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関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-4
■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-3からのつづきです。
※札所および記事リストは→ こちら。
『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。
■ 第9番 千葉山 薬師寺 西光院
(さいこういん)
足立区千住曙町27-1
新義真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(千住本)氷川神社(足立区千住)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第63番、荒綾八十八ヶ所霊場第82番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所
第9番は足立区千住曙町の西光院です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
西光院は徳治二年(1307年)に下総国千葉氏の創建、覺音法印の開山と伝わりますが、千葉氏庶流石出帯刀吉深の創建という説もあります。
千住本氷川神社 公式Webによると徳治二年(1307年)、牛田に(千住本)氷川神社とともに創建と伝わるとの由。
『江戸名所図会』には、千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝は下総國香取郡石出郷の領主で、別に牛田村も領し、永和二年(1376年)入道し宏明と号して牛田村に隠栖。その末裔の(石出帯刀)吉深も牛田村に隠栖して梵宇(密寺か?)をなして西光院と号したとあります。
整理すると、徳治二年(1307年)に下総国の千葉氏が覺音法印を開山に創建。(同時期に(千住本)氷川神社も創建。)
御本尊に千葉介常胤(1118-1201年)の守護佛で弘法大師の御作とも伝わる薬師如来(牛田薬師)を安しました。
永和二年(1376年)千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝(入道して宏明)が牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖。
石出帯刀吉深(1615-1689年)も先祖の胤朝にならい牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖、真言密寺として伽藍を整え西光院を号したとみられます。
千葉常胤(1118-1201年)は千葉氏第3代当主で、保元の乱(保元元年(1156年))に出陣し源義朝公麾下で戦いました。
治承四年(1180年)、伊豆国で挙兵した源頼朝公が石橋山の戦いに敗れ安房国へ渡ると安達盛長を使者として常胤に加勢を求め、常胤はこれに応じました。
頼朝公に鎌倉入りを勧めたのも常胤といいます。
頼朝公に従って武蔵国に入り、武蔵の豪族豊島清元・葛西清重父子とも良好な関係を結んだとされます。
富士川の戦いなどに参戦、頼朝軍主力として働き、寿永二年(1183年)、又従兄弟の上総介広常が頼朝公に誅殺された後も頼朝公の信任厚く、房総平氏の惣領の地位を得たといいます。
一ノ谷の戦いに参戦、豊後国で軍功を上げ、文治三年(1187年)洛中警護のため上洛。
文治五年(1190年)の奥州合戦では東海道方面の大将に任じられたとも。
諸戦の戦功で常胤は相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2ヶ国をはじめ、東北から九州にまで及ぶ全国20数ヶ所の広大な所領を得、屈指の有力御家人となりました。
建仁元年(1201年)3月逝去。
子孫は房総平氏として各地に拠り、千葉六党(ちばりくとう)とも呼ばれて大いに栄えました。
(以上「千葉氏の歴史」(千葉氏Web資料)などより)
つぎに石出帯刀吉深です。
中央区観光協会特派員ブログなどを参考に辿ってみます。
石出帯刀(いしでたてわき)とは個人名ではなく、江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官である囚獄(牢屋奉行)の世襲名です。
家禄は三百俵。格式は譜代の旗本といいます。
初代の石出帯刀(本田図書常政)は千葉介常胤の曾孫で、下総国香取郡石出(現・東庄町石出)を領した石出次郎胤朝の子孫と伝わります。
台東区元浅草の法慶山善慶寺は、初代帯刀の開基といいます。
当山の開基?ともされる石出帯刀吉深(1615-1689年)は、歴代でもっとも有名な石出帯刀として知られています。
明暦三年(1657年)1月、明暦の大火(振袖火事)の火勢は伝馬町牢屋敷にも迫りました。
牢屋敷を統括する石出帯刀吉深は、この大火から120人余(数百人とも)の囚人を救うために、必ず戻ることを条件に独断で「切り放ち」(期間を設けた囚人の解放)を行いました。
緊急時とはいえ、当時、幕府上層部に無断で囚人を解き放つことが、牢屋敷の長官である石出吉深にどういう咎をもたらすか、囚人たちにも容易に想像できたはずで、囚人たちは見送る吉深に合掌をしてから牢屋敷を出たといいます。
鎮火ののち、囚人たちはこの恩情に応えて、一人も欠くことなく牢屋敷に戻ってきたといいます。
吉深は「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れ」と称え、老中に囚人たちの罪一等の減刑を嘆願しました。
そしてみずからの越権行為を幕閣につぶさに報告し、覚悟して断罪を待ったといいます。
当時は幼い家綱公の治世。補佐役を務め、名宰領の誉れ高い保科正之の計らいにより、囚人全員の減刑を行い、吉深の罪も問われることはなかったといいます。
吉深の「切り放ち」はこれ以降制度として定められ、現行の刑事収容施設法にも影響を与えたとされます。
吉深は晩年関屋の里に隠棲して常軒と号しました。
歌人・連歌師としても知られ、当時の江戸の四大連歌師の一人に数えられます。
著作『所歴日記』は江戸初期の代表的紀行文とされ、隠棲後には源氏物語全巻の注釈全書『窺原抄』六十二巻を完成させるなど、当世一流の文化人でした。
国学に傾倒し、廣田坦斎・山鹿素行から伝授された忌部神道を、のちに垂加神道の創始者となる山崎闇斎に伝えたのも吉深といいます。
元禄二年(1689年)3月没。
当初は石出帯刀ゆかりの元浅草善慶寺に埋葬されましたが、のちに西光院に改葬されています。
西光院には吉深以下三代の墓碑と、吉深の実子でのちに囚獄を世襲した師深が建立した吉深の彰徳碑「日念碑」が残されています。
しかし、すみませぬ。
筆者参拝時にはこれほどの偉人との認識がうすく、碑は墓域にあることもあって「石出常軒の碑」の説明板の写真しか撮っておりません。
西光院は江戸期には(千住本)氷川神社の別当でした。
千住本氷川神社 公式Webには「明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築(中略)別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、現在に至る。」とありますが、この移築の経緯はよくわかりません。
御本尊は「牛田薬師」と称され、諸人の信仰を集めているようです。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 足立郡巻二』(国立国会図書館)
(千住町三町目)西光院
新義真言宗 本木村吉祥院門徒 千葉山ト号ス 本尊薬師ハ千葉介常胤ノ守護佛ナリト云 コノ寺域ハ常胤カ庶流石出帯刀吉深カ別業ヲ捨テ 開闢スル所ナリ 故ニ祖宗ノ守護佛ヲ安シ 又碑ヲタテ当寺草創ノ事跡及吉深カ世系行實ノ大概ヲ記ス
