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■ 鎌倉市の御朱印-20 (C.極楽寺口-3)

■ 鎌倉市の御朱印-1 (導入編)
■ 同-2 (A.朝夷奈口)
■ 同-3 (A.朝夷奈口)
■ 同-4 (A.朝夷奈口)
■ 同-5 (A.朝夷奈口)
■ 同-6 (B.名越口-1)
■ 同-7 (B.名越口-2)
■ 同-8 (B.名越口-3)
■ 同-9 (B.名越口-4)
■ 同-10 (B.名越口-5)
■ 同-11 (B.名越口-6)
■ 同-12 (B.名越口-7)
■ 同-13 (B.名越口-8)
■ 同-14 (B.名越口-9)
■ 同-15 (B.名越口-10)
■ 同-16 (B.名越口-11)
■ 同-17 (B.名越口-12)
■ 同-18 (C.極楽寺口-1)
■ 同-19 (C.極楽寺口-2)から。


55.四条山 収玄寺(しゅうげんじ)
鎌倉公式観光ガイドWeb

鎌倉市長谷2-15-12
日蓮宗
御本尊:日蓮聖人・四条金吾夫妻(『鎌倉市史 社寺編』)
司元別当:
札所:

収玄寺は、「龍口法難」ゆかりの日蓮宗寺院です。

鎌倉公式観光ガイドWeb、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

収玄寺は、鎌倉武士で日蓮聖人の有力檀越でもあった四条金吾頼基(1229-1296年)の屋敷跡に建てられたという日蓮宗寺院です。

四条金吾(左衛門尉)頼基は北条一族・名越(江間)家の執事で、建長五年(1253年)日蓮聖人に帰依して有力檀越となりました。

鎌倉幕府第2代執権・北条義時公次男の朝時は名越(なごえ)氏を称し、朝時の嫡男、光時は江間氏を称しました。

寛元四年(1246年)第4代執権北条経時公が早世すると、光時は前将軍藤原頼経卿と共謀して新執権の時頼公を廃する謀反を企図して発覚しました。これを宮騒動といいます。
光時は義時公の孫であり、自身の出自に矜持を抱いていたといわれます。

しかし頼経・光時一派は敗北、光時は出家して降伏し、所領を没収されて伊豆國江間郷へ配流となり江間氏を称しました。

四条金吾は名越朝時、江間光時の執事だったといいます。

Wikipediaによると、四条金吾は建長五年(1253年)から日蓮聖人の説法に深く帰依し、文永八年(1271年)の龍口法難では日蓮聖人への殉死を覚悟したとも。

文永八年(1271年)9月12日、鎌倉幕府は幕府や諸宗を批判したとの咎で松葉ヶ谷の草庵で日蓮聖人を捕縛連行して佐渡國への流罪を申し渡しました。
9月13日子丑の刻、日蓮聖人は申し渡しに相違して、鎌倉口の頸の座(現・龍ノ口)に引き出され、あわや斬首の危機を迎えましたが、「不思議の奇瑞」により難を遁れられたと伝わります。(龍口法難)

その後、日蓮聖人は愛甲郡依智郷(現・厚木市)の佐渡守護代・本間六郎左衛門重連の館に移送され、一ヶ月後に佐渡に配流となりました。

龍口法難の際、日朗上人をはじめとする日蓮聖人の弟子達も迫害を受け、四条金吾は日朗上人とともに幕臣・宿屋光則邸の土牢に押し込められたと伝わります。

その後四条金吾は赦されて、現在の収玄寺にあったという屋敷に住み、主君江間光時に仕えていたといいます。(光則寺を四条金吾の屋敷跡とする資料もみられます。)

日蓮聖人の代表著作『開目抄』は佐渡から四条金吾に送られ、門下に広められたとも。

日蓮宗Web資料には、甲斐身延の内船寺は四条金吾が建治三年(1277年)、内船の邸内に三間四面の持仏堂を建立したのが草創とあります。

同資料によると、四条金吾は夫婦そろって篤く日蓮聖人に帰依し、鎌倉では「法華宗の四条金吾」と名高く、常に日蓮聖人の庇護につとめていたと伝わります。
医薬の道にも通じ、主君江間光時の大病を平癒させた功によって身延内船の地を与えられたといいます。

