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■ 開運三社巡り【10月31日まで】

現在、磐井神社、大塚天祖神社、上目黒氷川神社の三社で「開運三社巡り」が企画され、特別御朱印が授与されています。

御鎮座1450年の磐井神社、御鎮座700年の大塚天祖神社、御鎮座450年の上目黒氷川神社を記念しての特別企画とのことです。

磐井神社 大田区大森北2-20-8
大塚天祖神社 豊島区南大塚3-49-1 
上目黒氷川神社 目黒区大橋2-16-21

当初は令和5年8月1日から9月30日まででしたが、好評につき10月31日まで延長されています。







いずれも見開きの美しい限定カラー御朱印(書置)で、初穂料はいずれも500円。
無料の専用リーフレットがあり、参拝するとこちらにシールをいただけ、3社のシールが揃うと満願です。
満願で満願御朱印と記念品(オリジナル手拭い)がいただけます。(ともに数量限定)

筆者は月替わりなどの限定御朱印にはあまり興味はありませんが、御鎮座周年記念御朱印となると話は別でトライしました。(気づいたのが10月上旬だった。)
筆者は今週(10/16~の週)前半に満願しましたが、満願御朱印・記念品ともにいただけました。







参拝順はとくに設定されておりません。
三社間の距離はかなりありますが、下記のとおりいずれも駅から近いので、1日満願できるかと思います。

磐井神社:京浜急行線「大森海岸」駅徒歩3分
大塚天祖神社:JR山手線「大塚」駅・都電荒川線「大塚駅前」駅徒歩3分
上目黒氷川神社:東急田園都市線「池尻大橋」駅徒歩5分

御朱印受付時間は、リーフレットに下記のとおり記載されています。
磐井神社:9:30~16:30
大塚天祖神社:9:00~17:00
上目黒氷川神社:9:00~16:30


上目黒氷川神社は、先日ご紹介した「東急線 花御朱印巡り 第2弾」にも参画されているので、そちらと併せての参拝もできます。


■ 東急線 花御朱印

秋晴れの一日、御鎮座奉祝の神社巡拝はいかがでしょうか。
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■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-12

Vol.-11からのつづきです。
※文中の『ルートガイド』は『江戸御府内八十八ヶ所札所めぐりルートガイド』(メイツ出版刊)を指します。


■ 第36番 瑠璃山 醫王寺 薬王院
(やくおういん)
新宿区観光振興協会Web

新宿区下落合4-8-2
真言宗豊山派
御本尊:薬師瑠璃光如来
札所本尊:薬師瑠璃光如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第33番、豊島八十八ヶ所霊場第36番、東国花の寺百ヶ寺霊場東京第2番
司元別当:(下落合)氷川神社
授与所:庫裡

第36番札所も変遷をたどっています。
現在の第36番札所は下落合の薬王院ですが、『御府内八十八ケ所道しるべ』では牛込根来町の根来山 東光院 報恩寺となっています。

「ニッポンの霊場」様Webに、江戸八十八ヶ所第36番の(牛込原町)報恩寺は「廃寺」とあるので、明治初頭の神仏分離の際に廃され、御府内霊場第36番札所は下落合の薬王院に承継されたとみられます。

下記史料、山内掲示などから縁起・沿革を追ってみます。

薬王院は新宿区下落合にあり「ぼたん寺」「東長谷寺」とも呼ばれて庭園や舞台造の本堂が美しい真言密寺です。
相州大山寺中興の願行上人が鎌倉時代に創建と伝わります。

中世、兵火に罹り荒廃したところ、延寶年中(1673-1681年)寶壽上人が中興。
元文年中(1736-1741年)再び火災に遭い記録を失って寺伝詳細は不明ですが、江戸期に近隣の(下落合)氷川神社の別当を務めているので、途切れることなく寺歴は継続しているようです。


【写真 上(左)】 (下落合)氷川神社
【写真 下(右)】 (下落合)氷川神社の御朱印

本格的な再興は明治時代に入ってから(Wikipedia)といい、御府内霊場札所承継はその頃とみられます。
明治40年開創の豊島八十八ヶ所霊場の札所でもあるので、その頃には御府内霊場札所になっていたのでは。

真言宗豊山派総本山長谷寺から昭和41年に移植されたぼたんが有名で、40種1,000株を数え4月中~下旬の開花時には多くの見物客を迎えます。
しだれ桜やツバキも植えられた花の寺として知られ、東国花の寺百ヶ寺霊場東京第2番の札所となっています。
長谷寺とゆかりふかく、本堂の造りもあってか東長谷寺とも呼ばれます。

江戸時代、落合は江戸近郊の風光明媚の地だったらしく、『江戸名所図会』に「落合惣図」が収録され、山裾には薬王院や氷川神社がみえます。


「落合惣図」/原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[12],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)