■ 『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
牛田薬師堂
牛田村にあり真言宗にて千葉山西光院と号く
徳治二年(1307年)当国の領主千葉氏の草創 開山を覺音法印といふ
本尊瑠璃光如来ハ弘法大師の作にて千葉介常胤崇尊の霊像なりと云
●●へて霊験著しく 石出氏吉深をよひ其子常英等殊に尊信し●●霊験を得たりといふ
相伝ふ千葉介常胤の末裔に同五郎胤朝といへる者あり 下総國香取郡石出といへる地に居住し石出日向守と唱ふ 此牛田村ハ胤朝別業の地なり
永和二年(1376年)入道して宏明と号し●に隠栖す 其末流●雪入道吉深に至りて此牛田村に遁れ住竟荘園の地を転して梵宇とし西光院と号くといふ(以下略)
■ 千住本氷川神社 公式Web
(徳治2年1307)に下総国千葉氏が、牛田に千葉山西光院と共に氷川社として創建されたと伝えられている。
江戸初期に現在地に千葉氏の一族であった。権の兵衛(小林氏)等、地主が土地奉納によって分社を建立した。明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築、この用地に鎮座の氷川柱を分社に合祀す、別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、共に現在に至る。
原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは東武スカイツリーライン「堀切」駅で徒歩約5分。
住所に「千住」がついているので北千住周辺かと思いきや、墨田区にも近い牛田~堀切辺です。
荒川と隅田川をつなぐ隅田水門にもほど近く、このあたりも治水上の要衝です。
民家と町工場が密集する下町らしい路地に面しています。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標
【写真 上(左)】 稲荷社
【写真 下(右)】 参道
山内入口は門柱でその左手前に院号標。正面に本堂が見えます。
参道左側の朱塗りの一間社はおそらく稲荷社で、当山鎮守かもしれません。
その左横の石碑は石出帯刀吉深関連かもしれませんが撮影し忘れました。
【写真 上(左)】 「石出常軒の碑」の説明板
【写真 下(右)】 天水鉢
本堂前の天水鉢には千葉氏の家紋である九曜紋。
山号が「千葉山」ということもあり、千葉氏との関連を色濃くのこします。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝。
おそらく近代建築ですが、向拝の二本の朱塗りの丸柱が意匠的に効いています。
スケール感のある向拝で見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 荒綾八十八ヶ所霊場の札所標
山内には荒綾八十八ヶ所霊場の札所標、庚申様の石佛や石碑があります。
庫裏にはご住職がいらっしゃいましたが、御朱印は不授与とのことでした。
もと別当を奉任した(千住本)氷川神社(足立区千住)の御朱印を掲載します。
〔 (千住本)氷川神社の御朱印 〕
■ 第10番 梅柳山 墨田院 木母寺
(もくぼじ)
公式Web
墨田区堤通2-16-1
天台宗
御本尊:慈恵大師(元三大師)
札所本尊:
司元別当:
他札所:閻魔三拾遺第27番、墨田区お寺めぐり第2番
第10番は墨田区堤通の木母寺です。
木母寺は江戸時代の隅田河畔の名所で、とりあげている史料は多数ありますが、公式Webをメインに適宜下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などで補足して縁起・沿革を追ってみます。
木母寺は天台僧・忠圓阿闍梨が平安中期の貞元元年(976年)に梅若丸の供養のために開山、当初は梅若寺(ばいにゃじ)隅田院を号したといいます。
文治五年(1189年)源頼朝公が奥州遠征の折に参拝し、長禄三年(1459年)には太田道灌が梅若塚を改修したと伝わります。
天正十八年(1590年)徳川家康公より梅柳山の山号を得、梅柳山梅若寺隅田院と号したとみられます。
慶長十二年(1607年)、前関白・近衛信尹卿参詣の折、柳の枝を折って筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」に分けて以来、現在の木母寺を号しました。
信尹卿は自筆の額を与え、この額は寺宝となっています。
江戸時代の当山は大いに栄え、山内には隅田川御殿が建てられ、徳川3代将軍家光公から8代吉宗公の治世まではの将軍鷹狩りや隅田川遊覧の際の御座所とされ、将軍に献上する御前栽畑もあるなど、徳川将軍家と深い関係にありました。
明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、梅若山王権現を改めて祀り梅若神社となり明治7年には村社に列しました。
明治21年、光円僧正が尽力されて仏寺として再興し、木母寺の号を復しました。
昭和20年戦災で諸伽藍を焼失したものの、戦後に復興をとげています。
昭和51年、東京防災拠点建設事業により南東に160mほど移転して現在に至ります。
『江戸切絵図』には、旧綾瀬川と隅田川の合流点、関屋あたりに「木母寺・梅若塚」がみえ、ずいぶんと北寄りにあったように思えますが、実際は東寄りの現・梅若公園(堤通2-6-10、都指定旧跡の「梅若塚」がある)あたりにあったとされています。
『江戸切絵図』の隅田川寄りに「水神」がみえますが、こちらは現・隅田川神社とみられます。
隅田川神社も旧地から南に100mの地に移転しており、隅田川神社の100m北あたりは、ちょうど梅若公園の隅田川寄りに当たりますから、やはり現在の梅若公園あたりが木母寺・梅若塚の旧地とみられます。
『すみだの史跡文化財散歩』(墨田区/PDF)のP.7-8にも「梅若公園はかつて、梅若神社々頭の地を児童公園にしたことに始まり」「(梅若)公園の中に『旧跡梅若塚』の標石が建っています。梅若伝説の発祥地がこの場所です。昭和51年に木母寺が移転した時に塚も移動しましたが、塚のあったこの場所は今でも《都指定旧跡》であり」と明記されています。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
伽藍は近代建築ですが、山内は句碑・歌碑の碑林をなし、墨東有数の文化財の地としても知られています。
【 梅若伝説 】
木母寺公式Webの『梅若権現縁起』、墨田区Web史料『梅若伝説』(PDF)などから追ってみます。
平安時代の中頃、京都北白川に吉田少将惟房卿とその妻で美濃国野上長者の一人娘・花御前の夫妻がおりました。
夫妻には子がなく、子の誕生を近江国坂本の日吉山王権現に祈願したところ、神託により梅若丸を授かりました。
梅若丸五歳のとき父・吉田少将はこの世を去り、梅若丸はわずか七歳で比叡山にのぼり月林寺で学問修行に励みました。
梅若丸はすこぶる才知に優れ、これほどの稚児はいないと賞賛されました。
東門院にも松若丸という評判の稚児がいましたが、彼を取り巻く山法師たちは梅若丸を妬んで排斥しました。
梅若丸は追われるように比叡山を下り、琵琶湖のほとり大津の浜で人買い商人の信夫藤太と出合います。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、梅若丸をかどわかして奥州へと旅立ちます。
原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)
その途中、梅若丸は隅田川のほとりで病に倒れ、信夫藤太は梅若丸を置き去りにして姿を消しました。
里人たちの介抱のかいもなく、自分の身の上を語ったのち、辞世の句をのこして梅若丸はその生涯を閉じました。
尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと
ときに貞元元年(976年)3月15日、梅若丸はわずか十二歳であったといいます。