日蓮聖人の晩年の看護もつとめ、日蓮聖人入滅後は内船に住んで身延の祖師の霊廟に仕えたといいます。
四条金吾は、これらの業績から日蓮聖人四大檀越の一人として数えられます。
なお、日蓮聖人四大檀越とは四条金吾、富木常忍、池上兄弟(宗仲、宗長)をさすようです。

正安二年(1300年)3月、71歳(文仁四年(1296年)、67歳とも)で没し、室の日眼女は嘉元元年(1303年)3月に亡くなり、夫妻の廟石はいまも内船寺山内にあって、夫妻の木像が寺宝として収蔵されています。


【写真 上(左)】 内船寺
【写真 下(右)】 内船寺の御首題

身延東谷の端場坊(はばのぼう)も四条金吾の開基といいます。

端場坊公式Webには、日蓮聖人佐渡御配流の折には、四条金吾みずからが佐渡を訪れたとあり、弘安三年(1280年)日蓮聖人のお側近くでお給仕するために庵を構えたのが創始とあります。

また、「(四条金吾)は日蓮聖人の主治医」とあり、「日蓮聖人の信頼もことに篤く『身のことは一切あなたにお任せし、他の薬は用いない』とまで仰せられました。」と掲載され、日蓮聖人の信任の篤さがうかがわれます。
日蓮聖人はまた、金吾夫婦の子を月満御前と命名されたともいいます。

御草庵と端場坊の位置関係


【写真 上(左)】 端場坊
【写真 下(右)】 端場坊の御首題

天保十二年(1841年)成立の『新編相模國風土記稿』の「四條金吾頼基宅蹟」條には「今田畝となる」(=寺院はない)とありますが、複数の資料に収玄庵創立は文永年間(1818-1830年)と考えられるとあるので、ぎりぎりで掲載が間に合わなかったのでは。

文永年間(1818-1830年)に妙詣尼が四条金吾の法名・収玄院日頼上人から収玄庵と号した堂宇を建立、明治初頭の廃仏毀釈で荒廃しましたが、大正期に収玄寺住職を兼務していた光則寺の日慈上人が再建し、後に収玄寺と改めたといいます。

山内には東郷平八郎元帥揮毫の「四條金吾邸址」と刻まれた石碑が建ち、花の寺としても知られています。
レファレンス共同データベースには、この邸址碑に関して「東郷平八郎は日蓮宗の信者でした。」とあります。

また、府中市の日蓮宗聖将山東郷寺の公式Webによると、「法華経に説かれる『仏子』の自覚を以て信仰を続けられた元帥は、自らの没後に法華経の道場を建立することと、寺号を『東郷寺』とする事を承諾」され、東郷元帥を開基として誕生とあります。
収玄寺も東郷元帥となんらかのゆかりがあって、この邸址碑が建立されたものと思われます。

大寺が並ぶ長谷エリアでは地味な寺院ですが、日蓮聖人四大檀越ゆかりの聖地として、熱心な信者の巡拝先になっているのかもしれません。


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【史料・資料】

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
四條金吾頼基宅蹟
入地に在り今田畝となる。頼基其父祖詳ならず、日蓮帰依の俗弟子たり
文永八年(1271年)九月日蓮既に擒となり由比濱に至り、童子熊王をして此由を頼基に告ぐ、頼基兄弟四人徒跣して馳到り、日蓮に謁し其場にて自殺せんと契約す(中略)
日朗も師と同罪たらんと望けれども、是も許されず、遂に頼基日朗等六人宿屋光則に預られ、土牢に入らる(中略)
十年(1273年)閏五月赦免あり 按ずるに是月日朗赦免あり、さては頼基等も赦免ありしなるべし今推考して記す
是より又当所に還住せしや、事蹟の伝ふるものなければ詳ならず

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
四条山収玄寺と号する。日蓮宗。もと光則寺末。
開山、未詳。
本尊、日蓮聖人・四条金吾夫妻
境内地131.16坪
本堂・庫裏・門あり
『(新編相模國)風土記稿』には、四条金吾頼基宅蹟として、今田畝となるとある。
もと妙詣尼のたてた収玄庵というお堂があったのを、大正十二年光則寺の三十一世日慈が本堂を再建、戦後寺としたという。

