関東周辺の温泉入湯レポや御朱印情報をご紹介しています。対象エリアは、関東、甲信越、東海、南東北。
関東温泉紀行 / 関東御朱印紀行
■ 御府内八十八ヶ所霊場の御朱印-2
Vol.-1Bからのつづきです。
■ 第4番 永峯山 瑠璃光寺 高福院(こうふくいん)
品川区上大崎2-13-36
高野山真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第4番
司元別当:誕生八幡神社(上大崎)
授与所:庫裡
当山の由緒沿革については、詳細な山内掲示(略縁起)があります。
高福院はもと高野山金剛峰寺の塔頭の一院とされます。
高野山開創の際、弘法大師は鎮守として山内各処に弁財天を祀られました。
高野山が疲弊して資糧が乏しくなったとき、弁天様が宝舟を引かれて来臨され山徒を救い給うたことから、その高福に因み高福院が建立されたといいます。
(高野山古図には、現在の金剛峰寺の右隣に高福院の名が見えるとのこと)
寛永年間(1624-1644年)、松平讃岐守侯は当地に下屋敷造営の際、讃岐の偉人である弘法大師の御寺建立の旨を高野山に要請しました。
これを受けて高野山高祖院の良尊和尚が、高福院の寺号と船引の弁天様さまを奉持され開創されたのが当院の縁起とされます。
開創当初は江戸に二箇所あった高野山在番所の控寺として、ゆかりの僧侶方の菩提所としても栄えたといいます。
しかし明和九年(1772年)、行人坂の大火ですべてが灰燼に帰してしまいました。
また、『寺社書上』には、大崎村長峰町、高野山門主無量寿院末、開山は阿遮●良尊(延宝三年(1675年)入滅)、中興開山は阿遮●實辨(宝暦十二年(1762年)入滅)、御本尊は大随求明王とあります。
大随求(だいずいく)明王は大随求菩薩とも呼ばれ、観世音菩薩の変化身とされます。
多くは関西の寺院で奉安され、江戸での奉安例は少ないかもしれません。
龍光山 正寶院(飛不動尊)公式Webには「苦厄を除き、悪を消す菩薩です。戦乱や嵐を治めることから子授けまで、幅広い功徳を持つ菩薩です。」とあります。
現在の本堂は、天保改革で知られる水野越前守忠邦侯が千駄ヶ谷穂田の屋敷内に建立、天保十五年(1844年)第十三世惠玉和尚が拝領して移築と伝わります。
明治の廃仏毀釈で一時疲弊したものの、歴代和尚の尽力により再興しています。
ことに目白僧園の雲照律師に提撕を受けられた第十五世浄識和尚は、お大師さまを背中に負うて托鉢しつつ布教され、多くの人々が檀家に加わったといいます。
雲照律師は、近衛文麿卿の父で第3代貴族院議長の近衞篤麿卿が東寺から招聘しているので、浄識和尚と近衛家もわかりがあったのかもしれません。
高田老松町に建立された目白僧園(雲照寺・吉祥院)は、のちに練馬・南田中に移転し、現在は雲照山 吉祥院 十善戒寺を号す真言宗東寺派寺院です。
目白僧園は、弘法大師の綜藝種智院の思想にならい、仏教精神に基づく庶民学校(十善徳教学校)とする予定でしたが諸般の事情により開設には至りませんでした。
しかし、弘法大師の綜藝種智院のお考え(身分貧富に関らず学べる総合的な教育施設の設立)は雲照律師から第十五世浄識和尚へと受け継がれ、この点からもお大師さまとのゆかりふかい寺院とみられます。
また、猫のあしあと様の『東京都寺社案内』記載の『東京都神社名鑑』によると、明治維新前、高福院はそばの誕生八幡神社の別当でした。
誕生八幡神社は太田道濯公による筑後・宇美八幡勧請が創祀とされているので、高福院は太田道濯公ともゆかりがあったことになります。
(なお、誕生八幡神社は下大崎の雉子神社の摂社ですが、現在御朱印は授与されていません。)
『寺社書上』には、「八幡宮別当 高福院」と明記され、『誕生八幡宮略縁起』が記されていることからも、誕生八幡神社の別当であったことが裏付けられます。
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 誕生八幡神社