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つぎに旧36番札所とみられる報恩寺について、下記史料から追ってみます。

報恩寺は牛込根来町にあり、京都御室御所仁和寺末の新義真言宗寺院でした。
開山は覚鑁上人(興教大師)で、尾張様(不明)市ヶ谷御殿内に結ばれた御庵を覚鑁寺と号したのが草創といいます。

興教大師覚鑁上人(嘉保二年(1095年)-康治二年(1144年)は真言宗中興の祖、新義真言宗始祖とされる高僧です。
興教大師は御府内霊場ともふかいゆかりをもたれるので、主に根来寺公式Web智積院公式Web真言宗豊山派公式Webおよび『日本仏教 思想のあゆみ』(竹村牧男氏著)を参考にそのご生涯について辿ってみます。

覚鑁上人は嘉保二年(1095年)、肥前国藤津庄(現・佐賀県鹿島市)に生誕されました。
父は仁和寺の荘園藤津庄の総追補使伊佐平治兼元、母は橘氏の娘といい、幼名は弥千歳(みちとせ)と伝わります。

幼くして仏道を志し、十歳の時に父が亡くなると仁和寺との縁を頼って十三歳で仁和寺成就院に入られ、寛助僧正に師事して十六歳で出家得度し、正覚房覚鑁(しょうがくぼうかくばん)と号されました。

二十歳で修行を成満され東大寺戒壇院で受戒。
同年の暮れに高野山へ入り、修行を続けられました。
保安二年(1121年)、二十七歳の時に仁和寺に戻られ、師匠の寛助大僧正から伝法灌頂を受けられたといいます。
『日本仏教 思想のあゆみ』によると、覚鑁上人は奈良仏教や真言宗小野流も相承され、のちに高野山別当の念仏聖とも交流したとのことです。

三十五歳で古義真言宗の伝法の悉くを一身に受けられて、「弘法大師空海以来の才」と賞されたといいます。
法統は「真言教学」で定尊、教尋の両師、「坐禅観法」で青蓮、明寂の両師と伝わります。

大治五年(1130年)、高野山内に伝法院を建立。
修法により鳥羽上皇の病を癒して篤い帰依・外護を受け、上皇建立の北向山不動院を開山されています。
平為里による岩手荘(根来を含む)の寄進も覚鑁上人の経済的基盤となりました。

覚鑁上人は春秋二会の伝法会(学問研鑽の法要)さえ止絶していた当時の高野山の状況を憂い、真言宗の建て直しに着手。
長承元年(1132年)、鳥羽上皇の院宣を得て山内に大伝法院、密厳院を建立
長承三年(1134年)には金剛峯寺座主をも兼ねられて山内の主導権を制したといいます。

しかし、これに反発する守旧派の一部は覚鑁上人の密厳院を急襲。
このとき、密厳院の不動堂に乱入した僧徒が須弥壇上に二体の不動明王をみつけ、どちらか一方が覚鑁上人と疑うも、不動尊の霊威を受けて恐懼退散したという逸話が残ります。
この逸話からこの乱を「錐もみの乱」、上人を守護された密厳院不動尊を「錐鑽(きりもみ)不動尊」といいます。

不動尊のご加護により一命をとりとめた覚鑁上人は僧徒の非道を嘆き密厳院に籠居、1446日にも及ぶ無言三昧行を修され、この直後に代表著作である『密厳院発露懺悔文』を書き上げたともいわれます。(公式には著者不詳)

保延六年(1140年)ついに覚鑁上人は高野山を下り、弟子一派とともに根来(和歌山県岩出市)の豊福寺(ぶふくじ)に入られ、のちの根来寺を成立させていきます。
覚鑁上人の命を救われた「錐鑽不動尊」も一緒に下山して覚鑁一派を守護され、いまも根来寺不動堂に手篤く奉安されています。

以降覚鑁上人は根来を拠点とされ、学問所として「円明寺」、お住まいとして「密厳院」を創られて教学深化、弟子の教化に勤められました。
康治二年(1143年)12月根来にて四十八歳で入滅され、根来寺奥之院の霊廟に埋葬されました。
なお、覚鑁上人に興教大師の謚号が贈られたのは 元禄三年(1690年)ときの東山天皇からと伝わります。

覚鑁上人門下「大伝法院流」の弟子たちは一旦高野山へ戻りましたが守旧勢力「金剛峯方」僧徒との確執はふかく、正応元年(1288年)高野山大伝法院の学頭頼瑜は大伝法院の寺籍を根来寺に移し、覚鑁上人の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」を展開・発展させていくこととなります。

なお、根来寺公式Webによると、根来寺の呼称は元久二年(1205年)頃までに成立とのことで、正応元年(1288年)の頼瑜による大伝法院の寺籍異動時には「根来寺」はすでに存在していました。