■ 山内掲示
四條金吾頼基公(北條氏の一族、江間光時の臣)
鎌倉時代 1229年(寛喜元年)生 - 1296年(文仁四年)没 67歳
宗祖日蓮聖人に篤く帰依し、聖人四大法難の一つである1271年(文永八年)の龍口法難の際には、殉死の覚悟を決して日蓮に随従した鎌倉武士、四條金吾頼基の屋敷跡。
聖人四大檀越の一人とされる。金吾の滅後、「捨身護法」「法華色読」の霊地として一寺が建立されたものである。文永年間(1818-1830年)の創立。
当所収玄庵と称したが、大正初期の本堂改築を機に寺号も収玄寺と改称した。


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江ノ電「長谷」駅から長谷寺~鎌倉大仏高徳院にかけては、平日も観光客で賑わう鎌倉きっての観光スポットで、収玄寺はそのメインロードに面していますが参詣者はさほど多くないのでは。

ただし、古民家カフェ「蕪珈琲」(カブラコーヒー)が山内にあるので、こちら目当てで参内する人はそれなりにいるかと思います。


【写真 上(左)】 山内入口
【写真 下(右)】 寺号板

県道に面して青銅葺の屋根を置いた冠木門を置き、門柱には寺号板、門の右手にお題目碑。
この冠木門がけっこう威圧的(?)で、観光客の乱入(笑)を防いでいる感じがあります。

門の左手奥に建つ「四條金吾邸址」の石碑は東郷平八郎元帥の揮毫になるもの。
別に「四條金吾屋鋪」の石碑もあります。


【写真 上(左)】 お題目碑
【写真 下(右)】 東郷平八郎元帥揮毫の邸址碑


【写真 上(左)】 「四條金吾屋鋪」の石碑
【写真 下(右)】 山内

山内はこぢんまりとしていますが、緑濃く落ち着いた風情があります。


【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝


【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 庵号扁額

青銅板本瓦棒葺の本堂は、おそらく宝形造流れ向拝と思われます。
水引虹梁両端に雲形の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置き、桟扉の上に庵号の扁額を掲げています。
シンプルシックに整ったいい向拝です。


庫裏にて御首題と御朱印を授与いただきました。


〔 収玄寺の御首題・御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 御首題
【写真 下(右)】 御朱印


56.御霊神社(ごりょうじんじゃ)
鎌倉公式観光ガイドWeb
神奈川県神社庁Web

鎌倉市坂の下3-17
主祭神:鎌倉権五郎景政公
旧社格:村社、坂ノ下区鎮守
元別当:成就院(鎌倉市極楽寺、真言宗大覚寺末)
札所:鎌倉・江ノ島七福神(福禄寿)

御霊神社は権五郎神社(ごんごろうじんじゃ)とも呼ばれます。
紫陽花の名所で、花の時季には多くの参拝客で賑わいます。

鎌倉公式観光ガイドWeb神奈川県神社庁Web、下記史料・資料などから縁起沿革を追ってみます。

神奈川県神社庁Webによると、当社の御祭神は鎌倉権五郎景政(景正)公で、平安末期には存立していたものと掲載されています。

しかし、『新編鎌倉志』『鎌倉攬勝考』『新編相模國風土記稿』などにはそれぞれ異説が掲載され、複雑な由緒をもたれる可能性があります。
それぞれの掲載概要は以下のとおりです。

『新編鎌倉志』
社号:御霊宮
御祭神:鎌倉権五郎景政
勧請・御遷座関連:梶原村の御霊宮を当地にも勧請

『鎌倉攬勝考』(「五霊ノ社」の項)
社号:五霊ノ社
御祭神:権五郎景政と【保元物語】にあるが「其事のたがへるしはれ有。次第は葛原ヶ岡の條にしるせり。」
勧請・御遷座関連:もと梶原村にあり当地に勧請

『鎌倉攬勝考』(「葛原岡」の項)
社号・称号:葛原の宮、御霊の社、くづはらの御霊社、御霊権現
御祭神:葛原親王
勧請・御遷座関連:もとは葛原岡に御鎮座、後梶原村へ遷して後、鎌倉権八郎景経の代に権五郎景政の霊を御霊社に合祀し、景政公を配祀。

『新編相模國風土記稿』
社号:御霊社、五霊社、五流宮
御祭神:鎌倉権五郎景政公(村岡五郎忠通の霊を祀る、其後五家の祖をも合祀して、是を御霊尊と崇む)
勧請・御遷座関連:葛原岡及び梶原村にも古昔此社あり
「(葛原)親王氏神に崇め奉り」「梶原村へ移してよりは、御霊の社とのみ唱ふ、されば社号は御霊権現にて祭神は葛原親王を崇め祀れるなり」「鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れり(中略)景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、前に云所の二説、恐くは牽強付会の説なるべし」

