 禅師名ハ心照空外ト号ス 後小松帝能照法王禅師ト(勅)賜スト云(應永三年(1396年)正月七日奥州会津示現寺ニ於テ寂ス 鎌倉海蔵寺源翁傳ニ云弘安三年(1280年)正月七日寂スト) 世ニ傳フ昔下野國那須野ニ毒石アリ 人畜触ルヽ者皆斃レ飛鳥空ヲ過ル者忽堕ツ 世俗殺生石ト云 至徳二年(1385年)八月源翁其地ニ至リ 桂杖ヲ以テ破碎ス 妖事立トコロニ止ムト 是蓋齊東野人ノ談ナラム 此地水ナキヲ憂フ 村人四郎左衛門地ヲ穿チテ泉ヲ得タリ 其井今存ス 禅師之ヲ賞シテ古钁ノ氏ヲ賜フ 寺野焼ニ遇フ事数々ニシテ世代ヲ失ス 今鶴翁和尚ヲ祖トス 慶長(1596-1615年)元和(1615-1624年)ノ頃ノ人ナリ 至徳三年(1386年)源翁ニ賜フト云綸旨 幷松永清左衛門(天文廿年(1551年)ノ文書ナリ)今村傳四郎父子等ノ寄進状ヲ蔵ス」とあります。 

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【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 六地蔵と参道階段

一条川に沿って走る県道119号下田松崎線に面して参道入口。そのよこに若干の駐車スペースがあります。
周囲は人家も少なく、通る車もまれです。
入口は木柵で閉じられていますが、鍵はかかっていないので木柵を引いて入れます。
右手に六地蔵と立派な寺号標。正面参道階段の先に本堂が見えます。


【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内

境内には六字御名号「南無阿弥陀佛」の碑がありました。
曹洞宗で御本尊は正観世音菩薩ですが、阿彌陀信仰が入っていたのかもしれません。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂

本堂は寄棟造銅板葺で向拝柱のないすっきりとしたつくり。
右手には庫裡がありますが、こちらは無住寺院です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 庫裡

上原美術館のWebによると、当寺には江戸後期~明治時代作の木像「鳥抱き猿像」が伝わり、「その姿には災いや病を『取り(鳥)去る(猿』という意味が込められている可能性があります。」との由。
上原美術館に収蔵され通常非公開ですが、特別展などで展示されることがあるようです。

御朱印は第63番保春寺(南伊豆町加納)にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 正観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第51番 青谷山 龍雲寺(りゅううんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
南伊豆町青市143
曹洞宗
御本尊:釈迦牟尼佛
札所本尊:釈迦牟尼佛
他札所:-
授与所:第54番長谷寺

現地掲示の寺伝などによると、鎌倉時代の宝治二年(1284年)に青市地内別当向丘に真言宗の寺院として創建。
永禄十二年(1569年)、下田曹洞院三世了堂和尚により再興し曹洞宗に改宗されています。

その後、火災により焼失したのち、天文五年(1740年)に当山裏山の地に新築移転。
暴風により倒壊したため文化二年(1805年)、現在地に本堂などを新築しています。

『豆州志稿』には「青市村 曹洞宗 吉佐美曹洞院末 本尊阿彌陀 永禄中(1558-1570年)曹洞院三世了堂和尚建ツ 初真言宗ナリ 了堂再興シテ改宗ス 寺後ニ側黒石ト云アリ 天正十八年(1590年)安國寺ノ禁牓ヲ蔵ム」とあります。

「安國寺ノ禁牓(制状)」(天正十八年(1590年)豊臣秀吉東征の役の文書)を蔵しています。

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【写真 上(左)】 案内看板
【写真 下(右)】 山内入口

