関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 鎌倉市の御朱印-10 (B.名越口-5)
書きかけの「鎌倉市の御朱印」に戻ります。
しばらくつづけます。
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)から。
33.蛭子神社(ひるこじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市小町2-23-3
御祭神:大己貴命
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、小町一帯の産土神
元別当:妙厳山 本覚寺(鎌倉市小町)
蛭子神社は小町大路に面する小町地区の鎮守社です。
蛭子神社の縁起沿革はすこぶる複雑で、本覚寺内の夷三郎社、宝戒寺内の山王大権現、現在地に御鎮座の七面大明神の合祀といいます。
各社の縁起沿革を順に追ってみます。
【 夷三郎社(夷堂) 】
滑川は鎌倉十二所、二階堂方面から鶴岡八幡宮東脇~若宮大路に沿って流れ、由比ヶ浜に注ぐ鎌倉随一の河川です。
源頼朝公は鎌倉幕府の裏鬼門除けのために小町大路が滑川を渡る橋のたもとに「夷三郎社」(夷堂)を祀ったといい、この橋を「夷堂橋」といいます。
当所は小町と大町の境。
夷堂橋の上に立って左右を眺めると西は本覚寺山門、東は妙本寺参道で、信仰的にも重要な場であることがわかります。
【写真 上(左)】 夷堂橋の石碑
【写真 下(右)】 夷堂橋から本覚寺
「本覚寺公式Web」「鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)」等によると、夷堂はもともと天台宗系でしたが、文永十一年(1274年)流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が約40日間滞在されたお堂といい、鎌倉幕府に対して三度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められたと伝わります。
鎌倉幕府滅亡(正慶二年(1333年))の際に焼失したともいいますが、永享八年(1436年)この地にあった天台宗夷堂を、一乗房日出上人が日蓮宗に改め開創したのが本覚寺と伝わります。
Wikipediaには、「永享法難」をめぐる一乗房日出上人と本覚寺創建の由来が記されています。抜粋引用します。
---------(抜粋引用はじめ)
永享八年(1436年)、気鋭の布教伝道で名高い一乗房日出が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ転出するも、足利持氏は弾圧処分を試みた。これに反発する信徒衆が荒居閻魔堂(現・新居山圓應寺)に集結し一触即発の状態になった。持氏はこの騒動が“鎌倉府討伐の口実”となる事を憂慮し処分を撤回。更に日出に対して日蓮の国家諌暁ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を認めた。これが本覺寺創建の由来と伝えられている。
---------(抜粋引用おわり)
夷三郎社(夷堂)は旧地の橋のたもとから本覚寺山内に遷され、ひきつづき夷三郎社と称して山内の鎮守と仰がれましたが、明治初期の神仏分離により同山の管理を離れ、現社地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神に合祀されたといいます。
【 宝戒寺内の山王大権現 】
『新編鎌倉志』には「(宝戒寺)山門を入て右にあり。」とあり、小町上町の鎮守といいます。
『鎌倉市史』には「山王権現は応永二年(1395年)二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろう。」とあり、宝戒寺草創当初(観応三年(1352年)頃造営)から山内に御鎮座とみられます。
『山門秘書記』翻刻版(小峯和明氏/PDF)、Wikipediaの「山王権現」によると、山王七社とは日吉大社の本社・摂社・末社二十一社を上・中・下に七社ずつ分けていう呼び名のうち、とくに上の七社をさすといい、大宮(大比叡)・二宮(小比叡)・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮の七所です。
大行事権現は中七社の一社で本地を毘沙門天といい、天台宗寺院の地主神として本堂の裏手等に祀られる例があります。
早尾権現も中七社の一社で本地を不動明王といいます。
上記の山王七社と大行事権現、早尾権現を併せて(宝戒寺の)山王大権現と称していた可能性があります。
明治維新後の神仏分離令により宝戒寺から分離され、現社地に御鎮座の七面大明神に合祀されたといいます。
【 小町下町の鎮守・七面大明神 】
小町下町の鎮守・七面大明神についての縁起沿革は見つかりませんでしたが、神号からおそらく日蓮宗系の尊格と思われます。
以上のとおり、もともと現在地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神、本覚寺山内の夷三郎社、宝戒寺山内に御鎮座で小町上町の鎮守・山王大権現の3社を合祀して、明治7年8月蛭子神社を号したとみられます。
明治6年の村社列格を記念して、明治7年社殿を新築。
本殿は、そのときに鶴岡八幡宮末社今宮の社殿を譲り受け移築したものといいます。
昭和15年神饌幣帛料供進神社に指定。
『鎌倉市史』には、旧社殿は関東大震災で大破し、昭和8年改築とあります。
3社合祀の沿革で御祭神が気になるところですが、神奈川県神社庁資料には大己貴命(おおなむちのみこと)と記されています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
夷堂橋
夷堂橋は、小町と大町との境にあり。座禅川の下流なり。昔は此邊に夷三郎社ありしとなり。今はなし。
寶戒寺(山王権現社)
門を入て右にあり。
■ 神奈川県神社庁Web資料
蛭子神社
新編相模風土記稿に「夷堂橋は 此辺に夷三郎社ありしとなり」とある如く、産土神であったが、其所に本覚寺が創建され、地主神として山門の鎮守として奉斎されていたが、神仏分離令により寺内より離れ、小町村の鎮守として明治6年村社に列格された、付近の山王権現、七面大明神などを合祀に明治7年8月、蛭子神社と称した。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
蛭子神社
ヒルコと読む。祭神、大己貴命。例祭九月十五日。元指定村社。境内地八二.六二坪。拝殿・本殿・社務所あり。本殿は明治七年八月、鶴岡八幡宮の末社今宮の社殿を譲りうけて建立したものである。
小町の鎮守。この所にはもと小町下町の鎮守七面大明神が祀られていたが、神仏分離により本覚寺の鎮守であった夷三郎社をここに移し、かつ上町下町が一村に合され一村に鎮守は一社しかおかぬという達しによって、小町上町の宝戒寺鎮守山王大権現も合祀したという。
夷三郎社は『風土記稿』本覚寺境内図に見えている。いま本覚寺山門前の橋を夷堂橋というのはこの社によってつけられた名といわれている。
宝戒寺の山王も『風土記稿』同寺の項に見えている。現在の社殿は大正十二年関東大震災で大破したが、昭和八年九月改築したもの。
宝戒寺(山王権現の項)
寛永十二年、弁盛が宝戒寺造営のことについて目安を江戸幕府に上った。それによると、境内には本堂・僧堂・鎮守(山王権現)があり、山王権現は応永二年二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。
御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろ
う。
■ 境内掲示(鎌倉市)(「猫のあしあと」様より/抜粋)
鎮守蛭子神社は出雲大社に鎮ります大国主神を御祭神として(里俗夷尊神)と称され、往古永享年間(凡五百余年前)日蓮宗本覚寺前夷堂端の傍に夷堂あり夷三郎社とも称され、同寺の守護神として、又付近住民の氏神様として崇敬されたが、明治維新に神仏分離によりこの地に鎮座し、同時に宝戒寺門前地区の氏神として、同寺境内に祀られし北条一門の守護神山王大権現をも之に合祀し、蛭子神社と称するに至った。
爾来百余年えびす様の愛称で福の神・むすびの神として信仰され遠近より善男善女の参詣多く神賑を極め今日に至った。
■ 鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)
鎌倉十橋(かまくらじっきょう)/夷堂橋
夷堂橋は、本覚寺門前を流れる滑川に架かる橋で、その名は本覚寺の仁王門前あたりにあったとされる夷堂に由来します。夷堂は源頼朝が御所の裏鬼門に夷神をまつった夷三郎社が始まりで、滑川もこのあたりでは夷堂川とも呼ばれていました。現在夷堂は本覚寺の境内にあります。
夷堂橋(えびすどうばし)
設置場所:小町1-12-12
本覚寺前。鎌倉十橋の一つ。かって、この橋のたもとに源頼朝が幕府の鬼門除けのために創建した「夷三郎社」(夷堂)があったことからこの名前になったと言われています。
本覚寺
小町大路が滑川を渡るところに、源頼朝が幕府の守り神として創建した夷堂がありました。
今も夷堂橋があります。
日蓮が滞在していたお堂で、その後ここから身延山へ旅立ちました。
夷堂は鎌倉幕府滅亡のときに焼け、その跡につくられたのが本覚寺です。
1436(永享8)年、もとこの地にあった天台宗夷堂を日出上人が日蓮宗に改めたのがはじまりと伝えます。
■ 本覺寺公式Web(日蓮宗)
本覺寺の創立は永享8年(1436)ですが、夷堂の歴史はさらに古く、鎌倉時代の初期頃と伝わります。そしてこの夷堂は日蓮聖人とも縁が深く、流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が、40数日滞在されたといわれています。その間に、日蓮聖人は鎌倉幕府へ3度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められるなど、後の布教のあり方などを大きく変えられました。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
本覚寺