上記すべての説を包摂すると、
葛原岡葛原の宮(御霊の社)→ 梶原村御霊社→坂ノ下御霊社(当社)ということになります。

資料掲載の御祭神は
・葛原親王(786-853年) 桓武天皇の皇子。桓武平氏の祖。
・村岡(平)五郎忠通公(1000年前後?) 伝・三浦氏・鎌倉氏の祖。
・村岡忠通公の五子 (大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉各氏「関東平氏五家」の祖)
・鎌倉権五郎景政公(1069年-)

鎌倉各氏「関東平氏五家」の系譜は諸説あって錯綜気味につきここでは触れませんが、鎌倉氏を桓武平氏とすると、いずれも鎌倉氏の系譜に連なる人物となります。

『鎌倉攬勝考』では葛原岡→梶原村→坂ノ下説をとり、御祭神葛原親王の御霊社に鎌倉権五郎景政公を合祀(配祀)と力説しています。

一方、『新編相模國風土記稿』では、葛原岡、梶原村にも(御霊)社ありと云うと記すものの、「景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、前に云所の二説、恐くは牽強付会の説なるべし」として、坂ノ下御霊社は古くからあり、御祭神は鎌倉権五郎景政公という説を展開しています。

『神奈川県神社誌』および境内掲示では、当地に大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の平氏五家の先祖を祀る五霊神社が建てられ、いつしか祭神も景政公一柱になったとしています。

『鎌倉市史 社寺編』(鎌倉市)では、上記の各説を紹介しつつ、当社は鎌倉幕府成立以前からの旧社とし、「各子孫がそれぞれ先祖の霊を祀ったので、梶原の御霊社も、鎌倉の御霊社も、共にむかしからあって差支えない。ともかく、御霊社が鎌倉氏乃至梶原氏、大庭氏等の先祖のみたまを祀った社であることは諸説とも一致している。」と記してまとめています。

『鎌倉市史 社寺編』ではこのようなあいまいともとれる書きぶりは少なく、御霊神社の創祀沿革がそれだけ辿りにくいことを物語っています。

なお、梶原村御霊社→坂ノ下御霊社(当社)の論拠として、当社祭礼に梶原村御霊社の神主が出合して神事を修すということがあるようです。


【写真 上(左)】 (梶原)御霊神社
【写真 下(右)】 同御朱印

現在の主祭神である鎌倉権五郎景政公は、景正公とも記され、平安時代後期の武将です。
16歳の頃、後三年の役(1083-1087年)に従軍し、金沢の柵で敵に片目を射られながらも矢を抜くこともなく、答の矢を放って敵を倒した武勇の士として広く知られています。

景政公は陣に戻り兜をぬいで「景政手負いたり」と発して倒れました。
味方の三浦の平太為次という武士が景政公の眼の矢を抜こうと軍靴をはいたまま景政公の面部に足をかけると、景政公は「弓矢に当り死するは武士の本望。しかれど土足をもって面部を踏むとは何事ぞ」と、刀を構えてその無礼を叱咤したといいます。
為次は無礼を詫び、膝で丁寧に面部を押さえて矢を抜き、一命をとりとめた景政公の功名はいよいよ高まったといい、鎌倉武士の鑑として崇められるようにもなりました。

したがって、御霊神社の主祭神が景政公であることは、諸人に違和感なく受け入れられ、実際のちの幕府や武士を中心に篤い尊崇を受けたといいます。
また、眼の病に霊験あらたかといい、坂ノ下の鎮守ということもあって、庶民からも「権五郎さま」と呼ばれて尊崇を集め現在に至ります。

例祭は、景政公のご命日である9月18日に催され、「面掛(めんかけ)行列」とも「はらみっと」とも呼ばれる奇妙な行列が出ます。
もとは鶴岡八幡宮の神幸に出ていたものが、明治になって御霊神社にうつされました。
舞楽や田楽の流れを汲むとされる十面のグロテスクな面をかぶった行列が練り歩くもので、県の無形文化財に指定されています。