県道119号下田松崎線から南下して国道136号の下賀茂北部に至る枝道から、さらに入ったところにあります。
観光ではほとんど来ない場所かと思います。


【写真 上(左)】 天神社
【写真 下(右)】 山内-1

道はさほど悪くなく、駐車スペースもあります。
参道よこの天神社は菅原道真公を祀り、昭和58年の改修です。


【写真 上(左)】 山内-2
【写真 下(右)】 本堂

本堂は寄棟造銅板葺。がっしりとした大棟にはふたつの御紋、両端に経の巻獅子口。
そこから降る隅棟には一の鬼、二の鬼を配し、あわせて6つの経の巻獅子口を備えて見応えがあります。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

右手の庫裡寄りには海鼠壁とその上に端正な花頭窓を置いて、インパクトのある意匠。
正面格子扉のうえに山号扁額をおいています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 庫裡

御朱印は第54番長谷寺(下田市田牛)にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 釈迦牟尼佛

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第52番 少林山 曹洞院(そうとういん)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市大賀茂89
曹洞宗
御本尊:胎蔵大日如来
札所本尊:胎蔵大日如来・十一面観世音菩薩
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第25番
授与所:庫裡

ふたたび県道119号に戻り、大賀茂付近で山側に入ったところにあります。
このあたりの札所では大規模な寺院です。

幾度の火災で記録を失い沿革は不明ですが、かつては弘法大師修行の霊蹟で大師山(永禅庵)と号し、末寺十数箇寺を擁した真言宗の大刹と伝わります。(のちに少林山と改号)

下田市Web資料『弘法大師の御墨水』によると、弘法大師が御巡錫の折に秘法を修された曹洞院は、もとは下田市大賀茂林山にありました。
弘法大師が修法中に裏山で錫を立てられると、清列な水が湧き出たのでこの水を硯にとられて経を浄書されたので「弘法大師の御墨水」「金剛浄水」とも呼ばれています。

天文元年(1532年)、中村民部少輔宗賢は相州・海沢、新井の二城に拠って三浦道寸と戦いましたが破れ、大賀茂の曹洞院に逃れてこれを再興して開基となりました。(『南豆風土記』)
宗賢遺物の太刀、鎗、兜、鎧、轡などが曹洞院に所蔵されているそうです。
なお「三浦道寸」は、ふつう相模国守護の三浦義同(1451-1516年)を指すようです。

中村宗賢による再建は大永五年(1525年)で、このときに香雲寺の能庵宗為を請して曹洞宗へ改宗、慶長元年(1596年)、開基宗賢の嫡子・兵部宗尊が堂宇を再建という説もあります。

『豆州志稿』には「吉佐美村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊釋迦 開林能庵和尚(天文十年(1541年)寂ス)寺ニ前ノ民部侍郎竹了宗賢ノ牌アリ 旁書曰弘治三年(1557年)ト豈此人ノ開基ナルカ 寮舎ノ後ニ民部ノ宅跡アリ」とあります。

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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 山門

山門は切妻屋根の四脚門で、以前は茅葺でしたが現在は桟瓦葺となっています。
延宝九年(1681年)建立の棟札が残ります。
江戸時代初期の様式を残すとされ、彫刻は左甚五郎作とも伝わります。

天保十二年(1841年)火災により堂字什宝を失いましたが、山門は類焼を免れ往時の面影をとどめるといいます。
山門に立ち手を打つと、裏山より鶯の鳴き声に似た応えがあるので「鶯門」とも呼ばれます。
山門には山号扁額が掲げられ、その手前には札所標があります。


【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 札所標


【写真 上(左)】 山内-1
【写真 下(右)】 山内-2

数段の階段をのぼった先に、花緑青色の鮮やかな屋根が葺かれた本堂。
入母屋造銅板葺で向拝柱はありませんが、向拝屋根が付設されています。
向拝正面はアールヌーヴォー風の両開きの扉で、どことなく龍宮門的な趣きがあります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 庫裡

御朱印は庫裡にて拝受しました。
伊豆横道三十三観音霊場の札所で、こちらの御朱印も拝受しています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 胎蔵大日如来・十一面観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳
※御朱印帳書入の御朱印尊格は胎蔵大日如来となっています。

〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕



■ 第53番 佛谷山 寶徳院(ほうとくいん)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市吉佐美1667
曹洞宗
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:-
授与所:庫裡

三島の第17番(泉福寺)以来の不動明王の札所です。
こちらも比較的規模の大きな寺院で、草創は貞観年中(859-877年)と伝わります。

天安二年(858年)、中国の長安にある青龍寺で学んだ僧が千体仏を請じて帰国した際、船が難破し吉佐美の浜に打ち上げられました。
浜に漂着した千体仏を安置するために結んだ庵が当寺の始まりと伝わります。

応永二年(1395年)に吉佐美入条の人土屋某が(改めて?)小庵を結び、宝徳元年(1449年)、伊豆山の僧が来住し寺となして真言宗に属しました。

天正五年(1577年)には、曹洞宗の僧吉叟が尾賀茂の延命寺をここに遷して合併し伽藍を整えたと伝わります。
その後一時空院となりましたが、寛文二年(1662年)香雲寺の僧天国が再興したといいます。

寺伝によると御本尊の不動明王は六、七世紀頃、中インドのマカダ国から中国の都・長安の青龍寺に伝えられたもので、入唐して青龍寺で学ばれた智証大師円珍(814-891年)が請来した千体仏のひとつであるといわれています。

『霊場めぐり』によると、治承四年(1180年)、源頼朝公が武衛七人を連れて当院に立ち寄ったとき、砂鉄で茶釜をつくり薬湯を点じて病人に飲ませたところ、たちどころに病が癒えたと伝わります。
こういう奇瑞もあってか頼朝公の御本尊の不動明王への尊崇は篤く、後世も伊豆一円の人々の信仰を集めたと伝わります。

わが国への不動明王の伝来は天平年間(729-766年)~800年代初頭とみられており、こちらの不動明王は最初期の御像とみることができます。
ご参考〔日本最古の不動明王について〕

『豆州志稿』には「吉佐美村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊不動 寶徳中土屋某庵ヲ立ツ 天正五年吉叟和尚(俗姓土屋)寺トシ創建ノ時ノ紀号ヲ寺名トス 昔佛像ヲ多く載タル船 此濱ニテ破壊セリ 因テ取立テ此谷ニ夥ク積ミ置ケリ故ニ佛谷ト云 人取去テ今ハ無シ」とあります。

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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

吉佐美の集落の山側にあり、開けて明るいイメージの寺院です。
本堂は入母屋造桟瓦葺妻入りで、向拝柱を置いています。
向拝格子扉のうえに山号扁額。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 札所板

堂内は妻入りだけあってふところがふかく、不動尊の堂宇らしい張り詰めた空気感。

背後の山手、通称”ホトケ岩”には三十三観音、十六羅漢、金比羅堂などが安置され山内霊場(佛谷山)となっています。


【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 山内霊場(佛谷山)の参道

御朱印は庫裡にて拝受しました。
第65番最福寺(南伊豆町上賀茂)の御朱印も授与されています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 不動明王

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第54番 浦岳山 長谷寺(ちょうこくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
下田市田牛156
曹洞宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:-
授与所:庫裡

下田の吉佐美から海岸沿いをタライ岬方面に進んだところに田牛(とうじ)の集落があります。
ここには田牛温泉という独自源泉があり、以前から温泉巡りのなかで狙っていましたが、日帰り施設がみつからず痛恨の未湯湯となっています。
南伊豆の湯巡りルートからは外れているので、今回初の来訪です。

天平年間(729-749年)、行基菩薩の開創と伝わる古刹で、もとは真言宗古義派に属し、西老山昌善寺と称しました。
天文十四年(1545年)に現在の浦岳山長谷寺に号を改め、明暦元年(1655年)、曹洞院九世来室栄撮を請じて曹洞宗に改宗しました。