寺ではこの地は『吾妻鏡』にみえる夷堂の地であるという。そして日蓮は佐渡から帰ってここに留錫し、この地から身延に移った。夷堂はもと天台宗の寺であったといい、その本尊と伝える釈迦・文殊・普賢の像がある。日出が改宗して創建した。
『風土記稿』所蔵の絵図には、夷三郎社・番神堂・祖師分骨堂などもみえる。
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鎌倉駅にもほど近い小町大路に面して御鎮座、「日蓮上人辻説法跡」にも至近です。
小町大路に面する社頭・参道の間口は広くなく、あまり目立たないので観光客の参拝はさほど多くはないのでは。
御朱印が授与されていることも、あまり知られていないかと思います。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標
社頭に社号標と亀腹を置く明神鳥居で、社号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 鳥居扁額
【写真 下(右)】 参道
しかしながら小町の鎮守であり、鎌倉有数の名刹、本覚寺、宝戒寺と古いゆかりをもつこともあってか、参道を進むにしたがい神さびた空気感に包まれます。
桟瓦葺で木鼻獅子や蟇股を備えた立派な手水舎。
手水鉢には「魚がし」の刻字。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 斜めからの拝殿
拝殿は南面し、向かってすぐ右手(東側)は滑川です。
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額
拝殿は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、向拝上に唐破風を置いています。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に精緻な彫刻を置いています。
唐破風の鬼板や兎の毛通しも見事な出来映えで見応えがあります。
向拝正面桟唐戸の上部に、端正な字体の社号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 天水鉢
向拝桟唐戸と殿前の天水鉢とに同じ紋を置いています。
梶の葉紋系統にも思えますが、諏訪系の梶の葉紋とは趣を異にしていて、他の神紋を当たってみましたが該当する紋がみつからず、よくわかりません。
御朱印は大町の八雲神社にて拝受しました。
〔 蛭子神社の御朱印 〕
34.長慶山 正覺院 大巧寺(だいぎょうじ)
公式Web
鎌倉市小町2-17-20
単立(日蓮宗系)
御本尊:産女霊神(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-
大巧寺は小町にある日蓮宗系単立寺院で、「おんめさま」の愛称で親しまれています。
当初は十二所の梶原屋敷内にあったといい、長慶山正覺院大行寺と号す真言宗寺院でした。
大行寺は頼朝公の祈願所で、この寺で軍評定した戦に勝利したため大巧寺と改めたといいます。
後に小町の現在地に移転。
日蓮聖人が妙本寺御在時の折、住僧が聖人に帰依して日蓮宗に改宗。
開山は九老僧の日澄上人とも日證上人とも伝わります。
「(朗門の)九老僧(朗門九鳳)」とは、日蓮六老僧の一人・筑後房日朗上人の9人の高弟を指します。
日澄上人 (大乗坊、1239-1326年?)は、比企谷門流の僧で九老僧(朗門九鳳)のひとりです。
『新編相模國風土記稿』には、小田原の妙珍山圓成院蓮昌寺の項で当山開山が九老ノ一、形善院日澄上人(文保元年(1317年)卒)であること。開基は小田原の濱名豊後守時成(永仁六年(1298年)卒)であること。時成は日蓮上人の投宿に随喜して出家し、妙音院日行を号したこと。時成の子は祖母妙珍尼に養われ、七歳で出家し日澄と号したこと。北條氏政の家臣・濱名時成は鎌倉小町大巧寺の檀那で、天正三年(1575年)大巧寺に寺領を寄附したこと。法名を妙法といい大巧寺に墓があり、子の蓮真と母妙節等の碑があることなどが記されています。
神奈川県平塚市の松雲山 要法寺の公式Webには、歴代上人として「二祖 九老僧 形善院日澄上人」「喜暦元(丙寅)年(1326年)八月1日化 池上大坊開山 本要阿闍梨小田原浜名豊後守時成長男」とあります。
また、池上大坊 本行寺の公式Webにも、「3祖大乗阿闍梨 形善院 日澄(嘉歴1(1326)没)」と明記されています。
上記から、大巧寺は小田原で日蓮上人に宿を提供した濱名豊後守時成(永仁六年(1298年)卒)の子で、九老僧のひとり形善院日澄上人(嘉歴元年(1326年)寂)の開山ともみられます。
しかし、天正三年(1575年)大巧寺に寺領を寄附した檀那・濱名時成は北條氏政(1538-1590年)の家臣で、鎌倉時代と戦国時代にそれぞれ2人の濱名時成が大巧寺とゆかりをもったことになりますが、詳細は不明です。
なお、濱名氏は源三位頼政の子孫といわれ、「鵺退治」で有名な頼政が恩賞に賜った遠江国堀之内郷を領したことから「鵺代」とも称しました。
濱名詮政は足利将軍義満公の信任厚かった記録があり、著名な歌人を輩出したことでも知られていますが、濱名氏の本拠は遠江で戦国期は今川氏との関係が深く、小田原や鎌倉に拠点をもった濱名時成がこの系統かどうかは不明です。
大巧寺は妙本寺の院家寺院でしたが、現在は単立寺院となっています。
大巧寺は安産祈願で有名で、「安産腹帯守」を求めて多くの参詣者があります。
安産祈願は『産女霊神縁起』にもとづくものです。
詳細は公式Web(PDF)で紹介されていますが、概要は以下のとおりです。
当山第五世日棟上人は毎夜妙本寺の祖師堂に詣でていましたが、天文元年(1532年)4月のある夜、夷堂橋の脇で産女の霊と遭遇しました。
やつれた様子の産女の霊は、日棟上人に自分は大倉に住む秋山勘解由の妻で難産によりこの世を去ったが、死出の旅路に迷って成仏できない。
どうぞよしなに回向をいただき成仏に導いていただきたいと訴えました。
哀れに思った日棟上人は法華経を読経して回向すると、女はいつのまにか姿を消していました。
数日後、日棟上人の前にみちがえったように美しい件の産女が現れ、上人の回向により成仏できたことを謝し、布に包んだ金銭を奉じたうえで、夫の秋山勘解由にこの経緯を伝え、宝塔を建立し供養して欲しいと訴えました。
そして、宝塔を供養してくれればその恩返しとして、今後、この塔に妊婦が参詣すれば安産となるよう尽力することを伝えました。
上人はこの願いに報いることを約すと、すぐに大倉の秋山勘解由を訪れました。
勘解由はこの話におどろきましたが、妻が日頃からこつこつとお金を蓄えていたこと、上人に奉じた金銭を包んでいた布は、妻が残した小袖の片袖であったことがわかりました。
勘解由は妻の回向を上人に深く謝し、自らも上人と師壇の契りを結んで宝塔建立への協力を申し出ました。
上人は「産女霊神」と号して産女の霊を祀り、宝塔を建立して手厚く供養しました。
この縁起を聞いて妊婦が参詣すると、みな安産となったので、当山は安産祈願で有名となったといいます。
この縁起を読んだとき、疑問に感じたことがあります。
・秋山勘解由について
鎌倉に秋山姓は少ないですが、あえて「大倉に住む秋山勘解由」と明記していること。
・上人への宝塔建立のお布施
諸史料は秋山勘解由の財産ではなく、産女の私財と強調していること。
・天文元年(1532年)という年号
Web検索していくと、「おんめさま 産女(うぶめ)伝説 (私説)」という記事がみつかりました。
秋山姓は甲斐発祥の甲斐源氏で、のちに武田二十四将の秋山伯耆守虎繁(信友)を生んでいます。
そして、天文三年(1534年)には武田信玄の正室・上杉の方(上杉朝興の息女)が難産で逝去しています。
上の記事では、私説として「おんめさま」と上杉の方との関係を示唆しています。
そこで筆者の想像も含めて整理してみます。
秋山氏は甲斐源氏・加賀美遠光の嫡男・光朝を祖とし、巨摩郡秋山を領しました。
秋山光朝は上京して平重盛に仕え、重盛の息女(六女・茂子)を室としたといいます。
平家滅亡後に甲斐に戻りますが、一時平家に使えていたことで頼朝公にうとまれ、居城雨鳴城を攻められ自害、あるいは鎌倉で暗殺されたともいいます。
しかし子孫は存続し、同族の甲斐武田氏に属しました。
武田家の重臣であった秋山伯耆守虎繁は大永七年(1527年)の生まれですから、上杉朝興の息女が武田晴信(信玄公)に嫁いだ天文二年(1533年)には一族の誰かが上杉の方の甲斐での後見役ないし世話役に任ぜられた可能性もあるのでは。
話が飛びますが戦国末期、穴山信君は甲斐源氏で武田家臣の秋山越前守虎康の息女を養女とし、この養女は天正十年(1582年)、信君が織田・徳川氏に臣従した際に徳川家康公の側室となりました。(下山殿/お都摩の方)
下山殿は天正十一年(1583年)、家康公の五男・万千代君(武田信吉公)を出産。
信吉公は下総小金城3万石~下総佐倉城10万石と移り、佐竹氏に替わって水戸25万石の太守となり、旧武田遺臣を付けられて武田氏を再興するやにみえましたが、慶長八年(1603年)21歳で死去し武田氏再興はなりませんでした。
下山殿は天正十九年(1591年)下総国小金にて早逝。平賀の日蓮宗の名刹・長谷山 本土寺に葬られました。
また、下山殿の実父(武田信吉公の実祖父)・秋山虎康は松戸市大橋の地に止住し、慶長元年(1596年)に了修山 本源寺を開山しているのでおそらく日蓮宗信徒です。
下山殿の「下山」は身延町下山から称したといいます。
『穴山氏とその支配構造』/町田是正氏(PDF)には「(秋山氏の祖)秋山太郎光朝の末の下山氏の住する処で(中略)『日蓮聖人遺文』にも下山氏の存在が記される所」とあり、下山殿の実家の秋山氏は、京よりはやくに讃岐に日蓮宗を伝えた(→ビジネス香川)ともいいますから、そんなこともあって日蓮宗寺院と秋山氏は結びつきやすかったのかもしれません。
さすがに話が飛びすぎました。
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信玄公の正室を三条の方(左大臣・三条公頼の次女)とする資料もありますが、正式には継室で、正室は上杉の方です。
上杉の方が嫁いだとき信玄公はわずか13歳で、上杉の方も同年代といいます。
天文三年(1534年)に出産の折、年若い上杉の方は難産であえなく逝去されました。
