関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-8
Vol.-7からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第25番 六所山 長明院 長楽寺
(ちょうらくじ)
日野市程久保8-49-18
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:
司元別当:
授与所:庫裡
第25番札所の長楽寺は御府内霊場中ふたつある都区外の札所の一寺で、都下の日野市にあります。
第25番札所も複雑な変遷をたどっています。
現在の第25番札所は長楽寺ですが、『御府内八十八ケ所道しるべ』では、四ッ谷小寺町の自然山 地福寺 和光院となっています。
「日野市観光協会Web」によると、長楽寺は元和六年(1620年)開山なので、御府内霊場開創の宝暦五年(1755年)にはすでに存在しています。
しかし明治初頭編纂の『御府内八十八ケ所道しるべ』では第25番札所は和光院なので、江戸期を通じて第25番札所は和光院であったとみられます。
(江戸八十八ヶ所霊場第25番も和光院。)
「ニッポンの霊場」様Webに、江戸八十八ヶ所第25番の和光院は「廃寺」とあるので、明治初頭の神仏分離の際に廃されたのかもしれません。
和光院の札所本尊の一尊に将軍地蔵尊が定められていましたが、愛宕権現との習合色の強い将軍(勝軍)地蔵尊を祀る寺院が神仏分離で廃された例(愛宕・圓福寺など)があるため、当院もこの例に該当したのかも。
長楽寺は角筈(現・西新宿三丁目付近)の大寺院でしたが昭和20年5月の空襲で被災し、寺地への道路建設などもあって昭和35年に現在地に移転しています。
寺勢衰微した戦災後に御府内霊場札所になったとは考えにくいので、明治の和光院廃寺によって第25番札所を引き継ぎ、昭和35年の寺院移転とともに札所も移転したというのが自然な見方でしょうか。
「猫の足あと」様Webに掲載されている『日野市史』には以下の記載があるようです。
・総本山長谷寺の末(直末?)
・御本尊の不動明王像は唐よりの伝来と伝わる
・享和二年(1802年)以降、不動信仰により栄え門前市をなした
・明治中期より昭和11年にかけ諸伽藍を建立、大寺院の風格を備えた
・弘法大師像は厄除大師として知られていた
和光院は智積院末(現・智山派系)ですが、四ッ谷からほど近い角筈に不動尊霊場・厄除大師として知られる真言密寺の長楽寺があったため、こちらが第25番札所を承継されたのでは。
あるいは、明治中期から昭和11年にかけての諸伽藍整備の記念事業として、御府内霊場札所を受けられたのかもしれません。
今回は殊に推測が多くなりましたが、それだけ札所異動に関する情報がすくないということです。
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【史料】
【長楽寺関連】
■ 日野市観光協会Web(要旨抜粋引用)
・元和六年(1620年)代官渡辺与兵衛が頼音和尚に帰依し、数千坪を寄進して開山したと伝わる。
・徳川四代将軍家綱公が将軍職に就く前、慶安三年(1650年)正月、武蔵国府中六所明神(現・大国魂神社)に参詣の折、当山に立ち寄られ、六所明神にちなんで真筆をもって六所山の山号を与えられたと伝わる。
・もとは新宿区西新宿3丁目にあり、大本堂・書院・庫裡・大師堂・地蔵堂・鐘楼・山門を備えた大寺院だった。
・昭和20年5月25日空襲に遭い、その後の都市計画道路建設により移転をよぎなくされ、昭和35年に多摩動物公園隣の現在地に移転した。
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(角筈村)長楽寺
同宗(新義真言宗)多磨郡中野村寶仙寺末 六所山長命院ト号ス 当寺モ多聞院ト同ク與兵衛ノ開基スル所ナリ 開山賴音 慶安三年(1650年)十二月寂 本尊不動ヲ置 寺傳ニ当山ヲ六所ト号セルハ 昔厳有院殿府中六所ヘ御参ノ時 タマ々々当寺ヘ成ラセ給ヒシヨリ名付シ由イヘト イト牽強ノ説と思ハル 元ヨリ拠トスヘキモノナケレト 其頃賜ヒシ御筆ナリトテ横物ノ掛軸ヲ寺宝トス
【和光院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
二十五番
四ッ谷小寺町
自然山 地福寺 和光院
智積院末 新義
本尊:不動明王 将軍地蔵尊 弘法大師
大師建立本尊地蔵ぼさつ 座像大師
■ 『寺社書上 [43] 四谷寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.38.』
四谷小寺町
京都智積院末
自然山 地福寺 和光院
新義真言宗
開山 法印泉秀 寛永十六年(1639年寂)
当寺開闢之年代相知不
古●麹町辺ニ●●処寛永年中(1624-1644年)(略)御用地(略)処●ニ立退●移●
本堂
本尊 不動明王
護摩堂
本尊 地蔵尊
不動尊 毘沙門天 両大師
鎮守 稲荷社
「和光院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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多摩都市モノレール・京王動物園線「多摩動物公園」駅徒歩2分と交通至便で、駐車場も完備しています。
多摩動物公園のすぐとなりで、休日は子連れファミリーの姿が目立ちます。
【写真 上(左)】 すぐ下にモノレールと駅
【写真 下(右)】 山内入口
丘陵を造成して建立した寺院なので、前面道路からかなりの急坂をのぼります。
参道沿いには石仏が並び、地蔵尊座像も御座します。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 参道の地蔵尊と石仏群
石仏は如意輪観世音菩薩と地蔵尊がメインで、江戸期の年号が刻まれているので、おそらく角筈の旧地から遷られた御像かと思います。
山内は郊外寺院にしてはコンパクトですが、急坂をのぼっただけに眺望よく明るい雰囲気。
小高い尾根上に尊像や堂宇が連なる構成です。
【写真 上(左)】 修行大師と鎮守神
【写真 下(右)】 修行大師像
手前から朱塗りの稲荷社。扁額には「当山鎮守」とみえます。
そちらの向かって左手には端正な修行大師像。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 山内
さらに、鐘楼、しあわせ小僧、釈迦如来佛足石、大師堂とつづきます。
大師堂には厄除弘法大師座像が御座され、台座には札番の銘板が置かれているのでこちらが御府内霊場の拝所であることがわかります。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂の銘板
【写真 上(左)】 厄除弘法大師像
【写真 下(右)】 奥側の堂宇
札所本尊は不動明王で、たしか大師堂と相対する建物のなかに御座かと思いますが、なぜか記憶が定かでありません。
その奥に鉄柵があり「これより先檀家専用墓地に付 一般の方の立入はご遠慮下さい。」とあるので巡拝者の立入りはここまでです。
鉄柵の奥の大棟に鴟尾を置いた堂宇には「阿弥陀堂」の掲示がありました。
御朱印は庫裡?にて拝受しました。
なお、参詣時間は16時までで、月曜定休の掲示がありました。