住所は上大崎ですが、目黒駅にもほど近い白金側にあります。
このあたりは江戸時代、永峯六軒茶屋町と呼ばれましたが、白金方面からつづく馬の背状の尾根上にあるため「永峯」、目黒不動尊への参詣道にあたり茶屋が六軒あったので、このように呼ばれたといいます。
『東京23区凹凸地図』(昭文社)をみると、高福院はみごとに目黒駅東の台地上にのっており、そこから目黒駅を越え行人坂を下ると目黒不動尊に至ります。
(ちなみに、この『東京23区凹凸地図』は都内の高低差がばっちりわかるので、御府内霊場巡拝時に持参すると面白いです。)
【写真 上(左)】 寺号標と門柱
【写真 下(右)】 山内
目黒通りに面し、誕生八幡神社と並ぶかたちで参道入口。
参道は広くはないものの、門柱の先はそれなりの広さがあります。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に鶏の彫刻。
向拝は障子扉で見上げに院号扁額を掲げています。
御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「本尊 大日如来」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第5番 金剛山 (寶幢寺) 延命院
(えんめいいん)
港区南麻布3-10-15
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第5番、御府内二十八不動霊場第28番
司元別当:赤羽稲荷社?
授与所:庫裡
寛永年間(1624-1643年)に應圓阿闍梨によって開基(法印秀圓(慶安三年(1605年 )寂)の開山とも)。
当初は麻布本村町内新町にありましたが、寶永年間(1704-1711年)、五世住職のときに当初に移転したようです。
寶永年間(1751-1764年)、御府内霊場の札所になったといい、文化八年(1811年)、当時の御住職が四国第5番札所地蔵寺から弘法大師御作の子安地蔵尊を遷したとも伝わります。
以前は三田の?赤羽稲荷社の別当であったという史料があります。
【史料】
■ 『麻布區史』
智山派、智積院末。本尊金剛界大日如来。草創の年代不詳『續府内備考』には本村の内新町と云ふ處に有ったのを寶永年間(1704-1711年)に現在の地へ移建したと記してゐる。開山は法印秀圓(慶安三年(1650年)九月二十三日寂)である。舊幕地代は赤羽稲荷の別當であった。大師堂は府内八十八ヶ所札所の第五番霊場になってゐる。寺内に寶禄稲荷と呼ぶ小祠がある。柔術家戸塚彦右衛門英證の墓がある。
■ 『寺社書上』
「本寺 醍醐三寶院直末 麻布本村町 新義真言宗 開闢起立の儀の年代不知 麻布本村町内新町から●所(略) 当寺五世寶永年中(1704-1711年)当所●時移し(略) 本尊金剛界大日如来 両祖大師(弘法大師 興教大師) 阿弥陀如来 地蔵尊 境内弁天堂 弁財天 不動尊」等の記述が見えます。
【 江戸期の延命院周辺 】 ※「延明寺」とあります。
※ 『江戸切絵図/麻布絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 札所標-1
東京メトロ「白金高輪」駅から徒歩7分ほど。
「白金高輪」駅から寺下の明治通りにかけては低平地で、明治通りは東西に流れる渋谷川に沿って走っています。
「四の橋」あたりから北に絶江坂を登るとすぐ右手に見えてきます。
位置的には渋谷川から元麻布の高台への登り口にあたり、西側には「薬園坂の窪地」もあって複雑な地形です。
このあたりは寺町といってもいいほど寺院がたくさんありますが、札所は少なく御朱印授与寺も少なくなっています。
【写真 上(左)】 札所標-2
【写真 下(右)】 不動尊霊場の札所標
主門はフェンスで閉じられていますが、脇門から入れます。
門脇に建つ札所標には「第五番 子安●● 阿波國地蔵寺移 弘法大師之御作」とあります。