その頃、上杉の方の父・上杉朝興は扇谷上杉家の家督を嫡男・朝定に譲ったものの川越城に依り、相模国に盛んに兵を出しています。
年若くして難産で世を去った息女の供養は、父親としてごく自然な感情です。
しかし、当時の扇谷上杉家は古河公方、関東管領(山内上杉家)、武田家、後北条家、越後長尾家などとすこぶるデリケートな関係にあり、政略結婚で命を落とした娘の供養を、(娘に仕えていた)秋山勘解由の妻に託したという想像もあるいは許されるかもしれません。
また、秋山勘解由の在所は大倉(大蔵)で旧・大蔵幕府の跡、かつては幕政の中心地で官吏なども住んでいたと思われます。
上杉朝興は扇谷上杉家で関東管領ではないですが、関東管領(山内上杉家)に比肩する勢力をもち、その家人や与力衆はこの辺に住んでいたかもしれません。
勘解由の名も官吏・文官的な性格をイメージさせます。
このような背景から「おんめさま 産女(うぶめ)伝説 (私説)」は、「彼女(上杉の方)に仕えていた秋山勘解由の妻は、葬儀を終えて鎌倉の大倉に帰って来た。彼女の死後1年を過ぎて、自宅近くの寺に彼女を弔った。傷心の上杉朝興(46歳)は、彼女を通じて寺に寄進をし、娘の菩提を弔う秋山勘解由の心遣いを喜んだ。」という私説を展開されているのでは。
なお、大巧寺と上杉の方・上杉朝興の関係を示唆する史料は見当たらないので、上の内容はあくまでも想像で、お寺の紹介としてはいささか飛躍が過ぎたかもしれません。
いずれにしても、大巧寺は寺院が集まる鎌倉市内でも「安産祈願」という格別のご利益をもって広く信仰を集めていることは間違いありません。
寺宝で、産女霊神神骨を収めるという宝塔(水晶五輪塔)は、旧本山の妙本寺に預けられていましたが、平成23年に返却されて以降、当山にて格護されています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
大巧寺
大巧寺は、小町の西頰にあり。相伝、昔は長慶山正覺院大行寺と号し、真言宗にて、梶原屋敷の内にあり。後に大巧寺と改め、此地に移すとなり。梶原屋敷の條下に詳なり。昔し日蓮、妙本寺在世の時、此寺法華宗となり、九老僧日澄上人を開山とし、妙本寺の院家になれり。(略)
産女寶塔
堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女寶塔と云事は、相伝ふ、当寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋の脇より、産女の幽魂出て、日棟に逢、廻向に預て苦患を免れ度由を云。日棟これが為に廻向す。産女、䞋金一包を捧て謝す。日棟これを受て其為に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱の跡と云て今尚存す。夷堂橋の小北なり。
寺宝
曼荼羅 三幅 共に日蓮の筆。
無邊行菩薩名号 日蓮筆。
日蓮消息 壱幅
曼荼羅 壱幅 日朗筆。
舎利塔 壱基 五重の玉塔なり。
濱名石塔 北條氏政の家臣、濱名豊後守時成、法名妙法、子息蓮眞、母儀妙節、三人の石塔なり。
番神堂 濱名時成建立すと云。
梶原屋敷 附大巧寺𦾔跡
梶原屋敷は五大堂の北方山際にあり。梶原平三景時が𦾔跡なり。『東鑑』に、景時は正治二年(1200年)十二月十八日に、鎌倉を追出され、相模国一宮へ下る。彼家屋を破却して、永福寺の僧坊に寄附せらるとあり。頼家の時也。今此所に、大なる佛像の首ばかり、草庵に安置す。按ずるに『東鑑脱漏』に、安貞元年(1227年)四月二日、大慈寺の郭内に於て、二位家平政子第三年忌の為に。武州泰時、丈六堂を建らるとあり。此所大慈寺へ近ければ、疑らくは其丈六佛の首ならんか。又里老云、昔大行寺と云真言寺此所にあり。頼朝の祈願所にて、或は此寺にて、軍の評議して勝利を得られたり。故に大巧寺と改む。後に小町へ移し、日蓮宗となる。今の小町の長慶山大巧寺なりと、しかれども、『東鑑』等の記録に不見。按ずるに、五大堂を大行寺と号すれば、昔の大行寺の跡は、五大堂を云ならんか。不分明也。
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
大巧寺
長慶山正覺院ト号ス。法華宗 古大行寺ト号シ。真言宗ニテ。今唱フル。梶原屋敷ノ内ニアリ。頼朝ノ祈願所タリ。或時此寺ニテ。軍評定妙本寺大町村ニ在シ時。当寺住僧帰依シテ改宗シ。日證ヲ開山トシ。妙本寺ノ院家ニ属セリ。(略)
天正三年(1575年)二月。濱名豊後守時成。鎌倉能成分。六貫文ノ地ヲ寄附ス。(略)
本尊ハ三寶諸尊ヲ安ス。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿12』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
蓮昌寺(小田原筋違橋町)
日蓮宗。鎌倉比企谷妙本寺末。妙珍山圓成院ト号ス。開山日澄。形善院ト號ス。九老ノ一、文保元年八月十日卒。傳云。文永十一年(1274年)五月。日蓮身延ヘ入山ノ時。憩ヒシ旧蹟ニテ。後ニ一寺トナル。開基濱名豊後守時成。寺傳云。宗祖身延入山ノ時。当所豊後守時成ノ館ニ投宿セリ。其時時成随喜シテ出家シ。妙音院日行ト号ス。永仁六年(1298年)二月五日。尾州熱田ニテ卒ス。一子アリ。祖母妙珍尼ニ養レ七歳にて出家ス。日澄ト号ス。即当寺開山ナリ。日澄其祖父蓮昌。祖母妙珍菩提ノ為。当寺ヲ開キ。即祖父母ノ法号ニヨリテ。寺山号ニ名けケシト云。今按スルニ豊後守時成ハ。北條氏政ニ仕ヘシ人ニテ。鎌倉小町大巧寺ノ檀那ナリ。天正三年(1575年)二月。大巧寺ニ時成寺領を寄附セシ券状。今ニ彼寺ニ傳フ。又同寺ニ墳アリ。法名妙法ト云。其子蓮真母妙節等ノ碑モアリ。然ルヲ時成日蓮ノ弟子トナリ。日澄ヲ其子トナスノ類。(以下略)
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
大巧寺
長慶山正覺院大巧寺と号する。日蓮宗系 単立宗教法人。もと妙本寺の院家。
開山、日澄。本尊、産女霊神。本堂・庫裏・山門・門あり。
産女宝塔は妙本寺に預けてある。
寺伝によると、大巧寺はもと大行寺と号した。真言宗の寺で十二所にあり、頼朝が軍の評議をしたところであるという。また日蓮が妙本寺にいたとき、時の住持が帰依して文永十一年(1274年)に改宗したという。(略)
産女様
当寺は俗におうめさまといい、安産のお守りを出す。これは五世日棟が産女の幽魂を鎮めたところから起こったといわれている。
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗系単立寺院
山号寺号 長慶山大巧寺
開山 日澄上人
初め「大行寺」という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定(作戦会議)で大勝したので、「大巧寺」に改めるようになったと伝えられています。
室町時代の終わり頃、この寺の住職の日棟上人が、難産で死んだ秋山勘解由の妻を供養して成仏させました。その後、お産で苦しむ女性を守護するために、「産女霊神(うぶすめれいじん)」を本尊としてお祀りしました。
今も安産祈願の寺として、「おんめさま」の愛称で呼ばれ、多くの方が参詣されています。
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若宮大路と小町大路双方に接し、鎌倉駅からもっとも近い寺社のひとつです。
たいていの鎌倉ガイドに載っているので、観光客の参詣も多いとみられます。
【写真 上(左)】 若宮大路口
【写真 下(右)】 寺号標
若宮大路に面して整った石積みの参道とその奥に山門。
参道入口の「安産子育 産女霊神 長慶山大巧寺」の標石、そして参道の正中に据えられた石が目立ちます。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 参道
山門は脇塀付切妻屋根銅板葺のおそらく四脚門で、渋い朱塗りが趣を添えています。
石畳の参道は、右手のビルの存在感はあるものの緑豊かで四季折々の花が咲くようです。
【写真 上(左)】 小町大路口
【写真 下(右)】 小町大路口のお題目塔
小町大路側からも参道が伸び、入口には寺号を配したお題目塔とその奥には門柱を置いています。
こちらからは本堂が正面で、本来の参道はこちら側かもしれません。
こちらの参道も緑豊かで、雑踏の鎌倉駅至近とは思えない落ち着いた空間です。
【写真 上(左)】 小町大路側の門柱
【写真 下(右)】 手水舎
山内に産女霊神、福子霊神の石の墓碑がありますが、写真は撮っておりません。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝上部
本堂は入母屋造銅板棒葺流れ向拝で、向拝上に整った唐破風を置いています。
水引虹梁両端に獅子・獏(象かも)の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に二本の大瓶束と、その間に風格ある龍の彫刻を置いています。
彫刻の上段には笈形(おいがた)付大瓶束(たいへいづか)で、兎の毛通し&鬼板も配して見応えがあります。
向拝は桟の上に白壁(?)を置いた個性的な扉で、見上げの本蟇股とその上の三連の斗栱も存在感があります。
【写真 上(左)】 向拝中備
【写真 下(右)】 授与所
御首題・御朱印は本堂よこの授与所で拝受しましたが。Web情報によるとタイミングにより授与を休止されることもあるようです。
こちらの授与所では安産腹帯守が授与されています。
戌の日および大安の休日にはたいへん混雑するようです。
〔 大巧寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印
35.妙厳山 本覺寺(ほんがくじ)
日蓮宗公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町1-12-12
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉十三仏霊場第3番、鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)
司元別当:蛭子神社(鎌倉市小町)
本覺寺は小町にある日蓮宗の本山(由緒寺院)です。
身延山久遠寺の日蓮聖人の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれます。