『豆州志稿』には「田牛村 曹洞宗 吉佐美曹洞院末 本尊阿彌陀 天平中行基建ツト云 古名西光山昌善寺 治承四年八月僧弘禅彌陀像ヲ遠谷島ノ岳浦ニ獲タリ 天文十四年正月初テ寺ニ納ム 其後所獲ノ地名ヲ以テ寺号トシ 亦真言ヲ改テ洞家トナリ曹洞院ニ隷ス 時ノ住僧来室ヲ以テ始祖トス(時ニ寛永二年ナリト云 来室ハ曹洞院九世宗) 天文十三年激浪ノ為寺地●没ス 乃現地ニ移ス」とあります。

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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 本堂

田牛の集落の山手にあります。
石垣に堀割の参道階段。階段のぼり口には「国指定 重要文化財 木像阿弥陀如来坐像」の標識が建っています。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 札所板

山内はこぢんまりとして、すぐ正面が本堂です。
入母屋造銅板葺で、向拝柱と屋根を付設しています。
屋根の勾配が緩く、ちょっと変わったイメージの堂宇です。

簡素な水引虹梁。向拝柱には札所板が掲げられています。

御本尊の阿弥陀如来像は治承四年(1180年)田牛村遠国島の岳浦に漂着し、末寺の昌幸寺に安置されていたもので、天文十四年(1545年)、改宗と同時期に当山に御本尊として遷座されたといいます。

檜材割矧(わりはぎ)造、定朝様式の坐像で国の重要文化財に指定され、文化庁資料には「平安時代の作品」とあります。
『霊場めぐり』には「田牛から青市、湊辺にかけては蒲屋御厨(かばやみくりや)と呼ばれ、古くは伊勢神宮領であったことが『神鳳抄』(鎌倉時代の書)にあることから、この地方が意外に早く開けたことを示している。」とあり、平安時代の仏像が遺されている理由となっているかもしれません。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
第51番龍雲寺(南伊豆町青市)の御朱印も授与されています。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 阿弥陀如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第55番 飯盛山 修福寺(しゅうふくじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
南伊豆町湊662
曹洞宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:伊豆横道三十三観音霊場第26番
授与所:庫裡

第55番~58番は、下田から石廊崎に向かう県道16号下田石廊松崎線沿いに点在します。
南伊豆の海岸線をたどる風光明媚な巡路です。

第55番修福寺は『こころの旅』によると、「当初大和の国大安寺の支院として開創。(大安寺は現在は真言宗だが以前は(南都六宗の一つ)三論宗で大安寺流の寺として知れわたっていた。)」とのこと。

三論宗の歴史をたどれる寺院は東日本では稀少です。

当初は南伊豆町青市の大寺山にあって石門寺と号し、後に手石から現在地に移転しています。
手石から現在地へは天文十三年(1544年)寂用栄順和尚が移され、師の香雲寺四世実堂宗梅を開山として請じ、その折に寺名と宗旨を改めたといいます。

『豆州志稿』には「湊村 曹洞宗 相州田原香雲寺末 本尊薬師 本手石村石ノ洞門ニ在テ石門寺ト称ス 天文十三年(1544年)寂用和尚玆ニ移シ寺名ト宗旨トヲ易フ 初真言ノ道場ナリキ香雲寺四世宗梅ヲ請シテ改宗ノ祖ト為ス」とあります。

所蔵の「紙本墨書大般若経」は大治五年(1130年)国司(大江)通国、源盛賴等の奥書があり、国の重要文化財に指定されています。

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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 寺号標

伊豆屈指の砂浜、弓ヶ浜の山側にある禅刹です。


【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 六地蔵と参道

うっそうと木立の茂る石段をのぼっていきます。
石段手前には寺号標と札所標。
こちらは伊豆横道三十三観音霊場の札所でもあるので、併記された札所標です。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 収蔵庫?
     