宗祖・弘法大師空海以来の正統密教の復興を目指したとされる覚鑁上人ですが、結果として新義真言宗を打ち立てられたのは、ある意味歴史の必然だったのかもしれません。

根来寺は新義真言宗の本拠として繁栄し、僧兵集団「根来衆」も擁して勢力を張りましたが、豊臣秀吉との確執の末に天正十三年(1585年)討伐を受けて壊滅しました。
生き延びた門徒の僧たちは奈良や京都へ逃れ、長谷寺(のちの豊山派)や智積院(のちの智山派)において新義真言宗の教義を広めました。

真言宗では宗祖の弘法大師空海があまりに完成された仏教哲学を打ち立てられたので、後進の僧はとりつく隙がなく、新たな教学が発展しにくかったという見方もあります。

しかし覚鑁上人は平安時代後期に勃興した浄土教思想を、真言教学から捉えて包摂する「密厳浄土」思想を唱えたことで高く評価され、真言宗中興の祖としていまに至るまで崇敬されています。
(『日本仏教 思想のあゆみ』に、「(覚鑁上人は)浄土教を密教にとりこむような教義を展開」「阿弥陀仏の観察行において、阿弥陀大日であるがゆえ」とあり、念仏三昧による極楽往生を願う者を迷いなく密教に導く教義が革新的であったような気もしますが、詳細についてはよくわかりません。)

浄土教では、法然上人(浄土宗の宗祖)が有力鎌倉武士に複数の信者をもち、親鸞上人(浄土真宗の宗祖)が東国布教をされ、一遍上人(時宗の開祖)が東国経巡されるなど、「専修念仏」の教えは東国でも大きく広まりました。
浄土教の教義も包摂する新義真言宗が東国で広まったのは、このような背景もあったのかもしれません。


江戸時代に徳川頼宣公の外護もあって根来寺も復興したため、覚鑁上人の教学を受け継ぐ新義真言宗の主力は以下の三派とされ、覚鑁上人(興教大師)は(広義の)新義真言宗の派祖とされます。

■ (狭義の)新義真言宗
総本山:一乗山 大伝法院 根来寺(和歌山県岩出市)  

■ 真言宗智山派
総本山:五百佛山 根来寺 智積院(京都市東山区)

■ 真言宗豊山派
総本山:豊山 神楽院 長谷寺(奈良県桜井市初瀬)
※真言宗室生寺派も新義真言宗とされる。

なお、古義真言宗と新義真言宗の違いについては、前者が「本地身説法(本地法身説)」(大日如来が自ら説法するとする説)、後者が「加持身説法(加持身説)」(大日如来が説法のため加持身となって教えを説くとする説)を説くともされますが、根本思想や所依経典類に大差はないという見方もあるようです。

新義真言宗3派の違いに至っては、素人目からはほぼわかりません。
あるいは事相(修法の作法など)の違いなのかもしれませんが、事相は密教にとってきわめて大切な事柄なので、これにより派を分ける理由は成り立つのかもしれません。

小池坊専誉僧正(長谷寺、豊山派の派祖)、玄宥僧正(智積院、智山派の派祖)以来の法統堅持の意味合いも考えられます。
『近世初期の長谷寺と智積院』(宇高良哲氏、PDF)によると、(「新義真言宗」を確立した)頼喩の法統を「中性院流」といい、その「中性院流」の承継を巡って両派それぞれの結束が高まったという見方もあるのかもしれません。

また、江戸時代の本末制度の流れで派を分ける必要があったのかも。
この点についてすこしく触れてみます。

徳川政権と新義真言宗各派の関係はそれぞれ密接でした。

〔豊山派系〕
筑波山神社の別当・知足院 中禅寺は当初天台宗でしたがのちに新義真言宗の教学下に入り、慶長七年(1602年)徳川家康公より朱印五百石を賜わって外護されました。
2世光誉は江戸別院として建立されていた湯島の護摩堂(江戸知足院)に入られ、以降江戸知足院は幕府・将軍家の祈祷を担ったといいます。

元禄元年(1688年)、江戸知足院は幕府から神田の地を与えられ伽藍を整え、隆光を開山として護持院と号しました。
大僧正隆光は、長谷寺で修学した新義真言宗の僧で5代将軍徳川綱吉公の帰依を受けました。

享保二年(1717年)、護持院が火災で焼失すると吉宗公は同地での再建を許さず、跡地は火除地(護持院ヶ原)となり、護持院は音羽護国寺の境内に移されて護持院住職が護国寺住職を兼任することとなりました。