鎌倉時代の初期、本覺寺の山門前の滑川にかかる端のたもとには「夷堂」と呼ばれる堂宇がありました。
鎌倉幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝公が幕府守護のために夷堂を創建したといいます。
もとは天台宗系でしたが、文永十一年(1274年)に佐渡配流から戻られた日蓮聖人が約40日間にわたって夷堂に滞在され、鎌倉幕府に対し三度目の諫暁をされたものの、受け入れられなかったためついに身延への隠棲を決められたと伝わります。
(この「夷堂」の詳細については、33.蛭子神社を参照願います。)
夷堂は、鎌倉幕府滅亡(正慶二年(1333年))の際に焼失したともいいますが、永享八年(1436年)この地にあった天台宗夷堂を、一乗房日出上人が日蓮宗に改め開創したのが本覺寺と伝わります。
鎌倉公方・足利持氏開基説もみられます。
永享八年(1436年)、日蓮宗の布教伝道で名高い一乗房日出上人が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ入られ、天台宗宝戒寺の僧・心海和尚と問答を繰り広げ(永享問答)、これをきっかけに騒動が起こったといいます。(永享法難)
Wikipediaには、「永享法難」をめぐる一乗房日出上人と本覺寺創建の由来が記されています。抜粋引用します。
---------(抜粋引用はじめ)
永享八年(1436年)、気鋭の布教伝道で名高い一乗房日出が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ転出するも、足利持氏は弾圧処分を試みた。これに反発する信徒衆が荒居閻魔堂(現・新居山圓應寺)に集結し一触即発の状態になった。持氏はこの騒動が“鎌倉府討伐の口実”となる事を憂慮し処分を撤回。更に日出に対して日蓮の国家諌暁ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を認めた。これが本覺寺創建の由来と伝えられている。
---------(抜粋引用おわり)
文安三年(1446年)に日出上人の弟子・行学院日朝上人が第2世として在寺され、15年ののちに身延山久遠寺第11世として入られ、身延山の再興を図られたといいます。
日朝上人は身延山への参詣が難しい老人や女性のために、身延山から日蓮聖人の遺骨を分骨して本覺寺に納めたため、以降当山は「東身延」とも称されました。
また、日朝上人は眼病救護の誓願を立てられたことから、当山は「日朝さま」とも呼ばれ鎌倉の庶民に親しまれました。
日蓮聖人の分骨の権威と、日朝上人の名声により、当山は鎌倉における日蓮宗の名刹の地位を確立し、後北条氏、豊臣氏、徳川氏から代々寺領を安堵され、塔頭末寺併せて10箇寺をもつ中本寺の格式を保ちました。
『新編鎌倉志』には「東三十三箇國、別して関八州の僧録」とあります。
僧録とは、僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職をいい、当山が大きな権威をもっていたことがうかがえます。
『鎌倉市史 社寺編』には「嘉永三年(1850年)の境内及び寺領の絵図があり、いまの市役所、市民座、駅前等を含む広い境内であったことがわかる。」とあるので、幕末の当山はすこぶる広大な寺領を有していたことがわかります。
開山七百年の節目にあたる昭和49年には日蓮宗本山(由緒寺院)に昇格し、いまも隆盛を保っています。
日蓮聖人ゆかりの夷堂は、山内鎮守の夷三郎社として祀られたといいますが、明治の神仏分離の際に蛭子神社に合祀されたといいます。
現在の八角形の夷堂は、昭和56年に建立されたものです。
名刹だけに文化財も豊富で、本堂安置の木造釈迦如来 、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊像は
南北朝時代の作で宋風のすぐれた作風を伝えるとされ、鎌倉市指定の文化財です。
墓域には、鎌倉の住人で名刀工の正宗の墓があります。
正月三が日の「初えびす」、正月10日の「本えびす」には商売繁盛を願う参詣者たちで賑わい、10月の人形供養も古都・鎌倉の風物詩とされます。
鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)、鎌倉十三仏霊場第3番(文殊菩薩)の札所で、巡拝客や観光客も多く訪れる鎌倉の名所です。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
本覺寺
妙厳山と号す。身延山の末寺なり。開山日出上人。永享年中(1429-1441年)に草創すと云伝。此寺は東國法華宗の小本寺也。当寺三世日燿へ、日朝より書を遺して曰、総じて東三十三箇國、別して関八州の僧録に任じ置事に候へば、萬端制法肝要に候と云云。
う々、とありし由鎌倉志に見えたり、今此文書傳はらず。日朝上人は、日出上人の弟子、当寺第二世なり。廿歳にして身延山に住す。身延山第十一祖なり。在住四十年。身延山の諸法式も此代に定む。此書も身延山より遺はすと云ふ。本尊は釋迦・文殊・普賢なり。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
本覺寺
妙厳山ト号ス。法華宗身延山久遠寺末。永享年中(1429-1441年)ノ草創ニシテ開山ヲ日出(武州ノ人ナリ。始ハ是性坊ト号シ。天台宗ナリシカ。身延山日延ニ帰依シテ改宗シ。一乗坊ト称ス。)ト云フ。
当寺ハ東國法華宗ノ小本寺ナリ。日朝(当寺二世。本寺十一世ナリ。)身延山ニ在シ時。当寺三世日燿ヘ贈リシ書ニ。総して東三十三箇國。別シテ関八州ノ僧録ニ。任シ置事ニ候ヘハ。萬端制法。肝要ニ候云々。トアリシ由。鎌倉志ニ見エタリ。今此文書伝ハラス。(略)
本尊三寶ヲ安ス。又釋迦文殊普賢ノ像アリ。元ノ本尊ト云。
寺寶
曼陀羅一幅。日蓮筆。
日蓮消息十通。
記録一巻。日出天台宗ト問答ノ時。執権某是非ヲ糾シ。又修法ノ怪異ニ驚キ。褒賞シテ。田園ヲ寄附スルノ由。日出ノ書ナリ。巻尾ニ永享八年(1436年)五月晦日トアリ。
古文書十通。其文前ニ註記ス。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
本覚寺
妙厳山と号する。日蓮宗。もと身延山久遠寺末中本寺。開山、一乗日出。永享八年(1436年)の創建と伝える。
本尊、三宝祖師。境内地二六一四坪。本堂・祖師分骨堂・客殿・庫裏・鐘楼・二王門・横門棟あり。
寺ではこの地は『吾妻鏡』にみえる夷堂の地であるという。そして日蓮は佐渡から帰ってここに留錫し、この地から身延に移った。夷堂はもと天台宗の寺であったといい、その本尊と伝える釈迦・文殊・普賢の像がある。日出が改宗して創建した。
二世日朝の書状に本覚寺大浄坊を関八州の僧録となすことがみえ東身延と称している。
俗に日朝様とよぶ。串川光明寺にある善宝寺寺池の図にみえる法華堂はここのことであろう。(略)
嘉永三年(1850年)の境内及び寺領の絵図があり、いまの市役所、市民座、駅前等を含む広い境内であったことがわかる。
『風土記稿』所蔵の絵図には、夷三郎社・番神堂・祖師分骨堂などもみえる。
なお境内の墓地には正宗の墓と伝えるものがある。
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗
山号寺号 妙厳山本覚寺
建立 永享8年(1436)
開山 日出
本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。
原典:間宮士信 等編『新編相模国風土記稿』第4輯 鎌倉郡,鳥跡蟹行社,明17-21.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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小町大路に接し、鎌倉駅からもっとも近い寺社のひとつです。
鎌倉市内の名所の位置づけで、観光客の参詣も多いとみられます。
「日蓮上人辻説法跡」にもほどちかいところです。
【写真 上(左)】 日蓮上人辻説法跡
【写真 下(右)】 夷堂橋から山門
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの山門
小町大路が滑川を渡る夷堂橋のたもとに山門(二王門)があります。
桟瓦葺の楼門。両脇間に二王尊を安する三間一戸の八脚門で、大寺の風格があります。
手前には台座に「東身延」とある大きなお題目塔。
【写真 上(左)】 山門前のお題目塔
【写真 下(右)】 夷堂
山門をくぐって右側に鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)である夷堂。
銅板葺の屋根上に相輪を置き、急傾斜でむくり気味の屋根の角部が向拝になっている変わった意匠で、宝形造とも思いますがよくわかりません。
向拝には「夷尊堂」の扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 夷堂の扁額
【写真 下(右)】 授与所と参道
【写真 上(左)】 客殿?
【写真 下(右)】 手水舎
参道を進むと左手が授与所と、その奥は庫裏と客殿でしょうか。
さらに行くと右手に虹梁、木鼻、斗栱、中備を備えた立派な手水舎。
手水鉢では剣に二軆の龍が巻き付いた、倶利迦羅剣のような吐水口から水が注がれています。
その奥手に均整のとれた鐘楼。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 本堂前
【写真 下(右)】 本堂
正面本堂の堂前に香炉、金灯籠、石灯籠と天水鉢。
本堂は基壇上に入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、向拝上に軒唐破風をおこしています。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
向拝は三間で水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に三連の蟇股を置いています。
各所に菱格子、格子を配して引き締まったイメージの意匠です。
向拝見上げに各号扁額を掲げていますが、達筆すぎて読解できず。(常拝閣か/?)