出直し参拝はきびしい立地なので、事前の電話確認がベターかと思います。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「不動明王」「弘法大師」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内八十八ヶ所第廿五番霊場」の札所印。左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第26番 海賞山 地蔵院 来福寺
(らいふくじ)
公式Web
品川区東大井3-13-1
真言宗智山派
御本尊:延命地蔵菩薩
札所本尊:延命地蔵菩薩
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第74番、東海三十三観音霊場第2番、多摩川四郡八十八ヶ所霊場第79番
司元別当:
授与所:事務所
第26番はふたたび都区内に戻ります。
鎌倉御家人や俳句とゆかりのふかい品川・大井の来福寺です。
縁起・沿革は公式Webに詳しいので、こちらと『新編武蔵風土記稿』を参考にまとめてみます。
当山の歴史は古く、正暦元年(990年)、智辨阿闍梨の開山といいますから、1030年以上もの法燈を伝承していることになります。
前九年の役、後三年の役などの戦禍を被るも法燈を堅持され、鎌倉時代には梶原一族が檀信徒となって栄之、景政、景時、景季等が寄進した「梶原松」「延命桜」があったと伝わります。
来福寺参道北側の路地には梶原稲荷神社がご鎮座です。
境内由緒書には「梶原平三景時(略)源頼朝ノ命ヲ奉ジテ武蔵國大井村鹿島谷ニ萬福寺ヲ建立シ、ソノ境内ニ守護神トシテ稲荷ヲ勧請シテ梶原稲荷ト尊称シタ。元応元年(1319年)、萬福寺ハ兵火ニヨリ焼失シ馬込村ニ移リタルニ依リ、焼ケ残リシ稲荷祠ハ梶原屋敷内ニ奉納サレテ、後、柴村来福寺ニ奉納サレ、ソノ追福ノタメ同寺ヘ松櫻ナドヲ植エ寄進シタ。コノ梶原塚ハ鎌倉源五郎景正ノ子梶原日向守 亦梶原助五郎一族ヲ祀ル古墳デアル。」とあります。
なお、現在梶原稲荷神社は地元の梶原稲荷講により維持管理されている模様です。
梶原稲荷神社
文亀元年(1501年)、源頼朝公の納経と伝わる経塚(現・大井1丁目経塚地蔵堂)の前を行脚していた梅巌(梅綾とも)和上が経塚のなかから読経の声を聞かれ、急ぎ掘り起こすと一躰の立派な地蔵菩薩像が出現しました。
不思議に思った梅巌和上がいろいろ調べてみると、この地蔵尊は行方不明となっていた来福寺の御本尊・延命地蔵尊で、弘法大師御作とも伝わる有り難いお像であることがわかりました。
以来このお地蔵さまは「経読(きょうよみ)地蔵尊」と呼ばれ、来福寺の御本尊として尊崇されるとともに、御分身は出現の地(経塚地蔵堂)および三つ叉地蔵堂(大井1丁目)に奉安され、ともに来福寺の境外佛堂として人々の信仰を集めています。
御本尊の経読地蔵尊は鎌倉権五郎景政の守り佛で梶原景季に伝わり、梶原氏との縁から当寺に収まられたといいます。
古来、地蔵尊には桜木を奉納する風習もあって、江戸時代には桜の名所として知られ、山内には「世の中は 三日見ぬ間に 桜かな」という雪中庵三世大島蓼太(芭蕉直系の旅俳人)の句碑があります。
古くは海上山、海照山と号し、境内に天満宮のお社があったので天神山とも呼ばれたといいます。
法系は往古は(馬込)長遠寺末、その後京都仁和寺末となり代々親王が住職を継承されました。
明治38年に川崎大師平間寺の法系となり今日に至っています。
寺伝もきれいに収まってそれではつぎの第27番・・・、となりそうですがそうはいきません。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には第26番札所に「四ッ谷南寺町 文殊院」とあるからです。
また、江戸八十八ヶ所霊場の第26番札所も文殊院となっています。
大井の地は御府内から外れており、この点からも江戸時代の札所は四ッ谷南寺町の文殊院であったとみられます。
20番代の札所は変遷が複雑で、いずれも一筋縄ではいきません。
第26番もこういう変遷があるので、文殊院についてたどっていきます。
文殊院は『御府内寺社備考』に掲載がなく、『寺社書上』と『御府内八十八ケ所道しるべ』を典拠とします。
文殊院は慶長十六年(1616年)、麹町九丁目横町に祐信上人が開山といいます。
寛永十一年(1633年)旧地を御用地として召し上げられ、四ツ谷南寺町に替地を拝領して移転したようです。
大塚護持院を本山とする新義真言宗寺院で、御本尊の阿弥陀児如来は秦氏ゆかりの尊像と伝わります。
秦河勝公は聖徳太子の同志として国造りに貢献したとされますが、河勝公九世孫の秦大蔵老ゆかりの伝承が伝わります。
漢文なので詳細まで読み取れません。すみませぬ。
太秦の名族の当主・秦大蔵老は年老いて子がなくこれを嘆いていたところ、一体の地蔵尊を得て子宝祈願に専念すると、妻が阿弥陀佛の霊夢をみるや女の子を授かりました。
父母の寵愛を一身に受け、聡明で花のように美しく育った姫でしたが、あるとき鷲にさらわれ(?)行方知れずとなってしまいました。
大蔵老は嘆き哀しみ、日夜姫の無事を尊佛に祈りました。
ここから先は記述が込み入って不詳ですが、紆余曲折ののち大蔵老は二寸余の阿弥陀佛像を得、以降、この尊像は「児如来」と尊称され崇められたという内容のようです。
『寺社書上』に「児如来と申阿弥陀木像(略)社僧秦氏代々乃家傳乃本尊」とあるので、こちらの児如来が御本尊として奉安され、札所本尊も児如来でありました。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には「本尊児如来ハ川勝の守(?)り佛なり」とあるので、秦河勝公の守り佛であったのかもしれません。
あるいは、河勝公ゆかりの川勝寺(現・京都市右京区西京極、廃寺)の奉安佛だったのかも。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には文殊尊の挿絵が載せられ、こちらが院号ゆかりの尊像とも思いますが、なぜか『寺社書上』には文殊尊についての記載はありません。
「文殊院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
↑ の挿絵には「阿ぶらげ坂」とみえます。
「阿ぶらげ坂」(油揚坂)とは「戒行寺坂」のことで、戒行寺が面していました。
『江戸切絵図』をみると文殊院は戒行寺の対面で、たしかに阿ぶらげ坂(戒行寺坂)に面していたことがわかります。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』四ツ谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC
「ニッポンの霊場」様Webに、江戸八十八ヶ所霊場第26番の文殊院は「廃寺」とあるので、明治初頭の神仏分離時に廃された可能性があります。
第26番札所が四ッ谷の文殊院から大井の来福寺に承継された経緯については、手がかりが見当たらずまったくわかりません。
来福寺は長遠寺(新義智山派)末から仁和寺(古義)末となり、明治38年から川崎大師平間寺(新義智山派大本山)の法系に入っています。
一方、文殊院は大塚護持院末ですから長谷寺豊山派の流れで、本末関係など宗派的なつながりによる承継は考えにくいです。
四ッ谷から大井(品川)への遠距離移転もなんらかの事情があってのものでは?