一方、音羽護国寺の前身は上野国高崎の大聖護国寺で、ときの住職は大和長谷寺で新義真言宗を修学した亮賢(貞享四年(1687年)寂)でした。

亮賢は卜筮(ぼくぜい)の名声高く、3代将軍家光公の側室となるお玉の方(後の桂昌院)を占って5代将軍綱吉公の出産を予言し、桂昌院の篤い帰依を受けたといいます。
音羽護国寺は天和元年(1681年)、亮賢が綱吉公から桂昌院の祈願寺としての開山を命じられて開いたものです。

護持院は幕府・将軍家の祈祷寺で新義真言宗僧録(人事を統括した高い格式の寺院・僧)、
音羽護国寺は桂昌院の祈願寺で、両寺が統合した音羽護国寺は江戸時代を通じて高い格式を誇り多数の末寺を擁しました。

〔智山派系〕
根来山内の寺院の一つであった智積院の能化であった玄宥僧正は、天正十三年(1585年)の豊臣秀吉による根来山焼き討ちの際、弟子とともに難を逃れたものの各地を流転されました。

慶長六年(1601年)、玄宥僧正は徳川家康公より京都東山に寺院を寄進され、智積院の再興がなりました。
智山派の名刹、成田山 新勝寺には水戸光圀公も参詣され、江戸では10回もの出開帳が催行、最初の出開帳では5代将軍綱吉公の生母桂昌院の礼拝を受けています。

同じく智山派の川崎大師(金剛山 平間寺)では11代将軍家斉公が厄除け祈願を行っています。
府下の名刹、高尾山 薬王院には紀州徳川家から寄せられた書状が相当数存在し、江戸でも出開帳が催行されています。

〔新義真言宗/根来寺系〕
紀州徳川家の祖・徳川頼宣公は根来寺を外護され、根来寺は再興されました。
宝暦元年(1751年)には紀州藩が寺内に学頭を設置し、根来寺の立場は強まりました。
紀州徳川家の根来寺への外護は、江戸時代を通じて続いたといいます。

Wikipediaによると、明治政府の宗教政策により真言宗各宗派が合同したのが明治12年。
明治33年新義真言宗として独立するものの、昭和16年政府の政策によって真言宗宗派はふたたび合同し大真言宗が成立。
智山派・豊山派ともに戦後独立し、昭和27年に法人登記を行っています。

なので、江戸時代の史料には智山派、豊山派という表記はなく、京智積院末、大和國初瀬長谷寺末、あるいは紀州根来寺末などと書かれています。
いわゆる本末制度からの記載で、京智積院末→智山派、大和國初瀬小池坊長谷寺末→豊山派、紀州根来寺末→(狭義)新義真言宗という系譜を辿っていったことは容易に想像されます。

御府内霊場の札所は(広義の)新義真言宗寺院(とくに智山派と豊山派)がすこぶる多くなっています。
(→ こちらの札所リストをご覧ください。)

札所本尊として興教大師が定められている例も少なくありません。
この場合、中央に寺院御本尊、向かって右に弘法大師坐像、左に興教大師坐像となるのが一般的で、御朱印にもこのような構成の揮毫がみられます。


話が逸れつつ、しかも長くなりました(笑)
つぎに報恩寺から薬王院への札所承継をみてみます。

薬王院は『新編武蔵風土記稿』によれば新義真言宗大塚護持院末。
ところが、縁起は相州大山寺(真言宗大覚寺派/古義真言宗)中興の願行上人創建と伝えています。

鎌倉時代の願行上人はナゾが多い高僧ですが、こちらの記事(■ 鎌倉市の御朱印-7(24.安養院))で辿ったところでは、法統は真言宗醍醐派三宝院流(古義)および北京律です。

薬王院は古義真言宗系の願行上人創建ですが、江戸期の宗派は新義真言宗大塚護持院末(現・真言宗豊山派)。

一方、報恩寺は『寺社書上』『御府内寺社備考』には「京都御室御所仁和寺末 新義真言宗」とあり、長谷寺との関係がふかそうです。
(京都御室御所仁和寺は、現在真言宗御室派で古義真言宗)

どちらも古義、新義が錯綜していますが、江戸末期の状況をみると薬王院は大塚護持院末で真言宗豊山派系、報恩寺も長谷寺と関係がふかく真言宗豊山派系。
よって、報恩寺廃寺の際に豊山派内で御府内霊場札所の承継がなされたのでは。

報恩寺は覚鑁上人開山で「紀州長谷寺のうつし」ともいわれ、御本尊の不動明王は弘法大師の一刀三礼の御作とも伝わる新義真言宗の名刹。
大社の神宮寺でもなく、明治の神仏分離で廃止されてしまった事情はよくわかりません。