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 しあわせ地蔵尊
【写真 上(左)】 日蓮上人分骨堂
【写真 下(右)】 斜めからの分骨堂
本堂向かって右手奥にまわると、濡佛のしあわせ地蔵尊。
その奥には堂前に宝塔、香炉、石灯籠を配した日蓮上人分骨堂。
当山が「東身延」と呼ばれる由縁の重要な堂宇です。
桟瓦葺、二層の楼閣で、二層屋根の基盤上に宝珠。
堂回りに瑞垣をまわし、堂前は日蓮宗の宗紋「井桁橘」が刻まれた石扉で閉ざされています。
向拝の桟唐戸と両脇の花頭窓が、シンプルながら風格を感じさせます。
大寺ながら堂宇や山内佛がすくなく、明るくすっきりとして公園のような印象です。
【写真 上(左)】 路地からの脇門
【写真 下(右)】 脇門
若宮大路から小町大路に抜ける路地側にも山門があります。
脇塀付き切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、脇門ながら風格があります。
門前にお題目塔と「一天四海皆妙法」の石碑。
【写真 上(左)】 脇門前のお題目
【写真 下(右)】 脇門前の石碑
御首題・御朱印は参道左手の授与所で拝受しました。
札所でもあるので、複数の御朱印を授与されています。
〔 本覺寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 日朝大上人の御朱印
【写真 上(左)】 夷神(鎌倉・江ノ島七福神)の御朱印
【写真 下(右)】 文殊菩薩(鎌倉十三仏霊場)の御朱印
→ ■ 鎌倉市の御朱印-11 (B.名越口-5)へつづく。
【 BGM 】
■ 私にはできない - Eiーvy
■ Re:Call - 霜月はるか
■ あなたの夜が明けるまで - Covered by 春吹そらの
しばらくつづけます。
■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)から。
33.蛭子神社(ひるこじんじゃ)
神奈川県神社庁Web
鎌倉市小町2-23-3
御祭神:大己貴命
旧社格:村社、神饌幣帛料供進神社、小町一帯の産土神
元別当:妙厳山 本覚寺(鎌倉市小町)
蛭子神社は小町大路に面する小町地区の鎮守社です。
蛭子神社の縁起沿革はすこぶる複雑で、本覚寺内の夷三郎社、宝戒寺内の山王大権現、現在地に御鎮座の七面大明神の合祀といいます。
各社の縁起沿革を順に追ってみます。
【 夷三郎社(夷堂) 】
滑川は鎌倉十二所、二階堂方面から鶴岡八幡宮東脇~若宮大路に沿って流れ、由比ヶ浜に注ぐ鎌倉随一の河川です。
源頼朝公は鎌倉幕府の裏鬼門除けのために小町大路が滑川を渡る橋のたもとに「夷三郎社」(夷堂)を祀ったといい、この橋を「夷堂橋」といいます。
当所は小町と大町の境。
夷堂橋の上に立って左右を眺めると西は本覚寺山門、東は妙本寺参道で、信仰的にも重要な場であることがわかります。
【写真 上(左)】 夷堂橋の石碑
【写真 下(右)】 夷堂橋から本覚寺
「本覚寺公式Web」「鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)」等によると、夷堂はもともと天台宗系でしたが、文永十一年(1274年)流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が約40日間滞在されたお堂といい、鎌倉幕府に対して三度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められたと伝わります。
鎌倉幕府滅亡(正慶二年(1333年))の際に焼失したともいいますが、永享八年(1436年)この地にあった天台宗夷堂を、一乗房日出上人が日蓮宗に改め開創したのが本覚寺と伝わります。
Wikipediaには、「永享法難」をめぐる一乗房日出上人と本覚寺創建の由来が記されています。抜粋引用します。
---------(抜粋引用はじめ)
永享八年(1436年)、気鋭の布教伝道で名高い一乗房日出が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ転出するも、足利持氏は弾圧処分を試みた。これに反発する信徒衆が荒居閻魔堂(現・新居山圓應寺)に集結し一触即発の状態になった。持氏はこの騒動が“鎌倉府討伐の口実”となる事を憂慮し処分を撤回。更に日出に対して日蓮の国家諌暁ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を認めた。これが本覺寺創建の由来と伝えられている。
---------(抜粋引用おわり)
夷三郎社(夷堂)は旧地の橋のたもとから本覚寺山内に遷され、ひきつづき夷三郎社と称して山内の鎮守と仰がれましたが、明治初期の神仏分離により同山の管理を離れ、現社地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神に合祀されたといいます。
【 宝戒寺内の山王大権現 】
『新編鎌倉志』には「(宝戒寺)山門を入て右にあり。」とあり、小町上町の鎮守といいます。
『鎌倉市史』には「山王権現は応永二年(1395年)二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろう。」とあり、宝戒寺草創当初(観応三年(1352年)頃造営)から山内に御鎮座とみられます。
『山門秘書記』翻刻版(小峯和明氏/PDF)、Wikipediaの「山王権現」によると、山王七社とは日吉大社の本社・摂社・末社二十一社を上・中・下に七社ずつ分けていう呼び名のうち、とくに上の七社をさすといい、大宮(大比叡)・二宮(小比叡)・聖真子・八王子・客人・十禅師・三宮の七所です。
大行事権現は中七社の一社で本地を毘沙門天といい、天台宗寺院の地主神として本堂の裏手等に祀られる例があります。
早尾権現も中七社の一社で本地を不動明王といいます。
上記の山王七社と大行事権現、早尾権現を併せて(宝戒寺の)山王大権現と称していた可能性があります。
明治維新後の神仏分離令により宝戒寺から分離され、現社地に御鎮座の七面大明神に合祀されたといいます。
【 小町下町の鎮守・七面大明神 】
小町下町の鎮守・七面大明神についての縁起沿革は見つかりませんでしたが、神号からおそらく日蓮宗系の尊格と思われます。
以上のとおり、もともと現在地に御鎮座の小町下町の鎮守・七面大明神、本覚寺山内の夷三郎社、宝戒寺山内に御鎮座で小町上町の鎮守・山王大権現の3社を合祀して、明治7年8月蛭子神社を号したとみられます。
明治6年の村社列格を記念して、明治7年社殿を新築。
本殿は、そのときに鶴岡八幡宮末社今宮の社殿を譲り受け移築したものといいます。
昭和15年神饌幣帛料供進神社に指定。
『鎌倉市史』には、旧社殿は関東大震災で大破し、昭和8年改築とあります。
3社合祀の沿革で御祭神が気になるところですが、神奈川県神社庁資料には大己貴命(おおなむちのみこと)と記されています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
夷堂橋
夷堂橋は、小町と大町との境にあり。座禅川の下流なり。昔は此邊に夷三郎社ありしとなり。今はなし。
寶戒寺(山王権現社)
門を入て右にあり。
■ 神奈川県神社庁Web資料
蛭子神社
新編相模風土記稿に「夷堂橋は 此辺に夷三郎社ありしとなり」とある如く、産土神であったが、其所に本覚寺が創建され、地主神として山門の鎮守として奉斎されていたが、神仏分離令により寺内より離れ、小町村の鎮守として明治6年村社に列格された、付近の山王権現、七面大明神などを合祀に明治7年8月、蛭子神社と称した。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
蛭子神社
ヒルコと読む。祭神、大己貴命。例祭九月十五日。元指定村社。境内地八二.六二坪。拝殿・本殿・社務所あり。本殿は明治七年八月、鶴岡八幡宮の末社今宮の社殿を譲りうけて建立したものである。
小町の鎮守。この所にはもと小町下町の鎮守七面大明神が祀られていたが、神仏分離により本覚寺の鎮守であった夷三郎社をここに移し、かつ上町下町が一村に合され一村に鎮守は一社しかおかぬという達しによって、小町上町の宝戒寺鎮守山王大権現も合祀したという。
夷三郎社は『風土記稿』本覚寺境内図に見えている。いま本覚寺山門前の橋を夷堂橋というのはこの社によってつけられた名といわれている。
宝戒寺の山王も『風土記稿』同寺の項に見えている。現在の社殿は大正十二年関東大震災で大破したが、昭和八年九月改築したもの。
宝戒寺(山王権現の項)
寛永十二年、弁盛が宝戒寺造営のことについて目安を江戸幕府に上った。それによると、境内には本堂・僧堂・鎮守(山王権現)があり、山王権現は応永二年二月に宝戒寺住持興顗が山王七社と大行事早尾の御正躰一面を造立している。
御神体はもとからあったというから、山王社は恐らく草創と共に勧請されていたのであろ
う。
■ 境内掲示(鎌倉市)(「猫のあしあと」様より/抜粋)
鎮守蛭子神社は出雲大社に鎮ります大国主神を御祭神として(里俗夷尊神)と称され、往古永享年間(凡五百余年前)日蓮宗本覚寺前夷堂端の傍に夷堂あり夷三郎社とも称され、同寺の守護神として、又付近住民の氏神様として崇敬されたが、明治維新に神仏分離によりこの地に鎮座し、同時に宝戒寺門前地区の氏神として、同寺境内に祀られし北条一門の守護神山王大権現をも之に合祀し、蛭子神社と称するに至った。
爾来百余年えびす様の愛称で福の神・むすびの神として信仰され遠近より善男善女の参詣多く神賑を極め今日に至った。
■ 鎌倉公式観光ガイド(鎌倉市観光協会)
鎌倉十橋(かまくらじっきょう)/夷堂橋
夷堂橋は、本覚寺門前を流れる滑川に架かる橋で、その名は本覚寺の仁王門前あたりにあったとされる夷堂に由来します。夷堂は源頼朝が御所の裏鬼門に夷神をまつった夷三郎社が始まりで、滑川もこのあたりでは夷堂川とも呼ばれていました。現在夷堂は本覚寺の境内にあります。
夷堂橋(えびすどうばし)
設置場所:小町1-12-12
本覚寺前。鎌倉十橋の一つ。かって、この橋のたもとに源頼朝が幕府の鬼門除けのために創建した「夷三郎社」(夷堂)があったことからこの名前になったと言われています。
本覚寺
小町大路が滑川を渡るところに、源頼朝が幕府の守り神として創建した夷堂がありました。
今も夷堂橋があります。
日蓮が滞在していたお堂で、その後ここから身延山へ旅立ちました。
夷堂は鎌倉幕府滅亡のときに焼け、その跡につくられたのが本覚寺です。
1436(永享8)年、もとこの地にあった天台宗夷堂を日出上人が日蓮宗に改めたのがはじまりと伝えます。
■ 本覺寺公式Web(日蓮宗)