その折、居あわせていた天台宗の高僧忠圓阿闍梨が里人と墓(梅若塚とも)をつくって柳を植えました。
山内掲示(梅若権現御縁起)より
花御前は、わが子が行方知れずとなった哀しみのあまり、狂女に身をやつし、わが子の行方を東国までも探し求めました。
当地に至り、隅田川の渡し守から梅若丸の死を知らされたのはちょうど一周忌の日だったといいます。
花御前が梅若塚の前で念仏を唱えると、亡きわが子の姿が現れるや、はかなくもその姿は消え去っていったとも。
忠圓阿闍梨はこの悲話を聞いて、梅若丸を弔う堂を築き、母の花御前(妙亀尼)はそこに住みつきましたが、ある日、対岸の鏡が池に身を投げてわが子の後を追いました。
すると不思議なことに霊亀が妙亀尼の遺体を乗せて浮かびあがってきました。
忠圓阿闍梨は妙亀尼の墓を建て、妙亀大明神として祀り、梅若丸も山王権現として祀られたということです。
この悲話は謡曲「隅田川」、浄瑠璃「隅田川」、長唄「八重霞賤機帯」などにうたわれ、戯作や小説にもなって多くの人に知られることとなります。
梅若伝説をモチーフとした浄瑠璃や歌舞伎の演目は「隅田川物(すみだがわもの)」と呼ばれて人気を博し、一ジャンルを築きました。
「隅田川物」の人気は、その舞台となった隅田川の岸辺に文人墨客が集まるきっかけになったともみられています。
「隅田川物」上演の際には、役者は梅若丸の供養と興行の成功、そして自身の芸道上達を祈念するため木母寺を詣でたとのことです。
また、日本古典芸能では狂女が繰り広げる演目を「狂女物」といいますが、「隅田川物」は代表的な「狂女物」としても知られています。
維新後も「隅田川物」の人気は高く、木母寺は参詣客で賑わっていたようです。
また、『ガイド』には比叡山延暦寺直末とあり、高い寺格を有することがわかります。
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【史料・資料】
■ 『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
梅柳山木母寺
隅田村堤のもとにあり隅田院と号す 天台宗にして東叡山に属す 本尊ハ五智如来なり
中にも阿彌陀如来の像ハ聖徳太子の作なりと云伝ふ
貞元年間(976-978年)忠圓阿闍梨当寺を草創す 天正十八年(1590年)台命あり依て梅柳山と号す
昔ハ梅若寺と呼びたりしを慶長十二年(1607年)近衛関白信尹公武蔵國に下りたまひし時 隅田河逍遙のゆくてに 当寺へ立ちよらせられ寺号を改むへにハいかにとありしに 寺僧応諾す 依木母寺の号を賜ひぬ(中略)
寛文の始 大樹此地に御遊猟の砌当寺を御建立ありて 新殿なと造らせたまひぬ
按に木母ハ梅の分字ならんされと(中略)
梅若丸塚
木母寺の境内にあり 塚上に小祠あり 梅若丸の霊を祠りて山王権現とす
縁起に梅若丸ハ山王権現の化現なのと云
後に柳を植て是を印の柳と号く
原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵」駅で徒歩約7分。
西側は隅田川、首都高と堤通り、東側は東白髭公園で人通りの少ないところです。
東白髭公園の向こうには、都営白髭東アパートが堤防のごとく建ち並びます。
【写真 上(左)】 東門
【写真 下(右)】 西門
徒歩だと東白髭公園側(東側)からのアプローチですが、車は一方通行の堤通り側からのみなので要注意です。
駐車場はありますが、夕刻には堤通り側(西側)の門扉が閉まるので閉門後は駐車できません。
本堂が東向きなので、表参道は東側の東白髭公園側かと思います。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は近代建築で、階段をのぼった2階が向拝、見上げに寺号扁額を掲げています。
御本尊は慈恵大師(元三大師)です。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 身がわり地蔵尊
【写真 上(左)】 梅若念仏堂と梅若塚
【写真 下(右)】 梅若念仏堂
本堂向かって右手のガラス貼りの覆屋のなかにある(おそらく)宝形造桟瓦葺の堂宇は「梅若念仏堂」です。
このお堂は、梅若丸の母・妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らに建立したお堂が基とされています。
毎年4月15日の梅若丸御命日には、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供」が勤行されます。
【写真 上(左)】 堂内のお像
【写真 下(右)】 梅若塚
「梅若念仏堂」の向かって左隣には梅若塚があります。
貞元元年(976年)梅若丸が亡くなった場所に、忠圓阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養したという塚です。
江戸時代には、梅若山王権現の霊地として信仰されていたといいます。
境内には浄瑠璃塚や歌曲「隅田川」の碑、高橋泥舟の筆になる落語家三遊亭円朝の建碑「三遊塚」、伊藤博文の揮毫による巨碑「天下之糸平の碑」、山岡鉄舟揮毫の石碑などが点在し、文化の香り高い山内です。
御朱印は本堂1階に書置が用意されています。
〔 木母寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊・元三大師の御朱印
【写真 下(右)】 梅若塚の御朱印
■ 墨田区お寺めぐり第2番のスタンプ
■ 第11番 宝珠山 理性院 如意輪寺
(にょいりんじ)
天台宗東京教区公式Web
墨田区吾妻橋1-22-14
天台宗
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:
司元別当:牛島太子堂(中之郷太子堂)
他札所:新葛西三十三観音霊場第2番、西三十三観音霊場第2番、墨田区お寺めぐり第20番
第11番は墨田区吾妻橋の如意輪寺です。
天台宗東京教区公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
如意輪寺は、嘉祥二年(849年)、比叡山四祖慈覚大師円仁(794-864年)が唐から帰国され、郷里の下野国大慈寺へ向かわれる途中、この地に聖徳太子自作(慈覚大師が感得されて彫刻とも)とされる太子像を堂宇(牛島太子堂・中之郷太子堂)に安置したのが草創といいます。
如意輪寺の位置づけは牛島太子堂の別当で、如意輪寺の御本尊は如意輪観世音菩薩でした。
『葛西志』には「本尊大師の本地如意輪観世音を安置す」とあります。
慈恵大師良源(元三大師)(912年-)は如意輪観世音菩薩の化身とされますから、「本尊大師」は元三大師をさしているのかもしれません。
ただし、当山が慈覚大師円仁の草創だとすると元三大師の御生誕前ですから、年代的に符合せずナゾが残ります。
『葛西志』によると当初は小梅村水戸家御蔵屋敷の辺(現・隅田公園)にあり、中の郷への移転時期は定かではないものの、寛文二年(1662年)刊行の『江戸名所記』に「中の郷太子堂」とあるので、寛文二年より前に小梅村から中の郷元町に移っていると解しています。
1849-1869年刊行の『江戸切絵図』にも、「中の郷」にその名がみえます。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
『江戸名所記』には文禄年中(1592-1595年)太子堂近くに光りが発し、弥陀三尊の種子を記した板碑が出土、これを供養するとその怪異は消えたとありますが、この板碑は現存していません。
池波正太郎の『鬼平犯科帳』(時代設定:天明七年(1787年)-寛政七年(1795年))では、「敵(かたき)」に如意輪寺の南の門前にある花屋が登場します。
「大滝の五郎蔵は、まっすぐに大川(隅田川)をわたって、本所、中ノ郷元町にある如意輪寺門前の花屋に入った。」とあり、このあたりの道行きはいまも変わりません。