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【史料】
【薬王院関連】
『新編武蔵風土記稿』(国立国会図書館)
(下落合村)薬王院
新義真言宗大塚護持院末 瑠璃山醫王寺ト号ス 本尊薬師行基ノ作坐像長九寸許 外ニ観音ノ立像アリ長一尺余運慶ノ作 開山ハ願行上人ナリト云 其後兵火ニ逢テ荒廃セシカ 延寶年中(1673-1681年)寶壽ト云僧中興シ 元文年中(1736-1741年)再ヒ火災ニ罹リ記録ヲ失ヒテ詳ナルコトヲ傳ヘス

神田明神社 八幡社 稲荷社 三峯社
釋迦堂 本尊ハ眦首羯摩ノ作立像長三尺二寸 堂中ニ愛染ノ像ヲ置
金蔵院 妙楽寺 以上二ヶ寺ハ薬王院門徒ニテ 慶安(1648-1652年)以後廃トナリ 余地ハ本山ニテ預レリ


【報恩寺関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十六番
牛込根来町
根来山 東光院 報恩寺
御室御所末 新義
本尊:不動明王 歓喜天 弘法大師
紀州根来山のうつしなり 本尊不動明王ハ弘法大師の一刀三礼の御作なり
開山興教大師 中興信州佐久●郡浅間山志楽寺儀員上人
宝暦年中(1751-1764年)御府内八十八ヶ所之●●なり

『寺社書上 [34] 牛込寺社書上 七』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.8』
京都御室御所仁和寺末 新義真言宗
牛籠根来組屋舗
根来山 東光院 報恩寺

当寺開闢起立之儀は紀伊國一乗山 僧法院 根来寺開山興教大師覚鑁上人関来下向之● 今之尾張様市ヶ谷御殿御園中ニ大師御庵室●之寺号を覚鑁寺ト唱ヘ 坂を覚鑁坂と称しは御舊跡●し今もおおく僧承り

東照宮様小牧長久手御陣之時 泉州之城々ニ流浪仕乃根来山法師拾六人御味方申上御家人ニ移(略)右拾六人市ヶ谷御殿御園中大師乃庵室●覚鑁寺●●●菩提

開山覚鑁上人康治二年(1143年)十二月寂右上人を肥前州●津郡代乃人なり 本姓は平氏 桓武天皇御代の孫平将門之裔、父ハ伊佐平兼元 母ハ橘氏の女
中興開山秀雄 寛永十九年(1642年)寂 中野宝仙寺一代ころ当寺に移御座候

本堂
 本尊 不動明王 木座像 弘法大師作
 嵯峨天皇の御宇大和州●寺において弘仁三年(812年)一刀三礼して開眼供養(略)承應三年(1654年)当院中興第三世遍阿仁和寺宮令●を蒙●当院に●移●

 千手観音 金鋳佛立像 弘法大師作
 疱瘡神 木立像 弘法大師作

什物
 興教大師画像
 龍の玉 雷の玉

聖天堂
 歓喜天

伏見稲荷社
忍岡稲荷社
疱瘡神社
聖天堂


「報恩寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』市ヶ谷牛込絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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西武新宿線「下落合」駅から徒歩約6分。新目白通りから1本北側に入ったところで、Pも広くアクセスは楽です。

南側は神田川、妙正寺川が東西に流れる低地、北側は武蔵野台地が目白台に張り出す高台の傾斜地にあります。


【写真 上(左)】 参道
【写真 下(右)】 院号標

参道は始まりからすでに階段で、階段脇には立派な石づくりの院号標。
少しのぼると切妻屋根本から和瓦葺の豪壮な四脚門で、すでに名刹の風格をただよわせています。


【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 緑濃い山内


【写真 上(左)】 札所標-1
【写真 下(右)】 札所標-2

山門をくぐると右手に2基の札所標。
山内は緑濃く、新宿区内の寺院とはとても思えません。


【写真 上(左)】 修行大師像
【写真 下(右)】 風格ある客殿?

参道右手に修行大師像、庫裡、唐破風を構えた客殿?とつづき、正面の高みが本堂です。
本堂は大規模な懸造(舞台造とも、斜面の上に長い束柱を立て、その上に堂宇を築く普請様式、総本山長谷寺の本堂が有名)で、山内の急傾斜を巧みに活かした造りです。


【写真 上(左)】 ぼたん
【写真 下(右)】 ぼたんと本堂


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜め下からの本堂

参道~舞台下はぼたん園で、開花期には堂下の斜面がぼたんの花で埋め尽くされます。
こちらの本堂は鉄筋コンクリートの入母屋造瓦葺で、参道側が妻側。
左から回り込むように階段をのぼった右手が平入りの向拝となっています。