本覺寺の創立は永享8年(1436)ですが、夷堂の歴史はさらに古く、鎌倉時代の初期頃と伝わります。そしてこの夷堂は日蓮聖人とも縁が深く、流罪の地・佐渡から鎌倉に戻られた日蓮聖人が、40数日滞在されたといわれています。その間に、日蓮聖人は鎌倉幕府へ3度目の諫暁をされ、受け入れられなかったために身延への隠棲を決められるなど、後の布教のあり方などを大きく変えられました。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
本覚寺
寺ではこの地は『吾妻鏡』にみえる夷堂の地であるという。そして日蓮は佐渡から帰ってここに留錫し、この地から身延に移った。夷堂はもと天台宗の寺であったといい、その本尊と伝える釈迦・文殊・普賢の像がある。日出が改宗して創建した。
『風土記稿』所蔵の絵図には、夷三郎社・番神堂・祖師分骨堂などもみえる。
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鎌倉駅にもほど近い小町大路に面して御鎮座、「日蓮上人辻説法跡」にも至近です。
小町大路に面する社頭・参道の間口は広くなく、あまり目立たないので観光客の参拝はさほど多くはないのでは。
御朱印が授与されていることも、あまり知られていないかと思います。
【写真 上(左)】 社頭
【写真 下(右)】 社号標
社頭に社号標と亀腹を置く明神鳥居で、社号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 鳥居扁額
【写真 下(右)】 参道
しかしながら小町の鎮守であり、鎌倉有数の名刹、本覚寺、宝戒寺と古いゆかりをもつこともあってか、参道を進むにしたがい神さびた空気感に包まれます。
桟瓦葺で木鼻獅子や蟇股を備えた立派な手水舎。
手水鉢には「魚がし」の刻字。
【写真 上(左)】 手水舎
【写真 下(右)】 斜めからの拝殿
拝殿は南面し、向かってすぐ右手(東側)は滑川です。
【写真 上(左)】 拝殿
【写真 下(右)】 拝殿扁額
拝殿は入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、向拝上に唐破風を置いています。
水引虹梁両端に獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に精緻な彫刻を置いています。
唐破風の鬼板や兎の毛通しも見事な出来映えで見応えがあります。
向拝正面桟唐戸の上部に、端正な字体の社号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 天水鉢
向拝桟唐戸と殿前の天水鉢とに同じ紋を置いています。
梶の葉紋系統にも思えますが、諏訪系の梶の葉紋とは趣を異にしていて、他の神紋を当たってみましたが該当する紋がみつからず、よくわかりません。
御朱印は大町の八雲神社にて拝受しました。
〔 蛭子神社の御朱印 〕
34.長慶山 正覺院 大巧寺(だいぎょうじ)
公式Web
鎌倉市小町2-17-20
単立(日蓮宗系)
御本尊:産女霊神(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:-
大巧寺は小町にある日蓮宗系単立寺院で、「おんめさま」の愛称で親しまれています。
当初は十二所の梶原屋敷内にあったといい、長慶山正覺院大行寺と号す真言宗寺院でした。
大行寺は頼朝公の祈願所で、この寺で軍評定した戦に勝利したため大巧寺と改めたといいます。
後に小町の現在地に移転。
日蓮聖人が妙本寺御在時の折、住僧が聖人に帰依して日蓮宗に改宗。
開山は九老僧の日澄上人とも日證上人とも伝わります。
「(朗門の)九老僧(朗門九鳳)」とは、日蓮六老僧の一人・筑後房日朗上人の9人の高弟を指します。
日澄上人 (大乗坊、1239-1326年?)は、比企谷門流の僧で九老僧(朗門九鳳)のひとりです。
『新編相模國風土記稿』には、小田原の妙珍山圓成院蓮昌寺の項で当山開山が九老ノ一、形善院日澄上人(文保元年(1317年)卒)であること。開基は小田原の濱名豊後守時成(永仁六年(1298年)卒)であること。時成は日蓮上人の投宿に随喜して出家し、妙音院日行を号したこと。時成の子は祖母妙珍尼に養われ、七歳で出家し日澄と号したこと。北條氏政の家臣・濱名時成は鎌倉小町大巧寺の檀那で、天正三年(1575年)大巧寺に寺領を寄附したこと。法名を妙法といい大巧寺に墓があり、子の蓮真と母妙節等の碑があることなどが記されています。
神奈川県平塚市の松雲山 要法寺の公式Webには、歴代上人として「二祖 九老僧 形善院日澄上人」「喜暦元(丙寅)年(1326年)八月1日化 池上大坊開山 本要阿闍梨小田原浜名豊後守時成長男」とあります。
また、池上大坊 本行寺の公式Webにも、「3祖大乗阿闍梨 形善院 日澄(嘉歴1(1326)没)」と明記されています。
上記から、大巧寺は小田原で日蓮上人に宿を提供した濱名豊後守時成(永仁六年(1298年)卒)の子で、九老僧のひとり形善院日澄上人(嘉歴元年(1326年)寂)の開山ともみられます。
しかし、天正三年(1575年)大巧寺に寺領を寄附した檀那・濱名時成は北條氏政(1538-1590年)の家臣で、鎌倉時代と戦国時代にそれぞれ2人の濱名時成が大巧寺とゆかりをもったことになりますが、詳細は不明です。
なお、濱名氏は源三位頼政の子孫といわれ、「鵺退治」で有名な頼政が恩賞に賜った遠江国堀之内郷を領したことから「鵺代」とも称しました。
濱名詮政は足利将軍義満公の信任厚かった記録があり、著名な歌人を輩出したことでも知られていますが、濱名氏の本拠は遠江で戦国期は今川氏との関係が深く、小田原や鎌倉に拠点をもった濱名時成がこの系統かどうかは不明です。
大巧寺は妙本寺の院家寺院でしたが、現在は単立寺院となっています。
大巧寺は安産祈願で有名で、「安産腹帯守」を求めて多くの参詣者があります。
安産祈願は『産女霊神縁起』にもとづくものです。
詳細は公式Web(PDF)で紹介されていますが、概要は以下のとおりです。
当山第五世日棟上人は毎夜妙本寺の祖師堂に詣でていましたが、天文元年(1532年)4月のある夜、夷堂橋の脇で産女の霊と遭遇しました。
やつれた様子の産女の霊は、日棟上人に自分は大倉に住む秋山勘解由の妻で難産によりこの世を去ったが、死出の旅路に迷って成仏できない。
どうぞよしなに回向をいただき成仏に導いていただきたいと訴えました。
哀れに思った日棟上人は法華経を読経して回向すると、女はいつのまにか姿を消していました。
数日後、日棟上人の前にみちがえったように美しい件の産女が現れ、上人の回向により成仏できたことを謝し、布に包んだ金銭を奉じたうえで、夫の秋山勘解由にこの経緯を伝え、宝塔を建立し供養して欲しいと訴えました。
そして、宝塔を供養してくれればその恩返しとして、今後、この塔に妊婦が参詣すれば安産となるよう尽力することを伝えました。
上人はこの願いに報いることを約すと、すぐに大倉の秋山勘解由を訪れました。
勘解由はこの話におどろきましたが、妻が日頃からこつこつとお金を蓄えていたこと、上人に奉じた金銭を包んでいた布は、妻が残した小袖の片袖であったことがわかりました。
勘解由は妻の回向を上人に深く謝し、自らも上人と師壇の契りを結んで宝塔建立への協力を申し出ました。
上人は「産女霊神」と号して産女の霊を祀り、宝塔を建立して手厚く供養しました。
この縁起を聞いて妊婦が参詣すると、みな安産となったので、当山は安産祈願で有名となったといいます。
この縁起を読んだとき、疑問に感じたことがあります。
・秋山勘解由について
鎌倉に秋山姓は少ないですが、あえて「大倉に住む秋山勘解由」と明記していること。
・上人への宝塔建立のお布施
諸史料は秋山勘解由の財産ではなく、産女の私財と強調していること。
・天文元年(1532年)という年号
Web検索していくと、「おんめさま 産女(うぶめ)伝説 (私説)」という記事がみつかりました。
秋山姓は甲斐発祥の甲斐源氏で、のちに武田二十四将の秋山伯耆守虎繁(信友)を生んでいます。
そして、天文三年(1534年)には武田信玄の正室・上杉の方(上杉朝興の息女)が難産で逝去しています。
上の記事では、私説として「おんめさま」と上杉の方との関係を示唆しています。
そこで筆者の想像も含めて整理してみます。
秋山氏は甲斐源氏・加賀美遠光の嫡男・光朝を祖とし、巨摩郡秋山を領しました。
秋山光朝は上京して平重盛に仕え、重盛の息女(六女・茂子)を室としたといいます。
平家滅亡後に甲斐に戻りますが、一時平家に使えていたことで頼朝公にうとまれ、居城雨鳴城を攻められ自害、あるいは鎌倉で暗殺されたともいいます。
しかし子孫は存続し、同族の甲斐武田氏に属しました。
武田家の重臣であった秋山伯耆守虎繁は大永七年(1527年)の生まれですから、上杉朝興の息女が武田晴信(信玄公)に嫁いだ天文二年(1533年)には一族の誰かが上杉の方の甲斐での後見役ないし世話役に任ぜられた可能性もあるのでは。
話が飛びますが戦国末期、穴山信君は甲斐源氏で武田家臣の秋山越前守虎康の息女を養女とし、この養女は天正十年(1582年)、信君が織田・徳川氏に臣従した際に徳川家康公の側室となりました。(下山殿/お都摩の方)
下山殿は天正十一年(1583年)、家康公の五男・万千代君(武田信吉公)を出産。
信吉公は下総小金城3万石~下総佐倉城10万石と移り、佐竹氏に替わって水戸25万石の太守となり、旧武田遺臣を付けられて武田氏を再興するやにみえましたが、慶長八年(1603年)21歳で死去し武田氏再興はなりませんでした。
下山殿は天正十九年(1591年)下総国小金にて早逝。平賀の日蓮宗の名刹・長谷山 本土寺に葬られました。
また、下山殿の実父(武田信吉公の実祖父)・秋山虎康は松戸市大橋の地に止住し、慶長元年(1596年)に了修山 本源寺を開山しているのでおそらく日蓮宗信徒です。
下山殿の「下山」は身延町下山から称したといいます。
『穴山氏とその支配構造』/町田是正氏(PDF)には「(秋山氏の祖)秋山太郎光朝の末の下山氏の住する処で(中略)『日蓮聖人遺文』にも下山氏の存在が記される所」とあり、下山殿の実家の秋山氏は、京よりはやくに讃岐に日蓮宗を伝えた(→ビジネス香川)ともいいますから、そんなこともあって日蓮宗寺院と秋山氏は結びつきやすかったのかもしれません。
さすがに話が飛びすぎました。
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信玄公の正室を三条の方(左大臣・三条公頼の次女)とする資料もありますが、正式には継室で、正室は上杉の方です。
上杉の方が嫁いだとき信玄公はわずか13歳で、上杉の方も同年代といいます。
天文三年(1534年)に出産の折、年若い上杉の方は難産であえなく逝去されました。
その頃、上杉の方の父・上杉朝興は扇谷上杉家の家督を嫡男・朝定に譲ったものの川越城に依り、相模国に盛んに兵を出しています。