なお、江戸時代は現・吾妻橋、東駒形辺を「中之郷(村)」といい、如意輪寺は「中之郷元町」にあったといいます。
明治維新までは上野寛永寺末、その後、成就寺(江戸川区逆井)末となりました。
大正12年の関東大震災で灰尽に帰し、区画整理によって現在地に移転したといいますが、中の郷元町は吾妻橋の東側で、現在地にほど近く近距離の移転とみられます。
おそらく関東大震災で牛島太子堂・太子像と如意輪観音像が失われています。
現在は如意輪寺の本堂(昭和32年建立)に、新たに勧請された如意輪観世音菩薩と中興のご住職が刻まれた孝養太子像が合祀されています。
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【史料・資料】
■ 『寺社書上 [121] 中ノ郷寺社書上 二止』(国立国会図書館)
本寺東叡山末
武州葛飾郡中之郷
天台宗 嘉桂山南光院成就寺末
同宗 宝珠山理性院如意輪寺
開闢起立 相知不●候
開山開基 相知不●候
中興開山開基 相知不●候
太子堂
聖徳太子立像 太子御自作●●候
聖徳太子前立 木立像
四天 木立像
不動明王 木立像
二童子 木立像
庚申 木立像
客殿
本尊 如意輪観世音 木佛
■ 『江戸名所図会 7巻 [18]』(国立国会図書館)
太子堂
同所(中郷)元町にあり天台宗如意輪寺に安置す本尊聖徳太子の像ハ十六歳にならせたまふ時自親造りたまふとなり 当寺ハ淳和天皇の嘉祥年間(848-851年)慈覚大師東國遊化の頃の創建にして帝百畝の水田を寄附したまふ 天文の頃(1532-1555年)此地祝融氏の災にかく●と雖も太子の霊像ハ自火焔を●●て出たまひて恙なりしより江戸名所(以下不詳)
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第1巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
太子堂
一道寺の南に隣れり、四間に二間半の塗屋の堂なり(中略)起立の年歴その詳なる事は伝へされとも、往古は今の小梅村水戸家御蔵屋敷の辺に有て、村開闢よりの堂なりといえば、古くよりのものなるは論なし。当所へ移りしその年歴は伝へざれども、寛文二年(1662年)梓行の江戸名所記に、中ノ郷太子堂をのせたれば、是よりさき移りしはしらる、同書に云、太子堂は、これ慈覚大師の建給ひしなり、その比太子の像を安置し給へり、此像は太子みづから作り給ふ所なり、数年を経て文禄年中(1592-1595年)此堂のほとりに、夜なゝ光りありければ、その地を堀たりければ、一ツの石塔を堀出す、石のおもてに彌陀三尊の種子あり、その下に文字ありとみえしきがきへて知がたし、文明二年(1470年)庚寅とあり、さのみ久しき石塔にはあらすと覺へ侍り。是を堀出して立置けるよりして、光物二度出ることなしと、これは太子にあづからさる事績なれど、𦾔地の一證となすへし。
別当如意輪寺
門を入て右の方に住居す、天台宗同所成就寺末、寶珠山理性院と号す、本尊大師の本地如意輪観世音を安置す。
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
如意輪寺
伝えられる創建年代はきわめて古く仁明天皇の代、嘉承二年(849年)八月に慈覚大師の創建とされる。天台宗で中之郷成就寺末であるが、神仏分離以前には牛島太子堂の別当寺となっていて太子堂の名称の方が広く知られていた。
牛島太子堂は中之郷太子堂ともいわれ慈覚大師の作になる聖徳太子の像を安置していたが、これは大師が関東修行中に作ってこの地に安置したものと伝えられ、一説には『江戸名所図会』が「本尊尊聖徳太子の像は十六歳にならせ給う時自親造り給うとなり」と延べているように、聖徳太子自身の作ともいわれている。
本尊は如意輪観世音の木像で、また水戸徳川家の臣雪斉の書になる「牛島聖徳太子」の石額および延宝六年(1678年)の六地蔵などが寺内にある。
原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[18],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約5分。
メトロ鉄銀座線・東武スカイツリーライン「浅草」駅からも徒歩10分程度で歩けます。
「浅草」駅から隅田川を吾妻橋で渡ってのアプローチの方が風情があるかもしれません。
「リバーピア吾妻橋」の東側の路地に面してあります。
対岸の浅草の殺到がうそのように、人通りが少なく落ち着いた一角です。
【写真 上(左)】 吾妻橋
【写真 下(右)】 山内入口
かつては門前町をなし、寺域560坪にも及ぶ大寺と伝わりますが、いまはこぢんまりとした山内です。
【写真 上(左)】 堂号標
【写真 下(右)】 寺号標
向かって右の門柱に「牛島太子堂」の堂号標、左には「如意輪寺」の寺号標。
すぐ正面が本堂です。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
昭和32年建立の本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝で、屋根に大ぶりな千鳥破風を押し立てて風格があります。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に縦長の変わった形状の蟇股を置いています。
向拝向かって右手に「牛島太子堂 南無聖徳太子」、左手に「本尊 如意輪観音菩薩」の幟をたて、太子堂と別当・如意輪寺双方を継承していることがわかります。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 二重扁額
向拝見上げに「牛嶋聖徳太子」の扁額、堂内に「寶珠山」の山号扁額を掲げて、二重扁額となっています。
【写真 上(左)】 六面六地蔵石幢
【写真 下(右)】 扁額
本堂向かって右手にある六面六地蔵石幢は墨田区の登録文化財に指定されています。
石幢とは、主に六角の角柱と笠、宝珠などから構成される石塔の一種です。
『すみだ文化財・データベース』Webでは「総高160 ㎝径40 ㎝(笠石及び蓮座の径)。如意輪寺の石幢は、周囲をくぼめた水盤の中央に蓮華座を置き、その上に六角の塔身が乗り、各面にはそれぞれ地蔵菩薩の名が刻まれ、像身が半肉彫されています。六地蔵の上には蓮弁状の笠石が乗りますが、宝珠は失われたものと考えられます。刻まれた銘文から、父母の菩提を弔うために造立されたと考えられます。」と解説されています。
御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。
〔 如意輪寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 平成28年拝受の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年拝受の御朱印
中央に如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」と「如意輪観音」の揮毫。
主印は三昧耶形(仏の印相や持物をもって、それぞれの仏を象徴的に表現するもの)を蓮華状に配置したものと思われますが、よくわかりません。
右上の印判は不明。
左下には「牛島太子堂」「如意輪寺」の揮毫と寺院印が捺されています。
令和6年拝受の御朱印には、なんと「葛西三十三所観音霊場 第二番」の札所印が捺されていました。
「葛西三十三ヶ所観音霊場」は元禄年間(1688-1704年)、浄清和尚が開創されたという葛西エリアの観音霊場で、のちに「新葛西三十三ヶ所観音霊場」として再興されていますが、情報がすくなくナゾの観音霊場です。
「新葛西三十三ヶ所観音霊場」の発願は(現)江戸川区平井の成就寺、結願は江東区亀戸の浄心寺で、如意輪寺は新旧いずれも第2番の札所となっています。
「葛西三十三ヶ所観音霊場」の札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