確たる史料がみつからない以上、これ以上は掘り下げられないので、ナゾはナゾとして残しておきます。(と、逃げる(笑))
来福寺は東海三十三観音霊場との兼務札所です。
この観音霊場は東海道沿いの札所分布で、玉川八十八ヶ所霊場や新四国東国八十八ヶ所霊場との兼務札所はめずらしくないですが、御府内霊場との兼務はこちらだけで、それだけ南東(神奈川)寄りに飛んだ立地であることがわかります。
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【史料】
【来福寺関連】
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(大井村)来福寺
新義真言宗同郡馬込村八幡宮別当長遠寺ノ末ナリ 海賞山地蔵院ト号ス 正暦元年(990年)智瓣阿闍梨ノ草創ト云(略)本尊ハ弘法大師ノ彫刻ニテ延命経讀地蔵ト云ヘリ 寺傳ニヨレハ此像ハ鎌倉権五郎景政ノ守佛ナリシカ 数傳ノ後梶原景季ニ傳ハリ 終ニ當寺ヘ納タリトイヘト證トナスヘキモノアラサレハウケカヒカタシ
天神社 門ヲ入テ右ノ方小高キ処ニアリ
梶原塚 境内北ノ方ニアリ 景季ノ墳ト云 按ニ此辺梶原景時父子ノ舊蹟ト云モノ多シ(以下略)
梶原松 延命櫻 此二木ハ共ニ客殿ノ前ニアリ 梶原景季地蔵信仰ノ餘自ラ植シト云傳フ 今モコノ側にナラヒテ 地蔵尊信心ノ人ハ 櫻ノ木ヲ納ルコトヽナリタレハ 当寺ノ境内ニハ昔ヨリ櫻樹多カリシカ 猶近キ頃檀越ノ寄進ニテ再ヒ植増セシニヨリ 毎春花ノ頃ハ人コトニツトヒ来リテ賑ヘリ
■ 『江戸名所図会』(国立国会図書館)
砂水御林町にあり真言宗にて本尊は地蔵菩薩を安置す 弘法大師の作 御丈九寸八分なり
梶原氏の草創にてすなわち此地ハ其宅地なりしといふ
縁起云此本尊ハ梶浦氏代々其家の相伝人々尤霊威なり 然に元享の頃地辨と云沙門眼疾を患ひ此本尊に祈念して不日に本快を得たり 其後世の中大に乱る尓(しかり) 本尊の所在忘れさりしに 文亀年間梅巌阿闍梨当寺より四五町西の方経塚といふ地中よりこれを感得せしとなり(略)当寺境内櫻樹数株ありて悉く品を領てり 弥生の花盛にハ遠近薫を慕ひてし●ふ遊賞する人少ならす
納経塚
来福寺より六町ほど西にあり 相伝ふ此地に収ら●むといへり 来福寺本尊地蔵菩薩此所より出現したまひし頃土中にて夜なヽ読経したまひしとそ 故に来福寺本尊を世に経読地蔵尊と称せり
「来福寺」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[4],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC (保護期間満了)
【文殊院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
二十六番
四ッ谷南寺町
雲龍山 宝満寺 文殊院
大塚護持院末 新義
本尊:児如来 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [45] 四谷寺社書上 四』(国立国会図書館)
四ツ谷南寺町
護持院末
雲龍山 宝満寺 文殊院
新義真言宗
開山 祐信上人 寛永十三年(1636年)遷化
中興開基 紀州公御開基(略)年月日相知不候
本尊 阿弥陀児如来立像
本像山城國太秦(略)大蔵之作
児如来記
秦大蔵者乃秦川勝九世孫也(以下略)
護摩堂
本尊 立像不動木像 前立に二童子木像 座像地蔵木像
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京急本線「立会川」駅から徒歩10分の住宅街にあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
東京湾にもほど近いですが、このあたりは武蔵野台地が海側にせり出しているところで地勢に起伏があり、石畳の参道も登り坂&階段です。
【写真 上(左)】 山門下
【写真 下(右)】 札所標
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の彫刻
山内入口に寺号標、山門手前に札所標があります。
参道階段の先に山門。来福門とも呼ばれ江戸末期の建立です。
入母屋屋根で桟瓦葺ながら大棟に青海波紋様を置き、降棟、隅棟とも整ってバランスのとれた意匠。水引虹梁両端の木鼻彫刻も見事です。
確信はもてないのですが、おそらく脇塀付の四脚門かと思います。
【写真 上(左)】 緑濃い山内
【写真 下(右)】 修行大師像と本堂
山門をくぐると緑濃い山内。京浜工業地帯にほど近い立地とはとても思えない落ち着いた空気はさすがに古刹。
【写真 上(左)】 地蔵堂の石標
【写真 下(右)】 天水鉢の「丸に並び矢」
本堂手前に修行大師像で、周囲はお砂踏み場となっています。
また、地蔵尊のお種子「カ」が刻まれた地蔵堂石標もみえます。
本堂の天水鉢には梶原氏の家紋「丸に並び矢」が彫られ、梶原氏とのゆかりを示しています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は近代建築で寄棟造桟瓦葺。向拝前三間は軒下に収まっています。
扁額はなく、向拝軒下に吊られた天蓋のようなもの(?)に寺号が刻まれています。
【写真 上(左)】 寺号入りの天蓋?
【写真 下(右)】 聖天堂参道
山内には聖天堂も御座します。
参道の朱塗りの山王鳥居が印象的で、江戸時代建立の堂宇(入母屋造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁付)の彫刻も見事です。
庭園に立つ立派な宝篋印塔は享保十九年(1734年)の銘で、右まわりに三回巡拝して願い事を祈願します。
【写真 上(左)】 宝篋印塔
【写真 下(右)】 安明閣
御府内霊場札所のうちでは緑の多い札所のひとつで、落ち着いた参拝ができます。
御朱印は本堂向かって右の寺務所兼休憩所の「安明閣」で拝受しました。
メジャー霊場3つの札所を兼務され、対応は手慣れておられます。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊延命地蔵菩薩」「弘法大師」の揮毫と地蔵菩薩のお種子「カ」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「二十六番」の札所印。左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 玉川八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 東海三十三観音霊場の御朱印
■ 第27番 瑠璃山 正光院
(しょうこういん)
公式Web
港区元麻布3-2-20
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:江戸薬師如来霊場三十二ヶ所
司元別当:
授与所:庫裡
第27番札所は元麻布の正光院です。
公式Web および下記史料から縁起・沿革をたどってみます。
寛永七年(1630年)、紀州高野山学寮正智院末寺として麻布櫻田町に開創。
開基は黒田藩主筑前守忠之公、開山は正智院二十八世・検校法印宥専大和尚。
嘉永二年-文久二年(1849-1862年)刊の『江戸切絵図(麻布絵図)』にもしっかりその名がみられます。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』麻布絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
御本尊は弘法大師御作と伝わる薬師如来座像、脇立の日光・月光両菩薩も弘法大師の御作と伝わります。
御本尊は恵心僧都作で、一條帝御降誕の祈願佛という伝承もあるようです。
御本尊の薬師如来は霊験あらたかで「子安(易)薬師」として信仰を集めたといい、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所の札所(現在活動休止)となっています。
弘法大師の木座像も奉安。
別尊の不動尊は麻布大山不動、地蔵尊は子育鹽地蔵と称されていずれも庶民の信仰を集めていたとのこと。
地蔵尊は石佛で、もと霞山櫻田神社の別当・天台宗観明院境内にあったのを、同寺廃絶により当山に遷されたといいます。
開基は高野山真言宗の信仰篤いと伝わる、福岡藩二代藩主の黒田筑前守忠之公。
紀州高野山学寮正智院のおそらく直末で、「麻布高野山」とも呼ばれます。
弘法大師御作と伝わる薬師如来は「子安薬師」として信仰を集めているとあっては御府内霊場札所として申し分なく、今度こそはつぎの第28番へ・・・、となりそうですがやはりそうはいきません。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には第27番札所に「芝赤ばねばしいなり別当 圓明院」とあるからです。
また、江戸八十八ヶ所霊場の第27番札所も「(赤羽橋)三宝山 永護寺 円明院 廃寺」となっています。
しかし、圓明院は『寺社書上』『御府内寺社備考』ともに記載がなく、手がかりは『御府内八十八ケ所道しるべ』しかみつかりません。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には圓明院は「高野山宝性院(寶性院)末」とあります。
Wikipediaによると、宝性院は密教の学問(事相)を大成、宝門(而二門教学)と呼ばれる学派を生み出した宥快が院主となった高野山の寺院で、無量壽院とともに「門主寺」と呼ばれて高い格式を有しました。
大正2年に無量壽院と寳性院は合併、寳壽院を号して現在は高野山真言宗の大本山となっています。
圓明院はこのような高い格式の宝性院のおそらく直末ですから、もう少し記録が残っていてもよさそうですが、どうにも手がかりがありません。
頼みの『御府内八十八ケ所道しるべ』ですが、くずし字で読解不能の箇所があり、判然としません。