このなかに福禄寿の面があり、普段は宝蔵庫に祀られているため、こちらは鎌倉・江ノ島七福神の福禄寿の札所となっています。

元別当は極楽寺村の普明山成就院(古義真言宗大覚寺末)、明治に旧村社に列格しています。

長谷~極楽寺に向かう散策コースに位置し、江ノ電や紫陽花の撮影スポットとして知られ、鎌倉・江ノ島七福神の札所でもあることから参拝客の多い神社です。

境内社の石上神社は、海難防除の霊験で知られているようです。

資料に創祀として記されている葛原親王について、すこしく調べてみました。
Wikipediaによると、葛原親王(786-853年、かずらわらしんのう)は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖とされます。
式部卿、大宰帥などを歴任され、天長八年(831年)には一品(律令制で皇親に対して叙せられる最も高い品位)に叙せられています。

承和二年(835年)に甲斐国巨麻郡(現・山梨県南アルプス市)の牧を領されていますが、関東下向の正式な記録は確認されていないようです。

『六国史』で、政務に熟達し朝廷で重んじられていたと記されている葛原親王が、東国に下向されたとは考えにくいですが、じつは神奈川県内には葛原親王ゆかりの地がいくつか伝わります。

ひとつは、横浜市栄区公田町にある上臈塚です。
この塚は、葛原親王の妃・照玉姫を弔う塚と伝わります。
Wikipediaによると、葛原親王は朝廷の争いの多い京都を離れ、妃の照玉姫と共に旅に出られたものの、照玉姫は公田の地で病気にかかり進めなくなったため公田の地に滞留されました。
姫は一旦回復され里の人々から慕われていたものの、天長元年(824年)に再び病を発してこの地で没したといいます。
里の人々は塚を建て照玉姫とふたりの侍女(相模の局・大和の局)を弔ったといいます。

文禄元年(1592年)、旅の僧・信永は照玉姫の遺徳に感じ、読経供養をしたうえで塚の近くに祠を建てたのが皇女御前神社の前身ともいいます。
「猫の足あと」様の皇女御前神社の記事に詳細が紹介されています。

藤沢市北部の「葛原」も葛原親王ゆかりの地といいます。
藤沢市Web等によると、葛原の名は、この地に葛原親王の御所(垂木御所(たるきのごしょ))があり「高倉郡葛原村」となったという説や、葛原親王の子孫・垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望が、平安時代この地の領主となったという説があるようです。
この地に御鎮座の皇子大神は、葛原親王と素盞嗚尊を御祭神としています。

上記のとおり、鎌倉の葛原岡も葛原親王ゆかりの地とされ、この地に御鎮座とされる葛原の宮(御霊の社)の御祭神は葛原親王とも伝わります。
上臈塚(横浜市栄区公田町)は鎌倉の北東、「葛原」は鎌倉の北西に位置することからも、葛原親王と鎌倉は何らかのゆかりがあったのかもしれません。

なお現在、葛原岡には葛原岡神社が御鎮座されますが、こちらの御祭神は後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府倒幕に活躍した日野俊基卿です。


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【史料・資料】
『新編鎌倉志』(国立国会図書館)
御霊宮
長谷村より西南の方にあり。鎌倉権五郎景政が祠なり。景政が事、【奥羽軍記】に詳になり。【東鏡】に、建久五年(1194年)正月、御霊社御奉弊、八田知家御使たり。御霊社の事往々見たり。
【保元物語】に、後三年の御合戦に、鳥海城を落されし時、生年十六歳にて、右の眼をいさせて、其矢を不抜して答の矢を射て敵を打、名を後代に揚、今は神といははれたる、鎌倉権五郎景政と有。
神主は、小坂氏なり。景政が家臣の末也と云ふ。
梶原村にも、御霊宮あり。里老云、当社は、本梶原村に有しを、後に此地にも勧請す。故に今祭礼の時は、彼所の神主合て勤と也。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
五霊ノ社
長谷村より西南の方にあり。神主小坂氏、別当は極楽寺村にて、普明山成就院、古義真言宗、同國手廣村青蓮寺末なり。例祭九月十八日、権五郎景政を祀れりといふこと、【保元物語】にしるしたるより、普く人の称する社号なり。
されど其事のたがへるしはれ有。次第は葛原ヶ岡の條にしるせり。合せ見るべし。(中略)
当社、もとは梶原村にあり。いつの年にか此地に勧請しける。祭礼の時は、梶原村より神主出合して神事を修す。
神主小坂氏も。景政か家従の末孫といふ。されは古へ社檀鳴動せしは、梶原村にての事にりしと、里老語れりといふ。