「新葛西三十三ヶ所観音霊場」の札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
下町エリアを代表する、如意輪観世音菩薩の御朱印です。
→ ■ 東京都区内の如意輪観音の御朱印
■ 墨田区お寺めぐり第20番のスタンプ
→ ■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5へつづきます。
※札所および記事リストは→ こちら。
【 BGM 】
■ ずっと二人で - BENI
■ ヒカリヘ - miwa
■ Let Go - 中村舞子
※札所および記事リストは→ こちら。
『荒川辺八十八ヵ所と隅田川二十一ヵ所霊場案内』(新田昭江氏著/1991年)を『ガイド』と略記し、適宜引用させていただきます。
■ 第9番 千葉山 薬師寺 西光院
(さいこういん)
足立区千住曙町27-1
新義真言宗
御本尊:薬師如来
札所本尊:
司元別当:(千住本)氷川神社(足立区千住)
他札所:荒川辺八十八ヶ所霊場第63番、荒綾八十八ヶ所霊場第82番、江戸薬師如来霊場三十二ヶ所
第9番は足立区千住曙町の西光院です。
下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
西光院は徳治二年(1307年)に下総国千葉氏の創建、覺音法印の開山と伝わりますが、千葉氏庶流石出帯刀吉深の創建という説もあります。
千住本氷川神社 公式Webによると徳治二年(1307年)、牛田に(千住本)氷川神社とともに創建と伝わるとの由。
『江戸名所図会』には、千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝は下総國香取郡石出郷の領主で、別に牛田村も領し、永和二年(1376年)入道し宏明と号して牛田村に隠栖。その末裔の(石出帯刀)吉深も牛田村に隠栖して梵宇(密寺か?)をなして西光院と号したとあります。
整理すると、徳治二年(1307年)に下総国の千葉氏が覺音法印を開山に創建。(同時期に(千住本)氷川神社も創建。)
御本尊に千葉介常胤(1118-1201年)の守護佛で弘法大師の御作とも伝わる薬師如来(牛田薬師)を安しました。
永和二年(1376年)千葉介常胤の末裔の千葉(石出)五郎日向守胤朝(入道して宏明)が牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖。
石出帯刀吉深(1615-1689年)も先祖の胤朝にならい牛田村(の牛田薬師堂)に隠栖、真言密寺として伽藍を整え西光院を号したとみられます。
千葉常胤(1118-1201年)は千葉氏第3代当主で、保元の乱(保元元年(1156年))に出陣し源義朝公麾下で戦いました。
治承四年(1180年)、伊豆国で挙兵した源頼朝公が石橋山の戦いに敗れ安房国へ渡ると安達盛長を使者として常胤に加勢を求め、常胤はこれに応じました。
頼朝公に鎌倉入りを勧めたのも常胤といいます。
頼朝公に従って武蔵国に入り、武蔵の豪族豊島清元・葛西清重父子とも良好な関係を結んだとされます。
富士川の戦いなどに参戦、頼朝軍主力として働き、寿永二年(1183年)、又従兄弟の上総介広常が頼朝公に誅殺された後も頼朝公の信任厚く、房総平氏の惣領の地位を得たといいます。
一ノ谷の戦いに参戦、豊後国で軍功を上げ、文治三年(1187年)洛中警護のため上洛。
文治五年(1190年)の奥州合戦では東海道方面の大将に任じられたとも。
諸戦の戦功で常胤は相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2ヶ国をはじめ、東北から九州にまで及ぶ全国20数ヶ所の広大な所領を得、屈指の有力御家人となりました。
建仁元年(1201年)3月逝去。
子孫は房総平氏として各地に拠り、千葉六党(ちばりくとう)とも呼ばれて大いに栄えました。
(以上「千葉氏の歴史」(千葉氏Web資料)などより)
つぎに石出帯刀吉深です。
中央区観光協会特派員ブログなどを参考に辿ってみます。
石出帯刀(いしでたてわき)とは個人名ではなく、江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官である囚獄(牢屋奉行)の世襲名です。
家禄は三百俵。格式は譜代の旗本といいます。
初代の石出帯刀(本田図書常政)は千葉介常胤の曾孫で、下総国香取郡石出(現・東庄町石出)を領した石出次郎胤朝の子孫と伝わります。
台東区元浅草の法慶山善慶寺は、初代帯刀の開基といいます。
当山の開基?ともされる石出帯刀吉深(1615-1689年)は、歴代でもっとも有名な石出帯刀として知られています。
明暦三年(1657年)1月、明暦の大火(振袖火事)の火勢は伝馬町牢屋敷にも迫りました。
牢屋敷を統括する石出帯刀吉深は、この大火から120人余(数百人とも)の囚人を救うために、必ず戻ることを条件に独断で「切り放ち」(期間を設けた囚人の解放)を行いました。
緊急時とはいえ、当時、幕府上層部に無断で囚人を解き放つことが、牢屋敷の長官である石出吉深にどういう咎をもたらすか、囚人たちにも容易に想像できたはずで、囚人たちは見送る吉深に合掌をしてから牢屋敷を出たといいます。
鎮火ののち、囚人たちはこの恩情に応えて、一人も欠くことなく牢屋敷に戻ってきたといいます。
吉深は「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れ」と称え、老中に囚人たちの罪一等の減刑を嘆願しました。
そしてみずからの越権行為を幕閣につぶさに報告し、覚悟して断罪を待ったといいます。
当時は幼い家綱公の治世。補佐役を務め、名宰領の誉れ高い保科正之の計らいにより、囚人全員の減刑を行い、吉深の罪も問われることはなかったといいます。
吉深の「切り放ち」はこれ以降制度として定められ、現行の刑事収容施設法にも影響を与えたとされます。
吉深は晩年関屋の里に隠棲して常軒と号しました。
歌人・連歌師としても知られ、当時の江戸の四大連歌師の一人に数えられます。
著作『所歴日記』は江戸初期の代表的紀行文とされ、隠棲後には源氏物語全巻の注釈全書『窺原抄』六十二巻を完成させるなど、当世一流の文化人でした。
国学に傾倒し、廣田坦斎・山鹿素行から伝授された忌部神道を、のちに垂加神道の創始者となる山崎闇斎に伝えたのも吉深といいます。
元禄二年(1689年)3月没。
当初は石出帯刀ゆかりの元浅草善慶寺に埋葬されましたが、のちに西光院に改葬されています。
西光院には吉深以下三代の墓碑と、吉深の実子でのちに囚獄を世襲した師深が建立した吉深の彰徳碑「日念碑」が残されています。
しかし、すみませぬ。
筆者参拝時にはこれほどの偉人との認識がうすく、碑は墓域にあることもあって「石出常軒の碑」の説明板の写真しか撮っておりません。
西光院は江戸期には(千住本)氷川神社の別当でした。
千住本氷川神社 公式Webには「明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築(中略)別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、現在に至る。」とありますが、この移築の経緯はよくわかりません。
御本尊は「牛田薬師」と称され、諸人の信仰を集めているようです。
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【史料・資料】
■ 『新編武蔵風土記稿 足立郡巻二』(国立国会図書館)
(千住町三町目)西光院
新義真言宗 本木村吉祥院門徒 千葉山ト号ス 本尊薬師ハ千葉介常胤ノ守護佛ナリト云 コノ寺域ハ常胤カ庶流石出帯刀吉深カ別業ヲ捨テ 開闢スル所ナリ 故ニ祖宗ノ守護佛ヲ安シ 又碑ヲタテ当寺草創ノ事跡及吉深カ世系行實ノ大概ヲ記ス
■ 『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