【写真 上(左)】 舞台造
【写真 下(右)】 本堂向拝

向拝柱や扁額はなく、比較的シンプルな向拝です。


【写真 上(左)】 階段途中の六地蔵
【写真 下(右)】 観音堂

さらに階段をのぼると墓域で、手前には観音堂があります。

名刹だけに文化財も多く、鎌倉時代から室町時代の板碑が8点保存されています。(非公開)
都心のお寺が多い御府内霊場札所ではもっとも緑の多い寺院のひとつで、巡拝のいいアクセントとなっています。

御朱印は庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「本尊薬師如来」「弘法大師」の揮毫と薬師如来のお種子「バイ」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右上に「第三十六番」の札所印。左下に院号の揮毫と寺院印が捺されています。

 
【写真 上(左)】 豊島八十八ヶ所霊場の御朱印
【写真 下(右)】 東国花の寺百ヶ寺霊場の御朱印


■ 第37番 瑠璃光山 萬徳院
(まんとくいん)
江東区永代2-37-23
高野山真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:薬師如来
他札所:東方三十三観音霊場第32番、坂東写東都三十三観音霊場第33番、大東京百観音霊場第36番
司元別当:
授与所:社務所

第37番札所も変遷があります。
現在の第37番札所は江東区永代の萬徳院ですが、『御府内八十八ケ所道しるべ』では市ヶ谷八幡町の稲嶺山 無量壽院 東圓寺となっています。

「ニッポンの霊場」様Webに、江戸八十八ヶ所第37番の(市谷八幡町)東円寺は「廃寺」とあるので、明治初頭の神仏分離の際に廃され、御府内霊場第37番札所は永代の萬徳院に承継されたとみられます。

下記史料、山内掲示、『ルートガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。

江東区永代にある萬徳院は寛永六年(1629年)八丁堀材木町に創建、寛永二十年(1643年)現在地(深川奥川町)へ移転したといいます。
本寺は深川永代寺の古義真言宗で本堂には御本尊薬師如来銅立像、弘法大師木座像、如意輪観音木座像、山内に石地蔵尊などを奉安しました。

江戸時代、周囲には相撲部屋が多かったため墓地には初代から九代の伊勢の海親方、初代若松、佐渡ヶ嶽の代々、さらには行司の六代目式守伊之助などの墓があり「相撲寺」とも呼ばれます。

明治初期の神仏分離により廃寺となった市ヶ谷亀岡八幡宮の別当・東圓寺から札所を承継しています。

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御府内霊場旧37番の東圓寺は、市ヶ谷亀岡八幡宮の別当でした。
亀岡八幡宮の縁起・沿革と切り離せないので、こちらを下記史料、市谷亀岡八幡宮の公式Webなどから追ってみます。

当宮は太田道灌が文明十一年(1479年)の江戸城築城の際、市谷御門内に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を勧請したのが創祀とされます。
鎌倉の「鶴岡」に対して「亀岡」八幡宮と号したといいます。

『江戸名所図会』には、太田道灌による創祀時に、すでに別当・東圓寺が創立とあります。

御祭神は誉田別命(応神天皇)、気長足姫尊(神功皇后)、与登比売神です。

当初は市谷御門の中(現在の千代田区内)にありましたが戦火で荒廃していたところ、江戸時代の寛永十三年(1636年)頃に江戸城の外堀ができたのを機に現在地に移転したといいます。

徳川三代将軍、桂昌院などの尊崇を得て再興され、ことに例祭は江戸市中でも華やかなものとして有名でした。
旗本に奉公若衆やいなせな町奴(まちやっこ)が多く集まる ”伊達をつくした祭” といわれ、これを見物する腰元や武家、町人の娘たちもそれぞれに着飾ったあで姿を競い、たいへんな賑わいだったそうです。
茶屋の類も競って出され、そのなかには江戸の侠客、幡随院長兵衛が見染めた茶屋女がいたといいます。

境内には江戸八所の一つとされる”時の鐘”があり、江戸ッ子に時刻を知らせていました。

明治の神仏分離令により別当・東圓寺が廃寺となり、昭和20年5月の空襲による戦火で社殿を焼失したものの、昭和37年に現在の社殿が再建され、市ヶ谷を代表する名社としていまも人々の尊崇を集めています。


【写真 上(左)】 亀岡八幡宮の社頭
【写真 下(右)】 同 拝殿

 
【写真 上(左)】 亀岡八幡宮の御朱印-1
【写真 下(右)】 同-2


境内に御鎮座の茶ノ木稲荷神社は、亀岡八幡宮とは別の縁起をもたれます。
創祀はふるく、弘法大師空海によると伝わります。
当社はこの地の地主神で、古来この地を稲荷山と呼んだのもそのいわれによるものといいます。
弘法大師空海開山については、御朱印にも揮毫されています。