のぼり切ると正面に本堂。左手に収蔵庫?、右手に庫裡。
本堂は寄棟造桟瓦葺で向拝柱のないシンプルな構成ですが、桁行きがありどっしり落ち着いた印象です。


【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額

お声がけすると本堂を開けていだけました。
本堂内見上げに「瑠璃殿」の扁額。
堂内は天蓋がかかって華やかで、どことなく密寺の雰囲気もあるのは、元真言密寺のなごりでしょうか。

観音霊場の札所本尊は十一面観世音菩薩。こちらは十句観音経と御真言をお唱えし、庫裡にて両霊場の御朱印を拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 薬師如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳

〔 伊豆横道三十三観音霊場の御朱印 〕



■ 第56番 養珠山 正善寺(しょうぜんじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
南伊豆町手石165
曹洞宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:-
授与所:第55番修福寺

当初は真言宗寺院で詳善寺と号していました。
寛永年間(1624-1644年)に修福寺五世嶺屋秀雪が開山となり曹洞宗に改宗しています。

『豆州志稿』には「手石村 曹洞宗 湊村修福寺末 本尊薬師 法継不詳 寛永(1624-1644年)ノ嶺屋和尚ヨリ修福寺ニ隷ス 寺号初作詳善寺 寺内ノ大日堂近年焼亡ス 或云ニ寺(青龍正善)倶ニ係新建ト当村ノ古寺ハ皆小堂ト為リタリ」とあります。


御本尊の「木造伝大日如来坐像」は運慶作とも伝わり、静岡県の有形文化財に指定されています。
県Web資料には「桧材、寄木造、彩色及び古色、玉眼嵌入 鎌倉時代 鎌倉時代前期の檜材寄木造。慶派の作品。台座に付いていた銘札によれば、元久2(1205)年、大仏師雲慶作の大日如来と伝えられている。」とあります。

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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 山内

青野川沿いにある禅刹です。
青野川河岸から伸びる参道脇には石仏が並んでいます。
無住でこぢんまりとした山内。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は入母屋造桟瓦葺、向拝柱のないシンプルな堂前で扁額もありません。

御朱印は第55番修福寺にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 大日如来

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


■ 第57番 東海山 青龍寺(せいりゅうじ)
伊豆88遍路の紹介ページ
南伊豆町手石329
臨済宗建長寺派
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:如意輪観世音菩薩
他札所:-
授与所:庫裡

寺伝には嘉禄元年(1225年)の開創とありますが、享保(1716-1736年)初期の火災で記録一切を焼失しているため詳細は不明とされます。
『豆州志稿』によると、佛印禅師(應永四年(1397年)寂)を開山として再興しています。
現在の本堂は享保五年(1720年)築と伝わります。

『豆州志稿』には「手石村 臨済宗建長寺派 相州鎌倉建長寺末 本尊観世音 佛印禅師ヲ開山トス(應永四年(1397年)寂ス) 嘉禄(1225-1227年)中ノ創立ナリト云 後衰頽ニ属セシヲ 佛印再興ス」とあります。  

寺宝として白隠禅師直筆の「宝鏡窟の記」が所蔵されています。

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【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 寺号標

こちらも青野川の流れにほど近いところにあります。
参道入口に自然石の寺号標。
そこから山門に向かってまっすぐに参道が伸びています。


【写真 上(左)】 山門と本堂
【写真 下(右)】 本堂

山門は切妻屋根本瓦葺の風格ある四脚門で、正面の本堂の屋根といいコントラストをみせています。


【写真 上(左)】 斜めからの本堂
【写真 下(右)】 向拝

本堂は寄棟造銅板葺流れ向拝。
水引虹梁と身舎側に海老虹梁、中備に本蟇股をおいています。

札所本尊はこの霊場では比較的めずらしい如意輪観世音菩薩。
御朱印は庫裡にて拝受しました。

〔 伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
● 如意輪観世音菩薩

 
【写真 上(左)】 専用納経帳
【写真 下(右)】 御朱印帳


伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8へつづく。



【 BGM 】
■ 涙色 - 西野カナ


■ ずるいよ… - CHIHIRO


■ 夢暦 - 川江美奈子




伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-1
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-2
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-3
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-4
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-5
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-6
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-7
伊豆八十八ヶ所霊場の御朱印-8へ。
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