牛田薬師堂
牛田村にあり真言宗にて千葉山西光院と号く
徳治二年(1307年)当国の領主千葉氏の草創 開山を覺音法印といふ
本尊瑠璃光如来ハ弘法大師の作にて千葉介常胤崇尊の霊像なりと云
●●へて霊験著しく 石出氏吉深をよひ其子常英等殊に尊信し●●霊験を得たりといふ
相伝ふ千葉介常胤の末裔に同五郎胤朝といへる者あり 下総國香取郡石出といへる地に居住し石出日向守と唱ふ 此牛田村ハ胤朝別業の地なり
永和二年(1376年)入道して宏明と号し●に隠栖す 其末流●雪入道吉深に至りて此牛田村に遁れ住竟荘園の地を転して梵宇とし西光院と号くといふ(以下略)
■ 千住本氷川神社 公式Web
(徳治2年1307)に下総国千葉氏が、牛田に千葉山西光院と共に氷川社として創建されたと伝えられている。
江戸初期に現在地に千葉氏の一族であった。権の兵衛(小林氏)等、地主が土地奉納によって分社を建立した。明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築、この用地に鎮座の氷川柱を分社に合祀す、別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、共に現在に至る。
原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは東武スカイツリーライン「堀切」駅で徒歩約5分。
住所に「千住」がついているので北千住周辺かと思いきや、墨田区にも近い牛田~堀切辺です。
荒川と隅田川をつなぐ隅田水門にもほど近く、このあたりも治水上の要衝です。
民家と町工場が密集する下町らしい路地に面しています。
【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 院号標
【写真 上(左)】 稲荷社
【写真 下(右)】 参道
山内入口は門柱でその左手前に院号標。正面に本堂が見えます。
参道左側の朱塗りの一間社はおそらく稲荷社で、当山鎮守かもしれません。
その左横の石碑は石出帯刀吉深関連かもしれませんが撮影し忘れました。
【写真 上(左)】 「石出常軒の碑」の説明板
【写真 下(右)】 天水鉢
本堂前の天水鉢には千葉氏の家紋である九曜紋。
山号が「千葉山」ということもあり、千葉氏との関連を色濃くのこします。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は入母屋造銅板葺流れ向拝。
おそらく近代建築ですが、向拝の二本の朱塗りの丸柱が意匠的に効いています。
スケール感のある向拝で見上げに山号扁額を掲げています。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 荒綾八十八ヶ所霊場の札所標
山内には荒綾八十八ヶ所霊場の札所標、庚申様の石佛や石碑があります。
庫裏にはご住職がいらっしゃいましたが、御朱印は不授与とのことでした。
もと別当を奉任した(千住本)氷川神社(足立区千住)の御朱印を掲載します。
〔 (千住本)氷川神社の御朱印 〕
■ 第10番 梅柳山 墨田院 木母寺
(もくぼじ)
公式Web
墨田区堤通2-16-1
天台宗
御本尊:慈恵大師(元三大師)
札所本尊:
司元別当:
他札所:閻魔三拾遺第27番、墨田区お寺めぐり第2番
第10番は墨田区堤通の木母寺です。
木母寺は江戸時代の隅田河畔の名所で、とりあげている史料は多数ありますが、公式Webをメインに適宜下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などで補足して縁起・沿革を追ってみます。
木母寺は天台僧・忠圓阿闍梨が平安中期の貞元元年(976年)に梅若丸の供養のために開山、当初は梅若寺(ばいにゃじ)隅田院を号したといいます。
文治五年(1189年)源頼朝公が奥州遠征の折に参拝し、長禄三年(1459年)には太田道灌が梅若塚を改修したと伝わります。
天正十八年(1590年)徳川家康公より梅柳山の山号を得、梅柳山梅若寺隅田院と号したとみられます。
慶長十二年(1607年)、前関白・近衛信尹卿参詣の折、柳の枝を折って筆代わりに「梅」の異字体「栂」を「木」と「母」に分けて以来、現在の木母寺を号しました。
信尹卿は自筆の額を与え、この額は寺宝となっています。
江戸時代の当山は大いに栄え、山内には隅田川御殿が建てられ、徳川3代将軍家光公から8代吉宗公の治世まではの将軍鷹狩りや隅田川遊覧の際の御座所とされ、将軍に献上する御前栽畑もあるなど、徳川将軍家と深い関係にありました。
明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、梅若山王権現を改めて祀り梅若神社となり明治7年には村社に列しました。
明治21年、光円僧正が尽力されて仏寺として再興し、木母寺の号を復しました。
昭和20年戦災で諸伽藍を焼失したものの、戦後に復興をとげています。
昭和51年、東京防災拠点建設事業により南東に160mほど移転して現在に至ります。
『江戸切絵図』には、旧綾瀬川と隅田川の合流点、関屋あたりに「木母寺・梅若塚」がみえ、ずいぶんと北寄りにあったように思えますが、実際は東寄りの現・梅若公園(堤通2-6-10、都指定旧跡の「梅若塚」がある)あたりにあったとされています。
『江戸切絵図』の隅田川寄りに「水神」がみえますが、こちらは現・隅田川神社とみられます。
隅田川神社も旧地から南に100mの地に移転しており、隅田川神社の100m北あたりは、ちょうど梅若公園の隅田川寄りに当たりますから、やはり現在の梅若公園あたりが木母寺・梅若塚の旧地とみられます。
『すみだの史跡文化財散歩』(墨田区/PDF)のP.7-8にも「梅若公園はかつて、梅若神社々頭の地を児童公園にしたことに始まり」「(梅若)公園の中に『旧跡梅若塚』の標石が建っています。梅若伝説の発祥地がこの場所です。昭和51年に木母寺が移転した時に塚も移動しましたが、塚のあったこの場所は今でも《都指定旧跡》であり」と明記されています。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』隅田川向島絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
伽藍は近代建築ですが、山内は句碑・歌碑の碑林をなし、墨東有数の文化財の地としても知られています。
【 梅若伝説 】
木母寺公式Webの『梅若権現縁起』、墨田区Web史料『梅若伝説』(PDF)などから追ってみます。
平安時代の中頃、京都北白川に吉田少将惟房卿とその妻で美濃国野上長者の一人娘・花御前の夫妻がおりました。
夫妻には子がなく、子の誕生を近江国坂本の日吉山王権現に祈願したところ、神託により梅若丸を授かりました。
梅若丸五歳のとき父・吉田少将はこの世を去り、梅若丸はわずか七歳で比叡山にのぼり月林寺で学問修行に励みました。
梅若丸はすこぶる才知に優れ、これほどの稚児はいないと賞賛されました。
東門院にも松若丸という評判の稚児がいましたが、彼を取り巻く山法師たちは梅若丸を妬んで排斥しました。
梅若丸は追われるように比叡山を下り、琵琶湖のほとり大津の浜で人買い商人の信夫藤太と出合います。
信夫藤太は梅若丸を売り払おうと考え、梅若丸をかどわかして奥州へと旅立ちます。
原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836].国立国会図書館DC(保護期間満了)
その途中、梅若丸は隅田川のほとりで病に倒れ、信夫藤太は梅若丸を置き去りにして姿を消しました。
里人たちの介抱のかいもなく、自分の身の上を語ったのち、辞世の句をのこして梅若丸はその生涯を閉じました。
尋ね来て 問はば応へよ 都鳥 隅田川原の 露と消へぬと
ときに貞元元年(976年)3月15日、梅若丸はわずか十二歳であったといいます。
その折、居あわせていた天台宗の高僧忠圓阿闍梨が里人と墓(梅若塚とも)をつくって柳を植えました。