御祭神は保食神(稲荷大神)で、商売繁昌、衣食住安泰、芸事向上、ことに眼病平癒の御利益は全国的に有名とのこと。

眼病平癒については以下のような伝説があります。
昔この山に稲荷大神の御神使の白狐がいましたが、ある時あやまって茶の木で目をつき、それ以来当社の崇敬者は茶を忌み、正月の三ヶ日は茶を呑まない習俗がありました。
とくに眼病の人は一七日、あるいは三七日二十一日の間茶をたって願えば霊験あらたかであったといわれています。

茶ノ木稲荷神社は大名・旗本、遠近の士民の崇敬が篤く、境内の奉納物にはいまも多くの崇敬者の名が刻まれています。


【写真 上(左)】 茶ノ木稲荷神社の社頭
【写真 下(右)】 同 拝殿

 
【写真 上(左)】 茶ノ木稲荷神社の御朱印-1
【写真 下(右)】 同-2

気になるのは茶ノ木稲荷神社が弘法大師空海ゆかりということで、このゆかりにより創始時から東圓寺が置かれたのかもしれず、またこのゆかりがあったため御府内霊場札所に定められたのかもしれません。

東圓寺の廃寺については、亀岡八幡宮が鎌倉鶴岡八幡宮からの勧請であり、明治初期の神仏分離時に鶴岡八幡宮寺(鶴岡二十五坊)が廃された流れかと推測されます。

東圓寺から萬徳院への御府内霊場札所の承継については、両山ともに古義真言宗という共通項がありますが、市ヶ谷から深川に飛んだ経緯についてはよくわかりません。

なお、江戸時代開創の霊場、山の手三十三観音霊場第33番と弁財天百社参り番外14の札所は市谷(亀岡)八幡ですが、前者については別当・東圓寺が札所という説があります。
御本尊の如意輪観世音菩薩が札所本尊かとも思いましたが、「ニッポンの霊場」様によると札所本尊は正観世音菩薩なので、べつに正観世音菩薩を奉安する観音堂があったのかもしれません。

『御府内八十八ケ所道しるべ 』によると、別当・東圓寺はいまの外堀通り沿いにあり、そこから左内坂の南側の急坂をのぼる階段が参道で、亀岡八幡宮は高台にありました。
いまも高台に御鎮座の亀岡八幡宮の参道はかなりの急階段です。

亀岡八幡宮社頭から市谷見附(南北線市ヶ谷駅付近)にかけては紅葉谷川とも長延寺谷とも呼ばれた江戸城外堀に沿った低地、亀岡八幡宮の社殿あたりは北側の市谷本村町の台地がこの低地に向かって岬状に突き出した台地のランドマーク的な地形です。
低地の社頭と台地の社殿地の高低差は大きく、いきおい参道階段は急となります。

かつての弘法大師堂は亀岡八幡宮本殿の向かって右手にあり、弘法大師堂は坂下の別当・東圓寺とは離れた高台に置かれていたことがわかります。

開山堂が最も高い、あるいは奥まった場所に置かれる例は珍しくなく、地主神であった茶ノ木稲荷神社を開山された弘法大師のゆかりをあらわす配置なのかもしれません。

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【史料】
【萬徳院関連】
『寺社書上 [95] 深川寺社書上 一』(国立国会図書館)および『御府内寺社備考P.9』
本寺深川永代寺末
深川奥川町
古義真言宗 瑠璃光山 萬徳院
当時●●寛永六年(1629年)八丁堀材木町に起立
開山 法印  慶安二年(1649年)九月寂
本堂
 本尊 薬師如来銅立像
 前立 同木坐像
 脇立 弘法大師木座像
 同  如意輪観音木座像
石地蔵尊


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』深川絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

【東圓寺関連】
『御府内八十八ケ所道しるべ 天』(国立国会図書館)
三十七番
市ヶ谷八幡宮 門前町にあり
稲嶺山 無量壽院 東圓寺
高野山金剛院末 古義
本尊:如意輪観世音 阿弥陀如来 弘法大師