「当社の神体ハ大師一刀ごとに三礼して彫刻したまふ●駆三縁山の●山に有る年久しく当院の●●宥矢阿闍梨●●●三縁山の神祠(以下不詳) 土佐國安芸郡安●村竹林山神峯寺本尊十一面かん世をん菩薩像御丈(略)尊しの●る」
弘法大師ゆかりの尊格が御座され、三縁山(増上寺)となんらかの関係がありそうですが、よくわかりません。
国立国会図書館の「錦絵でたのしむ江戸の名所」には「(浄土宗大本山の増上寺は)空海の法弟である宗叡が武州豊島郡江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町付近)に建立した真言宗光明寺を前身とし、明徳4(1393)年聖聡が浄土宗に改宗、名も増上寺と改めた。」とあります。
(この記述は『江戸名所図会』等からひいたものかと思われます。)
赤羽橋といえば増上寺のお膝元ですが、この地に稲荷神の別当として真言密寺(圓明院)が置かれ、御府内霊場の札所とされたのは何らかの意味合いがあるのかもしれません。
弘法大師と稲荷神とのゆかりについてオフィシャルな資料はあまりみつからず、諸説あるようですが、川崎市川崎区の(川中島村)稲荷社(現・大師稲荷神社)は平間寺(川崎大師)が別当を司られた(新編武蔵風土記稿)とありますし、真言密寺の鎮守として稲荷神が祀られる例も少なくありません。
『江戸名所図会』には「(赤羽橋)此辺茶店多く河原の北に●毎朝肴市立て繁昌の地なり」とあり、その栄えている様子は挿絵からもうかがえます。
「赤羽」/出典:江戸名所図会 7巻 [3]松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[3],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC
「赤羽橋」駅から東京タワーに向かう谷間は緑ゆたかで「もみじ谷」と呼ばれる紅葉の名所で、この時代も行楽の名所として知られていたかもしれません。(絵図類は行楽地というより繁華地として描いている。)
稲荷神は商売繁昌の神様としても篤く信仰され繁華地に祀られる例も多かったので、赤羽橋に稲荷神が祀られ、別当として密寺が置かれたのも自然な流れだったのかもしれません。
また、現・宝珠院のあたりは弁天霊場、閻魔霊場として知られ、増上寺山内は浄土宗ながら神仏混淆の色彩が強かったとみられます。(→港区Web資料)
赤羽橋稲荷大明神、およびその別当の圓明院は、このような神仏混淆的な場の雰囲気に違和感なくなじんでいたと思われ、その様子は『御府内八十八ケ所道しるべ』の挿絵からもうかがえます。
「圓明院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
圓明院については情報がすこぶる少なく、宗教政策的な機微があるいはあるのかもしれず、不用意な推測は控えた方がいいようにも思えるので、ここまでにしておきます。
なお、赤羽稲荷大明神については現在、社殿は確認できません。
(Web上で跡地の情報がいくつかみつかります。圓明院の旧地は都営大江戸線「赤羽橋」駅のすぐ北側の、古川沿いであったとみられます。)
『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所異動表に「二十七番 赤羽橋 三宝山 圓明院 → 麻布櫻田町 瑠璃山 正光院」とあるので、おそらく明治初頭の神仏分離により芝赤羽橋の圓明院は廃され、第27番札所は麻布の正光院に承継されています。
圓明院はおそらく高野山寶性院(宝門)の直末、正光院は「学侶方宝門の筆頭寺院」(高野山正智院連歌資料集成)の高野山正智院の末でしたから、江戸の宝門寺院内で札所の承継がなされたとみられます。
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【史料】
【正光院関連】
■ 『寺社書上 [20] 麻布寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.13.』
麻布櫻田町
紀州高野山学寮正智院末
瑠璃山 正光院
古義真言宗
開闢起立 寛永七年(1630年)
開山 高野山前南山寺務検校法印宥専大和尚 正智院二十八世、寛文十三年三月遷化
本堂
本尊 薬師如来座像
弘法大師木座像
薬師堂
薬師如来座像 脇立 日光菩薩 月光菩薩 以上弘法大師御作
幷 十二神
薬師尊幷二菩薩は祖師弘法大師乃作
聖天 不動尊 愛染明王
地蔵堂
地蔵尊石立像
■ 『麻布区史 P.878』(東京都立図書館デジタルアーカイブ)
瑠璃山正光院 櫻田町三五
古義真言宗高野派 紀伊高野山正智院末。寛永七年の起立で開基は筑前大守従四位黒田忠之、開山は高野山前南山寺務検校法印宥専大和尚(正智院第二十八世、寛文十三年三月二十八日寂)である。本尊薬師如来の坐像は恵心僧都作に係り、一條帝御降誕の祈願佛と傳へている。里俗子安薬師と呼び江戸時代はなかなか信仰されていた。愛染明王像と共に寛永十年黒田侯の寄進するところと傳ふ。
境内の大師堂は府内八十八ヶ所第二十七番霊場になつている。又、不動堂と地蔵堂がある。前者は麻布大山不動と云ひ後者は子育鹽地蔵と呼ばれ、曾て小民の信仰を集めていた。地蔵は石像で、もと霞山櫻田神社の別当、天台宗観明院境内にあったのを、同寺廢絶の為め此処に移したものである。
【圓明院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
二十七番
芝赤ばねばしいなり別当
三宝山 永護寺 圓明院
高野山宝性院末 古義
本尊:本地薬師瑠璃光如来 本社赤羽稲荷大明神 弘法大師
当社の神体ハ大師一刀ごとに三礼して彫刻したまふ●駆三縁山の●山に有る年久しく当院の●●宥矢阿闍梨●●●三縁山の神祠(以下不詳) 土佐國安芸郡安●村竹林山神峯寺本尊十一面かん世をん菩薩像御丈(略)尊しの●る
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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
東京メトロ日比谷線・都営大江戸線「六本木」駅徒歩10分。テレビ朝日通り、麻布税務署の前です。
駐車場はありますが、事前連絡要です。
六本木ヒルズにもほど近い、まさに都心のどまんなかの寺院です。
テレビ朝日通りに面した山内入口には、寺号標、札所標、そして「麻布高野山」の文字もみえます。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内
山内は意外に緑が多く、よく整備されています。
正面の階段うえに本堂。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝-1
【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額
斜めや横に回れなかったので様式は不明ですが、屋根に宝珠を置いているので宝形造かもしれません。
手前に屋根付きの向拝、近代建築ながら水引虹梁も置いています。
向拝見上げには「瑠璃光」の扁額。
御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(専用用紙を貼込み)
中央に「本尊薬師如来」「弘法大師」「不動明王」の揮毫と薬師如来のお種子「バイ/ベイ」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「瑠璃光」印と「第廿七番」の揮毫。左下には「麻布高野山 正光院」の揮毫と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9)
【 BGM 】
■ far on the water - Kalafina
■ Erato - 志方あきこ
■ Goodbye Yesterday - 今井美樹 Miki Imai from LIVE @ORCHARD HALL 2003 TOKYO + JP & ROMAJI SUB
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。
■ 第25番 六所山 長明院 長楽寺
(ちょうらくじ)
日野市程久保8-49-18
真言宗豊山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:
司元別当:
授与所:庫裡
第25番札所の長楽寺は御府内霊場中ふたつある都区外の札所の一寺で、都下の日野市にあります。
第25番札所も複雑な変遷をたどっています。
現在の第25番札所は長楽寺ですが、『御府内八十八ケ所道しるべ』では、四ッ谷小寺町の自然山 地福寺 和光院となっています。
「日野市観光協会Web」によると、長楽寺は元和六年(1620年)開山なので、御府内霊場開創の宝暦五年(1755年)にはすでに存在しています。
しかし明治初頭編纂の『御府内八十八ケ所道しるべ』では第25番札所は和光院なので、江戸期を通じて第25番札所は和光院であったとみられます。
(江戸八十八ヶ所霊場第25番も和光院。)
「ニッポンの霊場」様Webに、江戸八十八ヶ所第25番の和光院は「廃寺」とあるので、明治初頭の神仏分離の際に廃されたのかもしれません。
和光院の札所本尊の一尊に将軍地蔵尊が定められていましたが、愛宕権現との習合色の強い将軍(勝軍)地蔵尊を祀る寺院が神仏分離で廃された例(愛宕・圓福寺など)があるため、当院もこの例に該当したのかも。
長楽寺は角筈(現・西新宿三丁目付近)の大寺院でしたが昭和20年5月の空襲で被災し、寺地への道路建設などもあって昭和35年に現在地に移転しています。
寺勢衰微した戦災後に御府内霊場札所になったとは考えにくいので、明治の和光院廃寺によって第25番札所を引き継ぎ、昭和35年の寺院移転とともに札所も移転したというのが自然な見方でしょうか。
「猫の足あと」様Webに掲載されている『日野市史』には以下の記載があるようです。
・総本山長谷寺の末(直末?)