山内掲示(梅若権現御縁起)より
花御前は、わが子が行方知れずとなった哀しみのあまり、狂女に身をやつし、わが子の行方を東国までも探し求めました。
当地に至り、隅田川の渡し守から梅若丸の死を知らされたのはちょうど一周忌の日だったといいます。
花御前が梅若塚の前で念仏を唱えると、亡きわが子の姿が現れるや、はかなくもその姿は消え去っていったとも。
忠圓阿闍梨はこの悲話を聞いて、梅若丸を弔う堂を築き、母の花御前(妙亀尼)はそこに住みつきましたが、ある日、対岸の鏡が池に身を投げてわが子の後を追いました。
すると不思議なことに霊亀が妙亀尼の遺体を乗せて浮かびあがってきました。
忠圓阿闍梨は妙亀尼の墓を建て、妙亀大明神として祀り、梅若丸も山王権現として祀られたということです。
この悲話は謡曲「隅田川」、浄瑠璃「隅田川」、長唄「八重霞賤機帯」などにうたわれ、戯作や小説にもなって多くの人に知られることとなります。
梅若伝説をモチーフとした浄瑠璃や歌舞伎の演目は「隅田川物(すみだがわもの)」と呼ばれて人気を博し、一ジャンルを築きました。
「隅田川物」の人気は、その舞台となった隅田川の岸辺に文人墨客が集まるきっかけになったともみられています。
「隅田川物」上演の際には、役者は梅若丸の供養と興行の成功、そして自身の芸道上達を祈念するため木母寺を詣でたとのことです。
また、日本古典芸能では狂女が繰り広げる演目を「狂女物」といいますが、「隅田川物」は代表的な「狂女物」としても知られています。
維新後も「隅田川物」の人気は高く、木母寺は参詣客で賑わっていたようです。
また、『ガイド』には比叡山延暦寺直末とあり、高い寺格を有することがわかります。
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【史料・資料】
■ 『江戸名所図会 7巻』(国立国会図書館)
梅柳山木母寺
隅田村堤のもとにあり隅田院と号す 天台宗にして東叡山に属す 本尊ハ五智如来なり
中にも阿彌陀如来の像ハ聖徳太子の作なりと云伝ふ
貞元年間(976-978年)忠圓阿闍梨当寺を草創す 天正十八年(1590年)台命あり依て梅柳山と号す
昔ハ梅若寺と呼びたりしを慶長十二年(1607年)近衛関白信尹公武蔵國に下りたまひし時 隅田河逍遙のゆくてに 当寺へ立ちよらせられ寺号を改むへにハいかにとありしに 寺僧応諾す 依木母寺の号を賜ひぬ(中略)
寛文の始 大樹此地に御遊猟の砌当寺を御建立ありて 新殿なと造らせたまひぬ
按に木母ハ梅の分字ならんされと(中略)
梅若丸塚
木母寺の境内にあり 塚上に小祠あり 梅若丸の霊を祠りて山王権現とす
縁起に梅若丸ハ山王権現の化現なのと云
後に柳を植て是を印の柳と号く
原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[19],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵」駅で徒歩約7分。
西側は隅田川、首都高と堤通り、東側は東白髭公園で人通りの少ないところです。
東白髭公園の向こうには、都営白髭東アパートが堤防のごとく建ち並びます。
【写真 上(左)】 東門
【写真 下(右)】 西門
徒歩だと東白髭公園側(東側)からのアプローチですが、車は一方通行の堤通り側からのみなので要注意です。
駐車場はありますが、夕刻には堤通り側(西側)の門扉が閉まるので閉門後は駐車できません。
本堂が東向きなので、表参道は東側の東白髭公園側かと思います。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は近代建築で、階段をのぼった2階が向拝、見上げに寺号扁額を掲げています。
御本尊は慈恵大師(元三大師)です。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 身がわり地蔵尊
【写真 上(左)】 梅若念仏堂と梅若塚
【写真 下(右)】 梅若念仏堂
本堂向かって右手のガラス貼りの覆屋のなかにある(おそらく)宝形造桟瓦葺の堂宇は「梅若念仏堂」です。
このお堂は、梅若丸の母・妙亀大明神が梅若丸の死を悼んで墓の傍らに建立したお堂が基とされています。
毎年4月15日の梅若丸御命日には、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供」が勤行されます。
【写真 上(左)】 堂内のお像
【写真 下(右)】 梅若塚
「梅若念仏堂」の向かって左隣には梅若塚があります。
貞元元年(976年)梅若丸が亡くなった場所に、忠圓阿闍梨が墓石(塚)を築き、柳の木を植えて供養したという塚です。
江戸時代には、梅若山王権現の霊地として信仰されていたといいます。
境内には浄瑠璃塚や歌曲「隅田川」の碑、高橋泥舟の筆になる落語家三遊亭円朝の建碑「三遊塚」、伊藤博文の揮毫による巨碑「天下之糸平の碑」、山岡鉄舟揮毫の石碑などが点在し、文化の香り高い山内です。
御朱印は本堂1階に書置が用意されています。
〔 木母寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 御本尊・元三大師の御朱印
【写真 下(右)】 梅若塚の御朱印
■ 墨田区お寺めぐり第2番のスタンプ
■ 第11番 宝珠山 理性院 如意輪寺
(にょいりんじ)
天台宗東京教区公式Web
墨田区吾妻橋1-22-14
天台宗
御本尊:如意輪観世音菩薩
札所本尊:
司元別当:牛島太子堂(中之郷太子堂)
他札所:新葛西三十三観音霊場第2番、西三十三観音霊場第2番、墨田区お寺めぐり第20番
第11番は墨田区吾妻橋の如意輪寺です。
天台宗東京教区公式Web、下記史(資)料、山内掲示、『ガイド』などから縁起・沿革を追ってみます。
如意輪寺は、嘉祥二年(849年)、比叡山四祖慈覚大師円仁(794-864年)が唐から帰国され、郷里の下野国大慈寺へ向かわれる途中、この地に聖徳太子自作(慈覚大師が感得されて彫刻とも)とされる太子像を堂宇(牛島太子堂・中之郷太子堂)に安置したのが草創といいます。
如意輪寺の位置づけは牛島太子堂の別当で、如意輪寺の御本尊は如意輪観世音菩薩でした。
『葛西志』には「本尊大師の本地如意輪観世音を安置す」とあります。
慈恵大師良源(元三大師)(912年-)は如意輪観世音菩薩の化身とされますから、「本尊大師」は元三大師をさしているのかもしれません。
ただし、当山が慈覚大師円仁の草創だとすると元三大師の御生誕前ですから、年代的に符合せずナゾが残ります。
『葛西志』によると当初は小梅村水戸家御蔵屋敷の辺(現・隅田公園)にあり、中の郷への移転時期は定かではないものの、寛文二年(1662年)刊行の『江戸名所記』に「中の郷太子堂」とあるので、寛文二年より前に小梅村から中の郷元町に移っていると解しています。
1849-1869年刊行の『江戸切絵図』にも、「中の郷」にその名がみえます。
原典:景山致恭,戸松昌訓,井山能知//編『〔江戸切絵図〕』本所絵図,尾張屋清七,嘉永2-文久2(1849-1862)刊. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
『江戸名所記』には文禄年中(1592-1595年)太子堂近くに光りが発し、弥陀三尊の種子を記した板碑が出土、これを供養するとその怪異は消えたとありますが、この板碑は現存していません。
池波正太郎の『鬼平犯科帳』(時代設定:天明七年(1787年)-寛政七年(1795年))では、「敵(かたき)」に如意輪寺の南の門前にある花屋が登場します。
「大滝の五郎蔵は、まっすぐに大川(隅田川)をわたって、本所、中ノ郷元町にある如意輪寺門前の花屋に入った。」とあり、このあたりの道行きはいまも変わりません。
なお、江戸時代は現・吾妻橋、東駒形辺を「中之郷(村)」といい、如意輪寺は「中之郷元町」にあったといいます。
明治維新までは上野寛永寺末、その後、成就寺(江戸川区逆井)末となりました。