年若くして難産で世を去った息女の供養は、父親としてごく自然な感情です。
しかし、当時の扇谷上杉家は古河公方、関東管領(山内上杉家)、武田家、後北条家、越後長尾家などとすこぶるデリケートな関係にあり、政略結婚で命を落とした娘の供養を、(娘に仕えていた)秋山勘解由の妻に託したという想像もあるいは許されるかもしれません。
また、秋山勘解由の在所は大倉(大蔵)で旧・大蔵幕府の跡、かつては幕政の中心地で官吏なども住んでいたと思われます。
上杉朝興は扇谷上杉家で関東管領ではないですが、関東管領(山内上杉家)に比肩する勢力をもち、その家人や与力衆はこの辺に住んでいたかもしれません。
勘解由の名も官吏・文官的な性格をイメージさせます。
このような背景から「おんめさま 産女(うぶめ)伝説 (私説)」は、「彼女(上杉の方)に仕えていた秋山勘解由の妻は、葬儀を終えて鎌倉の大倉に帰って来た。彼女の死後1年を過ぎて、自宅近くの寺に彼女を弔った。傷心の上杉朝興(46歳)は、彼女を通じて寺に寄進をし、娘の菩提を弔う秋山勘解由の心遣いを喜んだ。」という私説を展開されているのでは。
なお、大巧寺と上杉の方・上杉朝興の関係を示唆する史料は見当たらないので、上の内容はあくまでも想像で、お寺の紹介としてはいささか飛躍が過ぎたかもしれません。
いずれにしても、大巧寺は寺院が集まる鎌倉市内でも「安産祈願」という格別のご利益をもって広く信仰を集めていることは間違いありません。
寺宝で、産女霊神神骨を収めるという宝塔(水晶五輪塔)は、旧本山の妙本寺に預けられていましたが、平成23年に返却されて以降、当山にて格護されています。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
大巧寺
大巧寺は、小町の西頰にあり。相伝、昔は長慶山正覺院大行寺と号し、真言宗にて、梶原屋敷の内にあり。後に大巧寺と改め、此地に移すとなり。梶原屋敷の條下に詳なり。昔し日蓮、妙本寺在世の時、此寺法華宗となり、九老僧日澄上人を開山とし、妙本寺の院家になれり。(略)
産女寶塔
堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女寶塔と云事は、相伝ふ、当寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋の脇より、産女の幽魂出て、日棟に逢、廻向に預て苦患を免れ度由を云。日棟これが為に廻向す。産女、䞋金一包を捧て謝す。日棟これを受て其為に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱の跡と云て今尚存す。夷堂橋の小北なり。
寺宝
曼荼羅 三幅 共に日蓮の筆。
無邊行菩薩名号 日蓮筆。
日蓮消息 壱幅
曼荼羅 壱幅 日朗筆。
舎利塔 壱基 五重の玉塔なり。
濱名石塔 北條氏政の家臣、濱名豊後守時成、法名妙法、子息蓮眞、母儀妙節、三人の石塔なり。
番神堂 濱名時成建立すと云。
梶原屋敷 附大巧寺𦾔跡
梶原屋敷は五大堂の北方山際にあり。梶原平三景時が𦾔跡なり。『東鑑』に、景時は正治二年(1200年)十二月十八日に、鎌倉を追出され、相模国一宮へ下る。彼家屋を破却して、永福寺の僧坊に寄附せらるとあり。頼家の時也。今此所に、大なる佛像の首ばかり、草庵に安置す。按ずるに『東鑑脱漏』に、安貞元年(1227年)四月二日、大慈寺の郭内に於て、二位家平政子第三年忌の為に。武州泰時、丈六堂を建らるとあり。此所大慈寺へ近ければ、疑らくは其丈六佛の首ならんか。又里老云、昔大行寺と云真言寺此所にあり。頼朝の祈願所にて、或は此寺にて、軍の評議して勝利を得られたり。故に大巧寺と改む。後に小町へ移し、日蓮宗となる。今の小町の長慶山大巧寺なりと、しかれども、『東鑑』等の記録に不見。按ずるに、五大堂を大行寺と号すれば、昔の大行寺の跡は、五大堂を云ならんか。不分明也。
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
大巧寺
長慶山正覺院ト号ス。法華宗 古大行寺ト号シ。真言宗ニテ。今唱フル。梶原屋敷ノ内ニアリ。頼朝ノ祈願所タリ。或時此寺ニテ。軍評定妙本寺大町村ニ在シ時。当寺住僧帰依シテ改宗シ。日證ヲ開山トシ。妙本寺ノ院家ニ属セリ。(略)
天正三年(1575年)二月。濱名豊後守時成。鎌倉能成分。六貫文ノ地ヲ寄附ス。(略)
本尊ハ三寶諸尊ヲ安ス。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿12』(国立公文書館デジタルアーカイブ)
蓮昌寺(小田原筋違橋町)
日蓮宗。鎌倉比企谷妙本寺末。妙珍山圓成院ト号ス。開山日澄。形善院ト號ス。九老ノ一、文保元年八月十日卒。傳云。文永十一年(1274年)五月。日蓮身延ヘ入山ノ時。憩ヒシ旧蹟ニテ。後ニ一寺トナル。開基濱名豊後守時成。寺傳云。宗祖身延入山ノ時。当所豊後守時成ノ館ニ投宿セリ。其時時成随喜シテ出家シ。妙音院日行ト号ス。永仁六年(1298年)二月五日。尾州熱田ニテ卒ス。一子アリ。祖母妙珍尼ニ養レ七歳にて出家ス。日澄ト号ス。即当寺開山ナリ。日澄其祖父蓮昌。祖母妙珍菩提ノ為。当寺ヲ開キ。即祖父母ノ法号ニヨリテ。寺山号ニ名けケシト云。今按スルニ豊後守時成ハ。北條氏政ニ仕ヘシ人ニテ。鎌倉小町大巧寺ノ檀那ナリ。天正三年(1575年)二月。大巧寺ニ時成寺領を寄附セシ券状。今ニ彼寺ニ傳フ。又同寺ニ墳アリ。法名妙法ト云。其子蓮真母妙節等ノ碑モアリ。然ルヲ時成日蓮ノ弟子トナリ。日澄ヲ其子トナスノ類。(以下略)
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
大巧寺
長慶山正覺院大巧寺と号する。日蓮宗系 単立宗教法人。もと妙本寺の院家。
開山、日澄。本尊、産女霊神。本堂・庫裏・山門・門あり。
産女宝塔は妙本寺に預けてある。
寺伝によると、大巧寺はもと大行寺と号した。真言宗の寺で十二所にあり、頼朝が軍の評議をしたところであるという。また日蓮が妙本寺にいたとき、時の住持が帰依して文永十一年(1274年)に改宗したという。(略)
産女様
当寺は俗におうめさまといい、安産のお守りを出す。これは五世日棟が産女の幽魂を鎮めたところから起こったといわれている。
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗系単立寺院
山号寺号 長慶山大巧寺
開山 日澄上人
初め「大行寺」という名でしたが、源頼朝がこの寺で行った軍評定(作戦会議)で大勝したので、「大巧寺」に改めるようになったと伝えられています。
室町時代の終わり頃、この寺の住職の日棟上人が、難産で死んだ秋山勘解由の妻を供養して成仏させました。その後、お産で苦しむ女性を守護するために、「産女霊神(うぶすめれいじん)」を本尊としてお祀りしました。
今も安産祈願の寺として、「おんめさま」の愛称で呼ばれ、多くの方が参詣されています。
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若宮大路と小町大路双方に接し、鎌倉駅からもっとも近い寺社のひとつです。
たいていの鎌倉ガイドに載っているので、観光客の参詣も多いとみられます。
【写真 上(左)】 若宮大路口
【写真 下(右)】 寺号標
若宮大路に面して整った石積みの参道とその奥に山門。
参道入口の「安産子育 産女霊神 長慶山大巧寺」の標石、そして参道の正中に据えられた石が目立ちます。
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 参道
山門は脇塀付切妻屋根銅板葺のおそらく四脚門で、渋い朱塗りが趣を添えています。
石畳の参道は、右手のビルの存在感はあるものの緑豊かで四季折々の花が咲くようです。
【写真 上(左)】 小町大路口
【写真 下(右)】 小町大路口のお題目塔
小町大路側からも参道が伸び、入口には寺号を配したお題目塔とその奥には門柱を置いています。
こちらからは本堂が正面で、本来の参道はこちら側かもしれません。
こちらの参道も緑豊かで、雑踏の鎌倉駅至近とは思えない落ち着いた空間です。
【写真 上(左)】 小町大路側の門柱
【写真 下(右)】 手水舎
山内に産女霊神、福子霊神の石の墓碑がありますが、写真は撮っておりません。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 向拝上部
本堂は入母屋造銅板棒葺流れ向拝で、向拝上に整った唐破風を置いています。
水引虹梁両端に獅子・獏(象かも)の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に二本の大瓶束と、その間に風格ある龍の彫刻を置いています。
彫刻の上段には笈形(おいがた)付大瓶束(たいへいづか)で、兎の毛通し&鬼板も配して見応えがあります。
向拝は桟の上に白壁(?)を置いた個性的な扉で、見上げの本蟇股とその上の三連の斗栱も存在感があります。
【写真 上(左)】 向拝中備
【写真 下(右)】 授与所
御首題・御朱印は本堂よこの授与所で拝受しましたが。Web情報によるとタイミングにより授与を休止されることもあるようです。
こちらの授与所では安産腹帯守が授与されています。
戌の日および大安の休日にはたいへん混雑するようです。
〔 大巧寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印
35.妙厳山 本覺寺(ほんがくじ)
日蓮宗公式Web
鎌倉市観光協会Web
鎌倉市小町1-12-12
日蓮宗
御本尊:三宝祖師(『鎌倉市史 社寺編』)
札所:鎌倉十三仏霊場第3番、鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)
司元別当:蛭子神社(鎌倉市小町)
本覺寺は小町にある日蓮宗の本山(由緒寺院)です。
身延山久遠寺の日蓮聖人の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれます。
鎌倉時代の初期、本覺寺の山門前の滑川にかかる端のたもとには「夷堂」と呼ばれる堂宇がありました。
鎌倉幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝公が幕府守護のために夷堂を創建したといいます。
もとは天台宗系でしたが、文永十一年(1274年)に佐渡配流から戻られた日蓮聖人が約40日間にわたって夷堂に滞在され、鎌倉幕府に対し三度目の諫暁をされたものの、受け入れられなかったためついに身延への隠棲を決められたと伝わります。
(この「夷堂」の詳細については、33.蛭子神社を参照願います。)