『江戸名所図会 第2 (有朋堂文庫)』(国立国会図書館)
市ヶ谷八幡宮
市ヶ谷御門の外にあり。別当は東圓寺と号す。南紀高野山金剛峯寺に属して、古義の真言宗なり。

本社祭神 應神天皇
甲冑の神体なり。相伝ふ、多田満仲崇信ありし霊体にして、往古攝州多田の廟にありしを。太田持資こゝにうつし奉るといへり。本地佛は愛染明王なり。

東は紳功皇后 應神天皇の御母君なり。
西は妃大神 天皇の御姉君 寶萬菩薩なり。
三神鎮座。

稲荷祠
当社地主の神なり。石階の中段左の方にあり。世俗茶の木稲荷と称す。其由来信ずるにたらず、故にこゝに略せり。此神の産子は、毎歳正月三の間茶を飲まず、眼疾を患ふる者は、一七日又三七日と日数を定めて茶を絶ち祈願する時は、霊験いちじるしく、もろもろの願ひ成就せざる事なしといへり。
社記に曰く、文明年間(1469-1487年)太田持資(道灌)、江戸城擁護のために、相州鶴ヶ岡の八幡大神を勧請し、山林及び神田等若干を附して、東園寺を創立す。山号を稲荷といふは、此地もとより稲荷のやしろありて、地主の神とする故なり。鶴ヶ岡もいにしへ稲荷の社地なり。蓋し此例に本づくと云ふ。(略)
慶長年間(1596-1615年)、別当源空少僧都、此頽基を憤激し、一宇を再営し、神殿に擬儀し、絶えたるを継ぎ、廃れたるを興す。(略)
大神君関東御入城の時、当社の来由を問はしめ給い其後御三代大将軍家、社領を附せられ(略)元禄十五年(1702年)従一位桂昌院黄金数枚を寄捨して、新たに是を奉造なし給へり。

『牛込区史』(国立国会図書館)
市谷八幡神社
文明年中(『東京通誌』には文明十一年(1479年)とある)太田道灌が江戸城を築いた時、それを守護する目的で社殿を建立し、相州鶴岡八幡宮を勸請し、山林、神田を寄進した(別当東圓寺)。
後天正年中(1573-1592年)兵燹に罹って破壊したので、慶長年中(1596-1615年)別当源空が再興した。別に頼朝鶴岡八幡造営の時の余材を以て、淺草の大工が建造したとか、北氏某が多田満仲の守護神である八幡を享保(1716-1736年)頃奉納した為め、多田満仲守護紳といふとか、舊地は市谷門内にあり、寛永年中(1624-1644年)今の地に遷したとか、色々の傳説がある。本社の主祭神は應神天皇で、東には紳功皇后、西には妃大神が鎮座まします。江戸時代の隆盛は主として、元禄年中(1688-1704年)、桂昌院が帰依して、多くの寄進をしたのに因ると考へられている。


「東圓寺」/原典:大和屋孝助 等編『御府内八十八ケ所道しるべ』天,大和屋孝助等,慶1序-明2跋. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


「市谷八幡宮」/原典:斎藤幸雄 [等著] ほか『江戸名所図会』第2,有朋堂書店,昭2.国立国会図書館DC(保護期間満了)


「市ヶ谷八幡」/原典:広重『名所江戸百景 市ケ谷八幡』,魚栄,安政5. 国立国会図書館DC(保護期間満了)


出典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』市ヶ谷牛込絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)

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最寄りは東京メトロ東西線・都営大江戸線西武新宿線「門前仲町」駅から徒歩約6分。
「門前仲町」駅周辺には第68番・永代寺、第74番・法乗院があるので一気にまわるのが効率的です。


【写真 上(左)】 外観
【写真 下(右)】 院号表札

職住混在する下町のビル街に土塀を巡らした寺院建築を見せています。
山内は広くはないですが、奉拝に必要な十分な空間は確保されています。

門柱に「高野山真言宗」と「萬徳院」の院号表札。
正面が2階建ての本堂で、向かって右手の階段をのぼり向拝に向かいます。


【写真 上(左)】 門柱と本堂
【写真 下(右)】 1階


【写真 上(左)】 宗紋
【写真 下(右)】 階段からの向拝

1階正面軒には高野山真言宗宗紋「五三の桐」「三頭右巴(さんとうみぎどもえ)」が燦然と輝いています。


【写真 上(左)】 2階向拝
【写真 下(右)】 扁額

2階はコンクリ造ながら寺院建築で、おそらく入母屋造本瓦葺の妻入りとみられます。
妻部千鳥破風の下に本瓦葺の向拝屋根を置き、その下に山号扁額を掲げています。

御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。


〔 御府内霊場の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳

中央に「薬師如来」と薬師如来のお種子「バイ」の揮毫と御寶印(蓮華座+火焔宝珠)。
右に「御府内第三十七番」の札所印。左下に山号院号の印判と寺院印が捺されています。


以下、つづきます。
(→ ■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-13

■ 札所リスト・目次など
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-1



【 BGM 】
■ 君って - 西野カナ

コメント「流石実力派 もっとこういう人がテレビに出るべき」
御意。いつか復帰して、また名唱をとどけてほしい。

■ LOVE BRACE - 華原朋美 / 2013/11/25 LIVE @NHKホール

圧倒的なオリジナリティ。
この人も、もっとメジャーに活躍してほしい。

■ Goodbye Yesterday - 今井美樹 / Miki Imai from LIVE @ORCHARD HALL 2003 TOKYO

上位互換カバー不可のオリジナリティ。
いまの時代には稀少なフェミニンでたおやかな歌声。
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