・御本尊の不動明王像は唐よりの伝来と伝わる
・享和二年(1802年)以降、不動信仰により栄え門前市をなした
・明治中期より昭和11年にかけ諸伽藍を建立、大寺院の風格を備えた
・弘法大師像は厄除大師として知られていた
和光院は智積院末(現・智山派系)ですが、四ッ谷からほど近い角筈に不動尊霊場・厄除大師として知られる真言密寺の長楽寺があったため、こちらが第25番札所を承継されたのでは。
あるいは、明治中期から昭和11年にかけての諸伽藍整備の記念事業として、御府内霊場札所を受けられたのかもしれません。
今回は殊に推測が多くなりましたが、それだけ札所異動に関する情報がすくないということです。
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【史料】
【長楽寺関連】
■ 日野市観光協会Web(要旨抜粋引用)
・元和六年(1620年)代官渡辺与兵衛が頼音和尚に帰依し、数千坪を寄進して開山したと伝わる。
・徳川四代将軍家綱公が将軍職に就く前、慶安三年(1650年)正月、武蔵国府中六所明神(現・大国魂神社)に参詣の折、当山に立ち寄られ、六所明神にちなんで真筆をもって六所山の山号を与えられたと伝わる。
・もとは新宿区西新宿3丁目にあり、大本堂・書院・庫裡・大師堂・地蔵堂・鐘楼・山門を備えた大寺院だった。
・昭和20年5月25日空襲に遭い、その後の都市計画道路建設により移転をよぎなくされ、昭和35年に多摩動物公園隣の現在地に移転した。
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(角筈村)長楽寺
同宗(新義真言宗)多磨郡中野村寶仙寺末 六所山長命院ト号ス 当寺モ多聞院ト同ク與兵衛ノ開基スル所ナリ 開山賴音 慶安三年(1650年)十二月寂 本尊不動ヲ置 寺傳ニ当山ヲ六所ト号セルハ 昔厳有院殿府中六所ヘ御参ノ時 タマ々々当寺ヘ成ラセ給ヒシヨリ名付シ由イヘト イト牽強ノ説と思ハル 元ヨリ拠トスヘキモノナケレト 其頃賜ヒシ御筆ナリトテ横物ノ掛軸ヲ寺宝トス
【和光院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
二十五番
四ッ谷小寺町
自然山 地福寺 和光院
智積院末 新義
本尊:不動明王 将軍地蔵尊 弘法大師
大師建立本尊地蔵ぼさつ 座像大師
■ 『寺社書上 [43] 四谷寺社書上 弐』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.38.』
四谷小寺町
京都智積院末
自然山 地福寺 和光院
新義真言宗
開山 法印泉秀 寛永十六年(1639年寂)
当寺開闢之年代相知不
古●麹町辺ニ●●処寛永年中(1624-1644年)(略)御用地(略)処●ニ立退●移●
本堂
本尊 不動明王
護摩堂
本尊 地蔵尊
不動尊 毘沙門天 両大師
鎮守 稲荷社
「和光院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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多摩都市モノレール・京王動物園線「多摩動物公園」駅徒歩2分と交通至便で、駐車場も完備しています。
多摩動物公園のすぐとなりで、休日は子連れファミリーの姿が目立ちます。
【写真 上(左)】 すぐ下にモノレールと駅
【写真 下(右)】 山内入口
丘陵を造成して建立した寺院なので、前面道路からかなりの急坂をのぼります。
参道沿いには石仏が並び、地蔵尊座像も御座します。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 参道の地蔵尊と石仏群
石仏は如意輪観世音菩薩と地蔵尊がメインで、江戸期の年号が刻まれているので、おそらく角筈の旧地から遷られた御像かと思います。
山内は郊外寺院にしてはコンパクトですが、急坂をのぼっただけに眺望よく明るい雰囲気。
小高い尾根上に尊像や堂宇が連なる構成です。
【写真 上(左)】 修行大師と鎮守神
【写真 下(右)】 修行大師像
手前から朱塗りの稲荷社。扁額には「当山鎮守」とみえます。
そちらの向かって左手には端正な修行大師像。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 山内
さらに、鐘楼、しあわせ小僧、釈迦如来佛足石、大師堂とつづきます。
大師堂には厄除弘法大師座像が御座され、台座には札番の銘板が置かれているのでこちらが御府内霊場の拝所であることがわかります。
【写真 上(左)】 大師堂
【写真 下(右)】 大師堂の銘板
【写真 上(左)】 厄除弘法大師像
【写真 下(右)】 奥側の堂宇
札所本尊は不動明王で、たしか大師堂と相対する建物のなかに御座かと思いますが、なぜか記憶が定かでありません。
その奥に鉄柵があり「これより先檀家専用墓地に付 一般の方の立入はご遠慮下さい。」とあるので巡拝者の立入りはここまでです。
鉄柵の奥の大棟に鴟尾を置いた堂宇には「阿弥陀堂」の掲示がありました。
御朱印は庫裡?にて拝受しました。
なお、参詣時間は16時までで、月曜定休の掲示がありました。
出直し参拝はきびしい立地なので、事前の電話確認がベターかと思います。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「不動明王」「弘法大師」の揮毫と不動明王のお種子「カン/カーン」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「御府内八十八ヶ所第廿五番霊場」の札所印。左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
■ 第26番 海賞山 地蔵院 来福寺
(らいふくじ)
公式Web
品川区東大井3-13-1
真言宗智山派
御本尊:延命地蔵菩薩
札所本尊:延命地蔵菩薩
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第74番、東海三十三観音霊場第2番、多摩川四郡八十八ヶ所霊場第79番
司元別当:
授与所:事務所
第26番はふたたび都区内に戻ります。
鎌倉御家人や俳句とゆかりのふかい品川・大井の来福寺です。