夷堂は、鎌倉幕府滅亡(正慶二年(1333年))の際に焼失したともいいますが、永享八年(1436年)この地にあった天台宗夷堂を、一乗房日出上人が日蓮宗に改め開創したのが本覺寺と伝わります。
鎌倉公方・足利持氏開基説もみられます。
永享八年(1436年)、日蓮宗の布教伝道で名高い一乗房日出上人が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ入られ、天台宗宝戒寺の僧・心海和尚と問答を繰り広げ(永享問答)、これをきっかけに騒動が起こったといいます。(永享法難)
Wikipediaには、「永享法難」をめぐる一乗房日出上人と本覺寺創建の由来が記されています。抜粋引用します。
---------(抜粋引用はじめ)
永享八年(1436年)、気鋭の布教伝道で名高い一乗房日出が常在山本覺寺(静岡県三島市)から鎌倉へ転出するも、足利持氏は弾圧処分を試みた。これに反発する信徒衆が荒居閻魔堂(現・新居山圓應寺)に集結し一触即発の状態になった。持氏はこの騒動が“鎌倉府討伐の口実”となる事を憂慮し処分を撤回。更に日出に対して日蓮の国家諌暁ゆかりの夷堂とその社領12000坪を寄進して法華寺院の建立を認めた。これが本覺寺創建の由来と伝えられている。
---------(抜粋引用おわり)
文安三年(1446年)に日出上人の弟子・行学院日朝上人が第2世として在寺され、15年ののちに身延山久遠寺第11世として入られ、身延山の再興を図られたといいます。
日朝上人は身延山への参詣が難しい老人や女性のために、身延山から日蓮聖人の遺骨を分骨して本覺寺に納めたため、以降当山は「東身延」とも称されました。
また、日朝上人は眼病救護の誓願を立てられたことから、当山は「日朝さま」とも呼ばれ鎌倉の庶民に親しまれました。
日蓮聖人の分骨の権威と、日朝上人の名声により、当山は鎌倉における日蓮宗の名刹の地位を確立し、後北条氏、豊臣氏、徳川氏から代々寺領を安堵され、塔頭末寺併せて10箇寺をもつ中本寺の格式を保ちました。
『新編鎌倉志』には「東三十三箇國、別して関八州の僧録」とあります。
僧録とは、僧侶の登録・住持の任免などの人事を統括した役職をいい、当山が大きな権威をもっていたことがうかがえます。
『鎌倉市史 社寺編』には「嘉永三年(1850年)の境内及び寺領の絵図があり、いまの市役所、市民座、駅前等を含む広い境内であったことがわかる。」とあるので、幕末の当山はすこぶる広大な寺領を有していたことがわかります。
開山七百年の節目にあたる昭和49年には日蓮宗本山(由緒寺院)に昇格し、いまも隆盛を保っています。
日蓮聖人ゆかりの夷堂は、山内鎮守の夷三郎社として祀られたといいますが、明治の神仏分離の際に蛭子神社に合祀されたといいます。
現在の八角形の夷堂は、昭和56年に建立されたものです。
名刹だけに文化財も豊富で、本堂安置の木造釈迦如来 、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊像は
南北朝時代の作で宋風のすぐれた作風を伝えるとされ、鎌倉市指定の文化財です。
墓域には、鎌倉の住人で名刀工の正宗の墓があります。
正月三が日の「初えびす」、正月10日の「本えびす」には商売繁盛を願う参詣者たちで賑わい、10月の人形供養も古都・鎌倉の風物詩とされます。
鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)、鎌倉十三仏霊場第3番(文殊菩薩)の札所で、巡拝客や観光客も多く訪れる鎌倉の名所です。
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【史料・資料】
■ 『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
本覺寺
妙厳山と号す。身延山の末寺なり。開山日出上人。永享年中(1429-1441年)に草創すと云伝。此寺は東國法華宗の小本寺也。当寺三世日燿へ、日朝より書を遺して曰、総じて東三十三箇國、別して関八州の僧録に任じ置事に候へば、萬端制法肝要に候と云云。
う々、とありし由鎌倉志に見えたり、今此文書傳はらず。日朝上人は、日出上人の弟子、当寺第二世なり。廿歳にして身延山に住す。身延山第十一祖なり。在住四十年。身延山の諸法式も此代に定む。此書も身延山より遺はすと云ふ。本尊は釋迦・文殊・普賢なり。(以下略)
■ 『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
本覺寺
妙厳山ト号ス。法華宗身延山久遠寺末。永享年中(1429-1441年)ノ草創ニシテ開山ヲ日出(武州ノ人ナリ。始ハ是性坊ト号シ。天台宗ナリシカ。身延山日延ニ帰依シテ改宗シ。一乗坊ト称ス。)ト云フ。
当寺ハ東國法華宗ノ小本寺ナリ。日朝(当寺二世。本寺十一世ナリ。)身延山ニ在シ時。当寺三世日燿ヘ贈リシ書ニ。総して東三十三箇國。別シテ関八州ノ僧録ニ。任シ置事ニ候ヘハ。萬端制法。肝要ニ候云々。トアリシ由。鎌倉志ニ見エタリ。今此文書伝ハラス。(略)
本尊三寶ヲ安ス。又釋迦文殊普賢ノ像アリ。元ノ本尊ト云。
寺寶
曼陀羅一幅。日蓮筆。
日蓮消息十通。
記録一巻。日出天台宗ト問答ノ時。執権某是非ヲ糾シ。又修法ノ怪異ニ驚キ。褒賞シテ。田園ヲ寄附スルノ由。日出ノ書ナリ。巻尾ニ永享八年(1436年)五月晦日トアリ。
古文書十通。其文前ニ註記ス。
■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
本覚寺
妙厳山と号する。日蓮宗。もと身延山久遠寺末中本寺。開山、一乗日出。永享八年(1436年)の創建と伝える。
本尊、三宝祖師。境内地二六一四坪。本堂・祖師分骨堂・客殿・庫裏・鐘楼・二王門・横門棟あり。
寺ではこの地は『吾妻鏡』にみえる夷堂の地であるという。そして日蓮は佐渡から帰ってここに留錫し、この地から身延に移った。夷堂はもと天台宗の寺であったといい、その本尊と伝える釈迦・文殊・普賢の像がある。日出が改宗して創建した。
二世日朝の書状に本覚寺大浄坊を関八州の僧録となすことがみえ東身延と称している。
俗に日朝様とよぶ。串川光明寺にある善宝寺寺池の図にみえる法華堂はここのことであろう。(略)
嘉永三年(1850年)の境内及び寺領の絵図があり、いまの市役所、市民座、駅前等を含む広い境内であったことがわかる。
『風土記稿』所蔵の絵図には、夷三郎社・番神堂・祖師分骨堂などもみえる。
なお境内の墓地には正宗の墓と伝えるものがある。
■ 山内掲示(鎌倉市)
宗派 日蓮宗
山号寺号 妙厳山本覚寺
建立 永享8年(1436)
開山 日出
本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。
この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。
原典:間宮士信 等編『新編相模国風土記稿』第4輯 鎌倉郡,鳥跡蟹行社,明17-21.国立国会図書館DC(保護期間満了)
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小町大路に接し、鎌倉駅からもっとも近い寺社のひとつです。
鎌倉市内の名所の位置づけで、観光客の参詣も多いとみられます。
「日蓮上人辻説法跡」にもほどちかいところです。
【写真 上(左)】 日蓮上人辻説法跡
【写真 下(右)】 夷堂橋から山門
【写真 上(左)】 山門
【写真 下(右)】 斜めからの山門
小町大路が滑川を渡る夷堂橋のたもとに山門(二王門)があります。
桟瓦葺の楼門。両脇間に二王尊を安する三間一戸の八脚門で、大寺の風格があります。
手前には台座に「東身延」とある大きなお題目塔。
【写真 上(左)】 山門前のお題目塔
【写真 下(右)】 夷堂
山門をくぐって右側に鎌倉・江ノ島七福神(恵比寿)である夷堂。
銅板葺の屋根上に相輪を置き、急傾斜でむくり気味の屋根の角部が向拝になっている変わった意匠で、宝形造とも思いますがよくわかりません。
向拝には「夷尊堂」の扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 夷堂の扁額
【写真 下(右)】 授与所と参道
【写真 上(左)】 客殿?
【写真 下(右)】 手水舎
参道を進むと左手が授与所と、その奥は庫裏と客殿でしょうか。
さらに行くと右手に虹梁、木鼻、斗栱、中備を備えた立派な手水舎。
手水鉢では剣に二軆の龍が巻き付いた、倶利迦羅剣のような吐水口から水が注がれています。
その奥手に均整のとれた鐘楼。
【写真 上(左)】 鐘楼
【写真 下(右)】 参道
【写真 上(左)】 本堂前
【写真 下(右)】 本堂
正面本堂の堂前に香炉、金灯籠、石灯籠と天水鉢。
本堂は基壇上に入母屋造桟瓦葺流れ向拝で、向拝上に軒唐破風をおこしています。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
向拝は三間で水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に繋ぎ虹梁、中備に三連の蟇股を置いています。
各所に菱格子、格子を配して引き締まったイメージの意匠です。
向拝見上げに各号扁額を掲げていますが、達筆すぎて読解できず。(常拝閣か/?)
【写真 上(左)】 本堂扁額
【写真 下(右)】 しあわせ地蔵尊
【写真 上(左)】 日蓮上人分骨堂
【写真 下(右)】 斜めからの分骨堂
本堂向かって右手奥にまわると、濡佛のしあわせ地蔵尊。
その奥には堂前に宝塔、香炉、石灯籠を配した日蓮上人分骨堂。
当山が「東身延」と呼ばれる由縁の重要な堂宇です。
桟瓦葺、二層の楼閣で、二層屋根の基盤上に宝珠。
堂回りに瑞垣をまわし、堂前は日蓮宗の宗紋「井桁橘」が刻まれた石扉で閉ざされています。
向拝の桟唐戸と両脇の花頭窓が、シンプルながら風格を感じさせます。
大寺ながら堂宇や山内佛がすくなく、明るくすっきりとして公園のような印象です。
【写真 上(左)】 路地からの脇門
【写真 下(右)】 脇門
若宮大路から小町大路に抜ける路地側にも山門があります。
脇塀付き切妻屋根桟瓦葺の四脚門で、脇門ながら風格があります。
門前にお題目塔と「一天四海皆妙法」の石碑。
【写真 上(左)】 脇門前のお題目
【写真 下(右)】 脇門前の石碑
御首題・御朱印は参道左手の授与所で拝受しました。
札所でもあるので、複数の御朱印を授与されています。
〔 本覺寺の御首題・御朱印 〕
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 日朝大上人の御朱印
【写真 上(左)】 夷神(鎌倉・江ノ島七福神)の御朱印
【写真 下(右)】 文殊菩薩(鎌倉十三仏霊場)の御朱印
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