大正12年の関東大震災で灰尽に帰し、区画整理によって現在地に移転したといいますが、中の郷元町は吾妻橋の東側で、現在地にほど近く近距離の移転とみられます。
おそらく関東大震災で牛島太子堂・太子像と如意輪観音像が失われています。
現在は如意輪寺の本堂(昭和32年建立)に、新たに勧請された如意輪観世音菩薩と中興のご住職が刻まれた孝養太子像が合祀されています。
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【史料・資料】
■ 『寺社書上 [121] 中ノ郷寺社書上 二止』(国立国会図書館)
本寺東叡山末
武州葛飾郡中之郷
天台宗 嘉桂山南光院成就寺末
同宗 宝珠山理性院如意輪寺
開闢起立 相知不●候
開山開基 相知不●候
中興開山開基 相知不●候
太子堂
聖徳太子立像 太子御自作●●候
聖徳太子前立 木立像
四天 木立像
不動明王 木立像
二童子 木立像
庚申 木立像
客殿
本尊 如意輪観世音 木佛
■ 『江戸名所図会 7巻 [18]』(国立国会図書館)
太子堂
同所(中郷)元町にあり天台宗如意輪寺に安置す本尊聖徳太子の像ハ十六歳にならせたまふ時自親造りたまふとなり 当寺ハ淳和天皇の嘉祥年間(848-851年)慈覚大師東國遊化の頃の創建にして帝百畝の水田を寄附したまふ 天文の頃(1532-1555年)此地祝融氏の災にかく●と雖も太子の霊像ハ自火焔を●●て出たまひて恙なりしより江戸名所(以下不詳)
■ 『葛西志 : 東京地誌史料 第1巻』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
太子堂
一道寺の南に隣れり、四間に二間半の塗屋の堂なり(中略)起立の年歴その詳なる事は伝へされとも、往古は今の小梅村水戸家御蔵屋敷の辺に有て、村開闢よりの堂なりといえば、古くよりのものなるは論なし。当所へ移りしその年歴は伝へざれども、寛文二年(1662年)梓行の江戸名所記に、中ノ郷太子堂をのせたれば、是よりさき移りしはしらる、同書に云、太子堂は、これ慈覚大師の建給ひしなり、その比太子の像を安置し給へり、此像は太子みづから作り給ふ所なり、数年を経て文禄年中(1592-1595年)此堂のほとりに、夜なゝ光りありければ、その地を堀たりければ、一ツの石塔を堀出す、石のおもてに彌陀三尊の種子あり、その下に文字ありとみえしきがきへて知がたし、文明二年(1470年)庚寅とあり、さのみ久しき石塔にはあらすと覺へ侍り。是を堀出して立置けるよりして、光物二度出ることなしと、これは太子にあづからさる事績なれど、𦾔地の一證となすへし。
別当如意輪寺
門を入て右の方に住居す、天台宗同所成就寺末、寶珠山理性院と号す、本尊大師の本地如意輪観世音を安置す。
■ 『墨田区史 本編』(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
如意輪寺
伝えられる創建年代はきわめて古く仁明天皇の代、嘉承二年(849年)八月に慈覚大師の創建とされる。天台宗で中之郷成就寺末であるが、神仏分離以前には牛島太子堂の別当寺となっていて太子堂の名称の方が広く知られていた。
牛島太子堂は中之郷太子堂ともいわれ慈覚大師の作になる聖徳太子の像を安置していたが、これは大師が関東修行中に作ってこの地に安置したものと伝えられ、一説には『江戸名所図会』が「本尊尊聖徳太子の像は十六歳にならせ給う時自親造り給うとなり」と延べているように、聖徳太子自身の作ともいわれている。
本尊は如意輪観世音の木像で、また水戸徳川家の臣雪斉の書になる「牛島聖徳太子」の石額および延宝六年(1678年)の六地蔵などが寺内にある。
原典:松濤軒斎藤長秋 著 ほか『江戸名所図会 7巻』[18],須原屋茂兵衛[ほか],天保5-7 [1834-1836]. 国立国会図書館DC(保護期間満了)
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最寄りは都営地下鉄浅草線「本所吾妻橋」駅で徒歩約5分。
メトロ鉄銀座線・東武スカイツリーライン「浅草」駅からも徒歩10分程度で歩けます。
「浅草」駅から隅田川を吾妻橋で渡ってのアプローチの方が風情があるかもしれません。
「リバーピア吾妻橋」の東側の路地に面してあります。
対岸の浅草の殺到がうそのように、人通りが少なく落ち着いた一角です。
【写真 上(左)】 吾妻橋
【写真 下(右)】 山内入口
かつては門前町をなし、寺域560坪にも及ぶ大寺と伝わりますが、いまはこぢんまりとした山内です。
【写真 上(左)】 堂号標
【写真 下(右)】 寺号標
向かって右の門柱に「牛島太子堂」の堂号標、左には「如意輪寺」の寺号標。
すぐ正面が本堂です。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
昭和32年建立の本堂は入母屋造産瓦葺流れ向拝で、屋根に大ぶりな千鳥破風を押し立てて風格があります。
【写真 上(左)】 向拝-1
【写真 下(右)】 向拝-2
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に縦長の変わった形状の蟇股を置いています。
向拝向かって右手に「牛島太子堂 南無聖徳太子」、左手に「本尊 如意輪観音菩薩」の幟をたて、太子堂と別当・如意輪寺双方を継承していることがわかります。
【写真 上(左)】 扁額
【写真 下(右)】 二重扁額
向拝見上げに「牛嶋聖徳太子」の扁額、堂内に「寶珠山」の山号扁額を掲げて、二重扁額となっています。
【写真 上(左)】 六面六地蔵石幢
【写真 下(右)】 扁額
本堂向かって右手にある六面六地蔵石幢は墨田区の登録文化財に指定されています。
石幢とは、主に六角の角柱と笠、宝珠などから構成される石塔の一種です。
『すみだ文化財・データベース』Webでは「総高160 ㎝径40 ㎝(笠石及び蓮座の径)。如意輪寺の石幢は、周囲をくぼめた水盤の中央に蓮華座を置き、その上に六角の塔身が乗り、各面にはそれぞれ地蔵菩薩の名が刻まれ、像身が半肉彫されています。六地蔵の上には蓮弁状の笠石が乗りますが、宝珠は失われたものと考えられます。刻まれた銘文から、父母の菩提を弔うために造立されたと考えられます。」と解説されています。
御朱印は本堂向かって左側の庫裏にて拝受しました。
〔 如意輪寺の御朱印 〕
【写真 上(左)】 平成28年拝受の御朱印
【写真 下(右)】 令和6年拝受の御朱印
中央に如意輪観世音菩薩のお種子「キリーク」と「如意輪観音」の揮毫。
主印は三昧耶形(仏の印相や持物をもって、それぞれの仏を象徴的に表現するもの)を蓮華状に配置したものと思われますが、よくわかりません。
右上の印判は不明。
左下には「牛島太子堂」「如意輪寺」の揮毫と寺院印が捺されています。
令和6年拝受の御朱印には、なんと「葛西三十三所観音霊場 第二番」の札所印が捺されていました。
「葛西三十三ヶ所観音霊場」は元禄年間(1688-1704年)、浄清和尚が開創されたという葛西エリアの観音霊場で、のちに「新葛西三十三ヶ所観音霊場」として再興されていますが、情報がすくなくナゾの観音霊場です。
「新葛西三十三ヶ所観音霊場」の発願は(現)江戸川区平井の成就寺、結願は江東区亀戸の浄心寺で、如意輪寺は新旧いずれも第2番の札所となっています。
「葛西三十三ヶ所観音霊場」の札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
「新葛西三十三ヶ所観音霊場」の札所リスト(「ニッポンの霊場」様)
下町エリアを代表する、如意輪観世音菩薩の御朱印です。
→ ■ 東京都区内の如意輪観音の御朱印
■ 墨田区お寺めぐり第20番のスタンプ
→ ■ 隅田川二十一ヶ所霊場の御朱印-5へつづきます。
※札所および記事リストは→ こちら。
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