『鎌倉攬勝考』(国立国会図書館)
葛原岡
(前略)
むかし梶原景時が先祖、鎌倉権守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しけるころ、此葛原が岡も梶原村の地にして、其頃までは名もなき葦はらにて有しが、権守景成は、桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王を氏神に崇め奉り、宮社をいはひ、葛原の宮とも御霊の社とも称し、此岡に鎮座なし奉りけり。文字は同じけれど、唱を替てくづはらの御霊社と申せしより、此岡をくずはら岡とぞ土人称しれけば、竟に地名とは成にける。
其後玆の宮を、梶原村へうつしてよりは、御霊の社とのみ唱ふ。
されば社号は御霊権現にて、祭神は葛原親王を崇め祀れる事にぞ。
又其後、鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れりといふ。
是平氏の祖神なり。然るを、御霊の社といへば、権五郎景政を祀りし事とおもふは、尊卑を知らぬ誤りなり。御霊社へ景政を配しまつれる事をしるべし。

『新編相模國風土記稿』(国立国会図書館)
御霊社
鎌倉権五郎景政公が霊を祀ると云ふ。土人は五霊社と唱ふ
按ずるに此神主小池氏の𦾔記に拠るに、桓武天皇の後胤、平良兼四世の孫を、村岡五郎忠通と云ふ、忠通五人の子あり、一男為通、二男景成、三男景村、四男景通、五男景政と号し、五人五家に別る
忠通卒して、五家々門栄盛の為に、鎌倉に一宇を草創して、忠通の霊を祀る、故に五流宮と唱へ、其後五家の祖をも合祀して、是を御霊尊と崇むとなり、土人の五霊と唱るは、此によれり

又扇谷葛原岡、及び梶原村にも、古昔此社ありと云ふ、葛原岡の里老の話に、昔梶原景時が先祖鎌倉権守景成は、鎌倉幷梶原村邊を領しける頃、此葛原カ岡も、梶原村の地にして、其頃迄し名もなき軍原にて有しが、権守景成は桓武平氏にて、葛原親王より出たれば、其親王菅氏神に崇め奉り、宮社をいはひ、葛原の宮とも、御霊社とも称し、此岡に鎮座なし奉りけり、文字は同じけれど、唱を替て、くつは方の御霊社と申せしなり
梶原村へ移してよりは、御霊の社とのみ唱ふ、されば社号は御霊権現にて祭神は葛原親王を崇め祀れるなり

又其後鎌倉権八郎景経が代に至り、権五郎景政が霊を、御霊社に合せ祀れりと云へど、今葛原岡・梶原村共に其蹤を伝へず、且神主の𦾔記、里老の口碑、其拠どころ無に非ざれど、【保元物語】を閲するに、義朝白河殿夜討の條に、大橋平太、同三郎懸出名のりけるは、御先祖八幡殿、後三年の御合戦に、鳥海城を落とされし時、生年十六歳にて、右の眼を射させ、其矢を抜ずして、答の矢に敵を射て、名を後代に揚ぐ、今は神といはれたる、鎌倉権五郎景政口、五代の末葉にて候云々、と見ゆれば、景政の霊を祀りしと云ふ事、古くより伝はりしと思はる、前に云所の二説、恐くは牽強付会の説なるべし

景政は奥州の役に義家に従ひ、敵に左の眼を射られしが遂に其矢を抜かずして其敵を討て高名を顕はす
故に眼を患る者此社に祈誓するは往々其験ありと伝ふ
【海道記】にも当社の名見えたり(中略)
別当は極楽寺村成就院なり 神主は鶴岡の小池新大夫兼職す(中略)
末社 石上 金比羅 地神
稲荷社 極楽寺村成就院持

神奈川県神社誌(国立国会図書館/同館本登録利用者のみ閲覧可能)
祭神 鎌倉権五郎景政公
境内社 石神神社 地神社 金刀比羅社 秋葉神社 祖霊社 稲荷社
社殿 本殿 幣殿 拝殿(入母屋造・唐破風向拝付)以上権現造瓦葺 三棟一宇
境内坪数 639.22坪