縁起・沿革は公式Webに詳しいので、こちらと『新編武蔵風土記稿』を参考にまとめてみます。
当山の歴史は古く、正暦元年(990年)、智辨阿闍梨の開山といいますから、1030年以上もの法燈を伝承していることになります。
前九年の役、後三年の役などの戦禍を被るも法燈を堅持され、鎌倉時代には梶原一族が檀信徒となって栄之、景政、景時、景季等が寄進した「梶原松」「延命桜」があったと伝わります。
来福寺参道北側の路地には梶原稲荷神社がご鎮座です。
境内由緒書には「梶原平三景時(略)源頼朝ノ命ヲ奉ジテ武蔵國大井村鹿島谷ニ萬福寺ヲ建立シ、ソノ境内ニ守護神トシテ稲荷ヲ勧請シテ梶原稲荷ト尊称シタ。元応元年(1319年)、萬福寺ハ兵火ニヨリ焼失シ馬込村ニ移リタルニ依リ、焼ケ残リシ稲荷祠ハ梶原屋敷内ニ奉納サレテ、後、柴村来福寺ニ奉納サレ、ソノ追福ノタメ同寺ヘ松櫻ナドヲ植エ寄進シタ。コノ梶原塚ハ鎌倉源五郎景正ノ子梶原日向守 亦梶原助五郎一族ヲ祀ル古墳デアル。」とあります。
なお、現在梶原稲荷神社は地元の梶原稲荷講により維持管理されている模様です。
梶原稲荷神社
文亀元年(1501年)、源頼朝公の納経と伝わる経塚(現・大井1丁目経塚地蔵堂)の前を行脚していた梅巌(梅綾とも)和上が経塚のなかから読経の声を聞かれ、急ぎ掘り起こすと一躰の立派な地蔵菩薩像が出現しました。
不思議に思った梅巌和上がいろいろ調べてみると、この地蔵尊は行方不明となっていた来福寺の御本尊・延命地蔵尊で、弘法大師御作とも伝わる有り難いお像であることがわかりました。
以来このお地蔵さまは「経読(きょうよみ)地蔵尊」と呼ばれ、来福寺の御本尊として尊崇されるとともに、御分身は出現の地(経塚地蔵堂)および三つ叉地蔵堂(大井1丁目)に奉安され、ともに来福寺の境外佛堂として人々の信仰を集めています。
御本尊の経読地蔵尊は鎌倉権五郎景政の守り佛で梶原景季に伝わり、梶原氏との縁から当寺に収まられたといいます。
古来、地蔵尊には桜木を奉納する風習もあって、江戸時代には桜の名所として知られ、山内には「世の中は 三日見ぬ間に 桜かな」という雪中庵三世大島蓼太(芭蕉直系の旅俳人)の句碑があります。
古くは海上山、海照山と号し、境内に天満宮のお社があったので天神山とも呼ばれたといいます。
法系は往古は(馬込)長遠寺末、その後京都仁和寺末となり代々親王が住職を継承されました。
明治38年に川崎大師平間寺の法系となり今日に至っています。
寺伝もきれいに収まってそれではつぎの第27番・・・、となりそうですがそうはいきません。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には第26番札所に「四ッ谷南寺町 文殊院」とあるからです。
また、江戸八十八ヶ所霊場の第26番札所も文殊院となっています。
大井の地は御府内から外れており、この点からも江戸時代の札所は四ッ谷南寺町の文殊院であったとみられます。
20番代の札所は変遷が複雑で、いずれも一筋縄ではいきません。
第26番もこういう変遷があるので、文殊院についてたどっていきます。
文殊院は『御府内寺社備考』に掲載がなく、『寺社書上』と『御府内八十八ケ所道しるべ』を典拠とします。
文殊院は慶長十六年(1616年)、麹町九丁目横町に祐信上人が開山といいます。
寛永十一年(1633年)旧地を御用地として召し上げられ、四ツ谷南寺町に替地を拝領して移転したようです。
大塚護持院を本山とする新義真言宗寺院で、御本尊の阿弥陀児如来は秦氏ゆかりの尊像と伝わります。
秦河勝公は聖徳太子の同志として国造りに貢献したとされますが、河勝公九世孫の秦大蔵老ゆかりの伝承が伝わります。
漢文なので詳細まで読み取れません。すみませぬ。
太秦の名族の当主・秦大蔵老は年老いて子がなくこれを嘆いていたところ、一体の地蔵尊を得て子宝祈願に専念すると、妻が阿弥陀佛の霊夢をみるや女の子を授かりました。
父母の寵愛を一身に受け、聡明で花のように美しく育った姫でしたが、あるとき鷲にさらわれ(?)行方知れずとなってしまいました。
大蔵老は嘆き哀しみ、日夜姫の無事を尊佛に祈りました。
ここから先は記述が込み入って不詳ですが、紆余曲折ののち大蔵老は二寸余の阿弥陀佛像を得、以降、この尊像は「児如来」と尊称され崇められたという内容のようです。
『寺社書上』に「児如来と申阿弥陀木像(略)社僧秦氏代々乃家傳乃本尊」とあるので、こちらの児如来が御本尊として奉安され、札所本尊も児如来でありました。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には「本尊児如来ハ川勝の守(?)り佛なり」とあるので、秦河勝公の守り佛であったのかもしれません。
あるいは、河勝公ゆかりの川勝寺(現・京都市右京区西京極、廃寺)の奉安佛だったのかも。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には文殊尊の挿絵が載せられ、こちらが院号ゆかりの尊像とも思いますが、なぜか『寺社書上』には文殊尊についての記載はありません。
「文殊院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
↑ の挿絵には「阿ぶらげ坂」とみえます。
「阿ぶらげ坂」(油揚坂)とは「戒行寺坂」のことで、戒行寺が面していました。
『江戸切絵図』をみると文殊院は戒行寺の対面で、たしかに阿ぶらげ坂(戒行寺坂)に面していたことがわかります。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』四ツ谷絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC
「ニッポンの霊場」様Webに、江戸八十八ヶ所霊場第26番の文殊院は「廃寺」とあるので、明治初頭の神仏分離時に廃された可能性があります。
第26番札所が四ッ谷の文殊院から大井の来福寺に承継された経緯については、手がかりが見当たらずまったくわかりません。
来福寺は長遠寺(新義智山派)末から仁和寺(古義)末となり、明治38年から川崎大師平間寺(新義智山派大本山)の法系に入っています。
一方、文殊院は大塚護持院末ですから長谷寺豊山派の流れで、本末関係など宗派的なつながりによる承継は考えにくいです。
四ッ谷から大井(品川)への遠距離移転もなんらかの事情があってのものでは?
確たる史料がみつからない以上、これ以上は掘り下げられないので、ナゾはナゾとして残しておきます。(と、逃げる(笑))
来福寺は東海三十三観音霊場との兼務札所です。
この観音霊場は東海道沿いの札所分布で、玉川八十八ヶ所霊場や新四国東国八十八ヶ所霊場との兼務札所はめずらしくないですが、御府内霊場との兼務はこちらだけで、それだけ南東(神奈川)寄りに飛んだ立地であることがわかります。
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【史料】
【来福寺関連】
■ 『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(大井村)来福寺
新義真言宗同郡馬込村八幡宮別当長遠寺ノ末ナリ 海賞山地蔵院ト号ス 正暦元年(990年)智瓣阿闍梨ノ草創ト云(略)本尊ハ弘法大師ノ彫刻ニテ延命経讀地蔵ト云ヘリ 寺傳ニヨレハ此像ハ鎌倉権五郎景政ノ守佛ナリシカ 数傳ノ後梶原景季ニ傳ハリ 終ニ當寺ヘ納タリトイヘト證トナスヘキモノアラサレハウケカヒカタシ
天神社 門ヲ入テ右ノ方小高キ処ニアリ
梶原塚 境内北ノ方ニアリ 景季ノ墳ト云 按ニ此辺梶原景時父子ノ舊蹟ト云モノ多シ(以下略)
梶原松 延命櫻 此二木ハ共ニ客殿ノ前ニアリ 梶原景季地蔵信仰ノ餘自ラ植シト云傳フ 今モコノ側にナラヒテ 地蔵尊信心ノ人ハ 櫻ノ木ヲ納ルコトヽナリタレハ 当寺ノ境内ニハ昔ヨリ櫻樹多カリシカ 猶近キ頃檀越ノ寄進ニテ再ヒ植増セシニヨリ 毎春花ノ頃ハ人コトニツトヒ来リテ賑ヘリ
■ 『江戸名所図会』(国立国会図書館)
砂水御林町にあり真言宗にて本尊は地蔵菩薩を安置す 弘法大師の作 御丈九寸八分なり
梶原氏の草創にてすなわち此地ハ其宅地なりしといふ
縁起云此本尊ハ梶浦氏代々其家の相伝人々尤霊威なり 然に元享の頃地辨と云沙門眼疾を患ひ此本尊に祈念して不日に本快を得たり 其後世の中大に乱る尓(しかり) 本尊の所在忘れさりしに 文亀年間梅巌阿闍梨当寺より四五町西の方経塚といふ地中よりこれを感得せしとなり(略)当寺境内櫻樹数株ありて悉く品を領てり 弥生の花盛にハ遠近薫を慕ひてし●ふ遊賞する人少ならす
納経塚
来福寺より六町ほど西にあり 相伝ふ此地に収ら●むといへり 来福寺本尊地蔵菩薩此所より出現したまひし頃土中にて夜なヽ読経したまひしとそ 故に来福寺本尊を世に経読地蔵尊と称せり
「来福寺」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[4],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC (保護期間満了)
【文殊院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
二十六番
四ッ谷南寺町
雲龍山 宝満寺 文殊院
大塚護持院末 新義
本尊:児如来 不動明王 弘法大師
■ 『寺社書上 [45] 四谷寺社書上 四』(国立国会図書館)
四ツ谷南寺町
護持院末
雲龍山 宝満寺 文殊院
新義真言宗
開山 祐信上人 寛永十三年(1636年)遷化
中興開基 紀州公御開基(略)年月日相知不候
本尊 阿弥陀児如来立像
本像山城國太秦(略)大蔵之作
児如来記
秦大蔵者乃秦川勝九世孫也(以下略)
護摩堂
本尊 立像不動木像 前立に二童子木像 座像地蔵木像
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京急本線「立会川」駅から徒歩10分の住宅街にあります。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
東京湾にもほど近いですが、このあたりは武蔵野台地が海側にせり出しているところで地勢に起伏があり、石畳の参道も登り坂&階段です。
【写真 上(左)】 山門下
【写真 下(右)】 札所標
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 山門の彫刻
山内入口に寺号標、山門手前に札所標があります。
参道階段の先に山門。来福門とも呼ばれ江戸末期の建立です。
入母屋屋根で桟瓦葺ながら大棟に青海波紋様を置き、降棟、隅棟とも整ってバランスのとれた意匠。水引虹梁両端の木鼻彫刻も見事です。
確信はもてないのですが、おそらく脇塀付の四脚門かと思います。
【写真 上(左)】 緑濃い山内
【写真 下(右)】 修行大師像と本堂
山門をくぐると緑濃い山内。京浜工業地帯にほど近い立地とはとても思えない落ち着いた空気はさすがに古刹。
【写真 上(左)】 地蔵堂の石標
【写真 下(右)】 天水鉢の「丸に並び矢」
本堂手前に修行大師像で、周囲はお砂踏み場となっています。
また、地蔵尊のお種子「カ」が刻まれた地蔵堂石標もみえます。
本堂の天水鉢には梶原氏の家紋「丸に並び矢」が彫られ、梶原氏とのゆかりを示しています。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は近代建築で寄棟造桟瓦葺。向拝前三間は軒下に収まっています。
扁額はなく、向拝軒下に吊られた天蓋のようなもの(?)に寺号が刻まれています。
【写真 上(左)】 寺号入りの天蓋?
【写真 下(右)】 聖天堂参道
山内には聖天堂も御座します。
参道の朱塗りの山王鳥居が印象的で、江戸時代建立の堂宇(入母屋造桟瓦葺流れ向拝、水引虹梁付)の彫刻も見事です。
庭園に立つ立派な宝篋印塔は享保十九年(1734年)の銘で、右まわりに三回巡拝して願い事を祈願します。
【写真 上(左)】 宝篋印塔
【写真 下(右)】 安明閣
御府内霊場札所のうちでは緑の多い札所のひとつで、落ち着いた参拝ができます。
御朱印は本堂向かって右の寺務所兼休憩所の「安明閣」で拝受しました。
メジャー霊場3つの札所を兼務され、対応は手慣れておられます。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
中央に「本尊延命地蔵菩薩」「弘法大師」の揮毫と地蔵菩薩のお種子「カ」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「二十六番」の札所印。左下に山号寺号の揮毫と寺院印が捺されています。
【写真 上(左)】 玉川八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 東海三十三観音霊場の御朱印
■ 第27番 瑠璃山 正光院
(しょうこういん)
公式Web
港区元麻布3-2-20
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:江戸薬師如来霊場三十二ヶ所
司元別当:
授与所:庫裡
第27番札所は元麻布の正光院です。
公式Web および下記史料から縁起・沿革をたどってみます。
寛永七年(1630年)、紀州高野山学寮正智院末寺として麻布櫻田町に開創。
開基は黒田藩主筑前守忠之公、開山は正智院二十八世・検校法印宥専大和尚。
嘉永二年-文久二年(1849-1862年)刊の『江戸切絵図(麻布絵図)』にもしっかりその名がみられます。
出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』麻布絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
御本尊は弘法大師御作と伝わる薬師如来座像、脇立の日光・月光両菩薩も弘法大師の御作と伝わります。
御本尊は恵心僧都作で、一條帝御降誕の祈願佛という伝承もあるようです。
御本尊の薬師如来は霊験あらたかで「子安(易)薬師」として信仰を集めたといい、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所の札所(現在活動休止)となっています。
弘法大師の木座像も奉安。
別尊の不動尊は麻布大山不動、地蔵尊は子育鹽地蔵と称されていずれも庶民の信仰を集めていたとのこと。
地蔵尊は石佛で、もと霞山櫻田神社の別当・天台宗観明院境内にあったのを、同寺廃絶により当山に遷されたといいます。
開基は高野山真言宗の信仰篤いと伝わる、福岡藩二代藩主の黒田筑前守忠之公。
紀州高野山学寮正智院のおそらく直末で、「麻布高野山」とも呼ばれます。
弘法大師御作と伝わる薬師如来は「子安薬師」として信仰を集めているとあっては御府内霊場札所として申し分なく、今度こそはつぎの第28番へ・・・、となりそうですがやはりそうはいきません。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には第27番札所に「芝赤ばねばしいなり別当 圓明院」とあるからです。
また、江戸八十八ヶ所霊場の第27番札所も「(赤羽橋)三宝山 永護寺 円明院 廃寺」となっています。