由緒沿革
当社の創立については詳らかではないが、御霊信仰の思想と鎌倉地方開発の跡を考えあわすと、平安末期には存在していたものと思われる。
祭神・鎌倉権五郎景政公は桓武天皇の子孫で平氏一門であるが、当時関東には大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の平氏五家があって、これら先祖を祀る神社として五霊神社が建てられ、その五霊が御霊にかわり、いつしか祭神も景政公一柱になったものと考えられる。

権五郎景政公の事は『奥州後三年記』(南北朝時代に書かれた絵巻物)書かれて居り、その武勇、廉恥の物語は有名である。景政公の領地は大庭の御厨(現在の藤沢市鵠沼あたり)を中心にして、その飛地は坂ノ下から長谷の一部にまで及び、当社の祭神が景政公一柱になったのも当地の領主であったからであろうと思われる。
鎌倉時代には幕府の崇敬も厚く、『吾妻鏡』文治元年(1185年)八月二十七日の条には、御社殿が鳴動して頼朝の参詣があり、願書を奉納し、巫子等面々に賜物があったという。(中略)
現在の社殿は明治四十五年改築されたものである。(中略)
別当は成就院であった事が『相模風土記』に見える。元村社で坂ノ下区の氏神社である。
(以下略)

■ 鎌倉市史 社寺編(鎌倉市)(抜粋)
御霊神社
祭神、鎌倉権五郎景政。
例祭九月十八日。
元村社。坂ノ下の鎮守。
境内地639.98坪
本殿・幣殿・拝殿
境内無格社石上神社・末社四(地主神、金刀比羅、秋葉・祖霊)
勧請年月未詳。鎌倉幕府成立以前からの旧社としてよいであろう。
境内の石上神社は堅石一箇あり、もとこの石は由比ヶ浜の沖にあった。
毎年溺死するものが多かったが、寛政三年(1791年)九月の或夜、海面が光り輝いたので、村民挙ってこの石を引上げ、石上神社に奉納した。それ以来ここで溺死するものがなくなったと伝えている。
もと極楽寺の成就院持。

『新編鎌倉志』は、御霊宮を「鎌倉権五郎景政ノ祠ナリ」とし「梶原村ニモ、御霊宮アリ。里老云、当社ハ、本梶原村ニ有シヲ、後ニ此地ニモ勧請す。故ニ今祭礼ノ時ハ、彼所ノ神主合テ勤ト也」といっている。
『鎌倉攬勝考』五霊ノ社の項では、祭神を景政とすることは誤りとし、葛原岡の項では、里老の話により、祭神は葛原親王で、景政を合祀したとする。
『風土記稿』所引の神主小池氏の『旧記』には村岡五郎忠通を祭り、忠通の子五人も合祀したといい、五流宮といったのを土地のものは五霊社というと書いている。
また『鎌倉攬勝考』は鎌倉権守景成がいまの葛原ヶ岡に先祖葛原親王をまつり、葛原の宮とも、御霊社とも称した。後それを梶原村に移して御霊社と称し、その後鎌倉権八郎景経の代に景政を合祀した。といい、また『吾妻鏡』文治元年(1185年)八月二十七日の記事は梶原村の御霊社をさす。という里老の言を無批判にのせているが、これが梶原村としなければならぬ明証はなく(中略)この説に従うことはできない。

各子孫がそれぞれ先祖の霊を祀ったので、梶原の御霊社も、鎌倉の御霊社も、共にむかしからあって差支えない。ともかく、御霊社が鎌倉氏乃至梶原氏、大庭氏等の先祖のみたまを祀った社であることは諸説とも一致している。

■ 境内掲示
鎌倉・江の島七福神 面掛福禄寿 御霊神社
御霊神社は其の昔鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏五家があり、これら五家の祖を祀る神社として御霊神社が建てられこれが御霊神社となり祭神●、いつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました。
この権五郎景政公の命日が九月十八日でこの例祭日には昔から面掛け行列という珍しい行事があります。これは伎楽や舞楽・田楽などに使われる特異な面を十人衆がつけ古いいでたちで街の中をねり歩く県指定の文化財です。此の十一面の中に「福禄寿」が含まれており此れにちなんで「福禄寿」が宝物庫に安置されています。

■ 境内掲示(鎌倉市)(抜粋)
御霊とは、強く尊い祖先の御霊(みたま)の意で、神社の創建は、平安時代後期と伝えられています。桓武天皇の子孫で「鎌倉武士団」を率いた鎌倉権五郎景正(ママ)を祀っています。
景政は、後三年の役(一〇八三年〜)に十六歳で出陣して勇名をはせ、その後現在の鎌倉・湘南地域を開発した領主です。地元では「権五郎さま」と呼ばれ、親しまれています。
毎年九月に行われる「面掛行列」は、伎楽や舞楽、田楽などの古い面をつけた面掛衆が練り歩く珍しい祭事です。