しかし、圓明院は『寺社書上』『御府内寺社備考』ともに記載がなく、手がかりは『御府内八十八ケ所道しるべ』しかみつかりません。
『御府内八十八ケ所道しるべ』には圓明院は「高野山宝性院(寶性院)末」とあります。
Wikipediaによると、宝性院は密教の学問(事相)を大成、宝門(而二門教学)と呼ばれる学派を生み出した宥快が院主となった高野山の寺院で、無量壽院とともに「門主寺」と呼ばれて高い格式を有しました。
大正2年に無量壽院と寳性院は合併、寳壽院を号して現在は高野山真言宗の大本山となっています。
圓明院はこのような高い格式の宝性院のおそらく直末ですから、もう少し記録が残っていてもよさそうですが、どうにも手がかりがありません。
頼みの『御府内八十八ケ所道しるべ』ですが、くずし字で読解不能の箇所があり、判然としません。
「当社の神体ハ大師一刀ごとに三礼して彫刻したまふ●駆三縁山の●山に有る年久しく当院の●●宥矢阿闍梨●●●三縁山の神祠(以下不詳) 土佐國安芸郡安●村竹林山神峯寺本尊十一面かん世をん菩薩像御丈(略)尊しの●る」
弘法大師ゆかりの尊格が御座され、三縁山(増上寺)となんらかの関係がありそうですが、よくわかりません。
国立国会図書館の「錦絵でたのしむ江戸の名所」には「(浄土宗大本山の増上寺は)空海の法弟である宗叡が武州豊島郡江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町付近)に建立した真言宗光明寺を前身とし、明徳4(1393)年聖聡が浄土宗に改宗、名も増上寺と改めた。」とあります。
(この記述は『江戸名所図会』等からひいたものかと思われます。)
赤羽橋といえば増上寺のお膝元ですが、この地に稲荷神の別当として真言密寺(圓明院)が置かれ、御府内霊場の札所とされたのは何らかの意味合いがあるのかもしれません。
弘法大師と稲荷神とのゆかりについてオフィシャルな資料はあまりみつからず、諸説あるようですが、川崎市川崎区の(川中島村)稲荷社(現・大師稲荷神社)は平間寺(川崎大師)が別当を司られた(新編武蔵風土記稿)とありますし、真言密寺の鎮守として稲荷神が祀られる例も少なくありません。
『江戸名所図会』には「(赤羽橋)此辺茶店多く河原の北に●毎朝肴市立て繁昌の地なり」とあり、その栄えている様子は挿絵からもうかがえます。
「赤羽」/出典:江戸名所図会 7巻 [3]松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[3],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC
「赤羽橋」駅から東京タワーに向かう谷間は緑ゆたかで「もみじ谷」と呼ばれる紅葉の名所で、この時代も行楽の名所として知られていたかもしれません。(絵図類は行楽地というより繁華地として描いている。)
稲荷神は商売繁昌の神様としても篤く信仰され繁華地に祀られる例も多かったので、赤羽橋に稲荷神が祀られ、別当として密寺が置かれたのも自然な流れだったのかもしれません。
また、現・宝珠院のあたりは弁天霊場、閻魔霊場として知られ、増上寺山内は浄土宗ながら神仏混淆の色彩が強かったとみられます。(→港区Web資料)
赤羽橋稲荷大明神、およびその別当の圓明院は、このような神仏混淆的な場の雰囲気に違和感なくなじんでいたと思われ、その様子は『御府内八十八ケ所道しるべ』の挿絵からもうかがえます。
「圓明院」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
圓明院については情報がすこぶる少なく、宗教政策的な機微があるいはあるのかもしれず、不用意な推測は控えた方がいいようにも思えるので、ここまでにしておきます。
なお、赤羽稲荷大明神については現在、社殿は確認できません。
(Web上で跡地の情報がいくつかみつかります。圓明院の旧地は都営大江戸線「赤羽橋」駅のすぐ北側の、古川沿いであったとみられます。)
『御府内八十八ケ所道しるべ』の札所異動表に「二十七番 赤羽橋 三宝山 圓明院 → 麻布櫻田町 瑠璃山 正光院」とあるので、おそらく明治初頭の神仏分離により芝赤羽橋の圓明院は廃され、第27番札所は麻布の正光院に承継されています。
圓明院はおそらく高野山寶性院(宝門)の直末、正光院は「学侶方宝門の筆頭寺院」(高野山正智院連歌資料集成)の高野山正智院の末でしたから、江戸の宝門寺院内で札所の承継がなされたとみられます。
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【史料】
【正光院関連】
■ 『寺社書上 [20] 麻布寺社書上 四』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.13.』
麻布櫻田町
紀州高野山学寮正智院末
瑠璃山 正光院
古義真言宗
開闢起立 寛永七年(1630年)
開山 高野山前南山寺務検校法印宥専大和尚 正智院二十八世、寛文十三年三月遷化
本堂
本尊 薬師如来座像
弘法大師木座像
薬師堂
薬師如来座像 脇立 日光菩薩 月光菩薩 以上弘法大師御作
幷 十二神
薬師尊幷二菩薩は祖師弘法大師乃作
聖天 不動尊 愛染明王
地蔵堂
地蔵尊石立像
■ 『麻布区史 P.878』(東京都立図書館デジタルアーカイブ)
瑠璃山正光院 櫻田町三五
古義真言宗高野派 紀伊高野山正智院末。寛永七年の起立で開基は筑前大守従四位黒田忠之、開山は高野山前南山寺務検校法印宥専大和尚(正智院第二十八世、寛文十三年三月二十八日寂)である。本尊薬師如来の坐像は恵心僧都作に係り、一條帝御降誕の祈願佛と傳へている。里俗子安薬師と呼び江戸時代はなかなか信仰されていた。愛染明王像と共に寛永十年黒田侯の寄進するところと傳ふ。
境内の大師堂は府内八十八ヶ所第二十七番霊場になつている。又、不動堂と地蔵堂がある。前者は麻布大山不動と云ひ後者は子育鹽地蔵と呼ばれ、曾て小民の信仰を集めていた。地蔵は石像で、もと霞山櫻田神社の別当、天台宗観明院境内にあったのを、同寺廢絶の為め此処に移したものである。
【圓明院関連】
■ 『御府内八十八ケ所道しるべ 地』(国立国会図書館)
二十七番
芝赤ばねばしいなり別当
三宝山 永護寺 圓明院
高野山宝性院末 古義
本尊:本地薬師瑠璃光如来 本社赤羽稲荷大明神 弘法大師
当社の神体ハ大師一刀ごとに三礼して彫刻したまふ●駆三縁山の●山に有る年久しく当院の●●宥矢阿闍梨●●●三縁山の神祠(以下不詳) 土佐國安芸郡安●村竹林山神峯寺本尊十一面かん世をん菩薩像御丈(略)尊しの●る
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【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号標
東京メトロ日比谷線・都営大江戸線「六本木」駅徒歩10分。テレビ朝日通り、麻布税務署の前です。
駐車場はありますが、事前連絡要です。
六本木ヒルズにもほど近い、まさに都心のどまんなかの寺院です。
テレビ朝日通りに面した山内入口には、寺号標、札所標、そして「麻布高野山」の文字もみえます。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 山内
山内は意外に緑が多く、よく整備されています。
正面の階段うえに本堂。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝-1
【写真 上(左)】 向拝-2
【写真 下(右)】 扁額
斜めや横に回れなかったので様式は不明ですが、屋根に宝珠を置いているので宝形造かもしれません。
手前に屋根付きの向拝、近代建築ながら水引虹梁も置いています。
向拝見上げには「瑠璃光」の扁額。
御朱印は本堂向かって左手の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳(専用用紙を貼込み)
中央に「本尊薬師如来」「弘法大師」「不動明王」の揮毫と薬師如来のお種子「バイ/ベイ」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「瑠璃光」印と「第廿七番」の揮毫。左下には「麻布高野山 正光院」の揮毫と寺院印が捺されています。
以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-9)
【 BGM 】
■ far on the water - Kalafina
■ Erato - 志方あきこ
■ Goodbye Yesterday - 今井美樹 Miki Imai from LIVE @ORCHARD HALL 2003 TOKYO + JP & ROMAJI SUB
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