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長谷の収玄寺脇から極楽寺方向へ向かう小路は「御霊小路」と呼ばれます。
観光客はそれなりにいるものの、長谷大仏前の雑踏から逃れてほっとする道です。


【写真 上(左)】 御霊小路
【写真 下(右)】 御霊小路の碑


【写真 上(左)】 案内板-1
【写真 下(右)】 案内板-2

南側に江ノ電の踏切があり、境内はこの踏切に面し、線路脇には紫陽花が咲くという撮り鉄や花の写真愛好家には絶好の撮影スポットとなっています。


【写真 上(左)】 鎌倉源五郎神社の社号標
【写真 下(右)】 踏切下からの参道

しかしながら、あまりにカメラマンが殺到して危険なためか、一部の紫陽花は現在鉢植えとなっている模様です。(Web情報)
また、境内は現在撮影禁止となっています。


【写真 上(左)】 踏切と鳥居
【写真 下(右)】 鳥居と江ノ電


【写真 上(左)】 社頭の桜
【写真 下(右)】 境内撮影です

筆者は撮影禁止前に境内の撮影をしていますが、なぜかあまり枚数を撮っておらず境内の様子もはっきりしないので、境内の詳細な紹介は控えます。

また、写真についても境外の数枚の写真掲載にとどめます。

おそらく踏切手前から参道になっており、遮断機のすぐ向こうに石造の明神鳥居。
江ノ電は単線ながら本数が多いので、参拝中少なくとも1本は江ノ電を見れると思います。

かながわ名木100選のタブノキや樹齢約四百年の夫婦銀杏が茂り、緑濃い境内。
鳥居をくぐって左手に社号標。右手に手水舎と授与所。

正面は参道で基壇の上に石灯籠一対、石段を登ると正面が入母屋造銅板葺流れ向拝の拝殿です。
水引虹梁両端に見返り獅子の木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に龍の彫刻を置いています。

たしか拝殿向かって右手の宝蔵庫前には鎌倉・江ノ島七福神の幟が立ち、福禄寿の札所となっています。


御朱印は境内右手の授与所で授与されており、鎌倉・江ノ島七福神の御朱印も拝受できます。
江ノ電とマスコットのおネコちゃんをモチーフとした、人気のオリジナル御朱印帳も頒布されています。


〔 御霊神社の御朱印 〕

 
【写真 上(左)】 社号の御朱印
【写真 下(右)】 御祭神の御朱印


御朱印帳


■ 鎌倉市の御朱印-21 (C.極楽寺口-4)へつづく。



【 BGM 】
■ Christopher Cross - Sailing


■ Whitney Houston - Where You Are


■ James Ingram & Patti Austin - How Do You Keep The Music Playing
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■ 女性ヴォーカルの力 ~ 歌の女神降臨LIVE ~

むしょうに綺麗なメロディ聴きたくなり、思いつくままに引っ張ってみるとやっぱり女性ヴォーカルばっかりだった。

つらつら聴いていくと、
「優秀な男性ボーカルが10人束になってかかっても、1人の才能ある女性ボーカルには到底及ばない。」
などという音楽格言が想い浮かんでくる。

小室哲哉氏がどうしてハイトーンの女性ヴォーカルをあれだけ追い求めたのか、いま振り返るとわかる気がする。


■ 華原朋美 - LOVE BRACE


■ Every Little Thing - Over and Over

華麗な五十嵐サウンドもまた、持田香織のヴォーカルを必要とした。

■ Yuna Ito(伊藤由奈) - Endless Story


■ KOKIA - 孤独な生きもの


■ 揺れる想い - ZARD


■ 柴山サリー(SARI) - 遠い日のNostalgia


■ 西野カナ - 君って 


■ 加藤ミリヤ-Aitai [live]


■ Sachi Tainaka - Saikou no Kataomoi (最高の片想い)


■ Rina Aiuchi(愛内里菜) - Magic


■ 森高千里 - 渡良瀬橋


■ 今井美樹 - Goodbye Yesterday


■ Kalafina - Mirai 未来
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