別に「御府内廿八ヶ所内 第廿八番 不動明王」の札所標がありますが、こちらは御府内二十八不動霊場第28番のものかと思われます。
寺号標にも「不動尊霊場第廿八番」とあるので間違いないかと思いますが、こちらの御朱印は授与されていない模様です。
「ニッポンの霊場」様Webによると、御府内二十八不動霊場の開創は明治42年。
初番は深川不動堂、第28番結願は当山になります。
『寺社書上』によると当山に立像の不動尊が奉安されていたのは確かですが、由緒等は記載されていません。
御府内二十八不動霊場には橋場不動尊、浅草寿不動尊、赤坂不動尊などのお不動様が名を連ねているので、結願の不動尊と定められたからには、開創時には著名な不動尊であったのかもしれません。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂はおそらく入母屋造桟瓦葺妻入で妻側に切妻屋根の向拝を設けています。
なので、千鳥破風をふたつ重ねたようなめずらしい意匠となっています。
シンプルな水引虹梁。妻の拝みに猪の目懸魚。向拝上部に院号扁額を掲げています。
向かって右手の花頭窓が意匠的に効いています。
御朱印は庫裡にて拝受しますが、ご不在時には書置を拝受できる模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「大日如来」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第6番 五大山 不動院
(ふどういん)
港区六本木3-15-4
高野山真言宗
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第6番
司元別当:
授与所:堂内、もしくは大安楽寺(日本橋小伝馬町)
六本木にある古義真言宗寺院です。
開山縁起は詳らかでないですが、山内掲示の縁起書、下記の史料などから由緒来歴を追ってみます。
伝承では家康公入府以前の開山とされ、当初は麹町平川町(現在の赤坂御門跡「虎屋」付近)にありましたが、万治元年(1658年)官命により寺地を収公され、当時の住職で中野寶仙寺の住職を兼ねていた玄海法印が現在地(麻布六軒町)を代地として賜り移したといいます。
本寺は大和國長谷小池坊。
小池坊は天正十三年(1585年)、焼き討ちにあった紀州の根来寺の能化坊を豊臣秀長の招きを受け長谷寺に入られた専譽僧正が再興されたと伝わります。
『寺社書上』に当山が「新義真言宗」と記されているのは、このような本寺の由来によると思われます。(現在は古義真言宗系の高野山真言宗)
また、『御府内寺社備考』によると孔子とのゆかりもあったようです。
当地に移転した当初の境内地は狭隘だったため、玄海法印は幕府に願い出て、近隣の沼地を埋め立て境内拡張の旨の許可を得ました。
しかし、その沼地の池には悪蛇が棲みついて近隣の住民を悩ませていました。
玄海法印は先祖と仰ぐ武田信玄公が自らの甲冑に奉持していた十一面観世音菩薩を本地佛として稲荷大明神を勧請され、祈りを捧げてこの悪蛇を調伏しました。
人々は玄海法印の験力に驚嘆し、こぞって帰依して沼地の埋め立てに協力したそうです。
また、近隣の女性が「麹町にあった不動院の鎮守神を当地の不動院にも祀り鎮守とせよ」との稲荷大明神のお告げを受け、兒稲荷大明神が祀られたという伝承もあります。
この伝承については、『兒稲荷大明神縁起』に詳細が記されています。
武田信玄公の信仰佛としては不動明王、毘沙門天、薬師如来などが知られていますが、十一面観世音菩薩は筆者の知る限りでは初出で、これは貴重な情報かもしれません。
(関連記事:【 信玄公の戦勝祈願依頼文 】)
江戸時代には「麻布不動坂の一願不動さん」「六軒町の目黄不動」とも呼ばれ、広く庶民の信仰を集めたといいます。
「江戸五色不動」の目黄不動尊は、平井の最勝寺と三ノ輪の永久寺とされていますが、当山を目黄不動尊とする説もあるようです。
もともとの目青不動尊と伝わる麻布谷町にあった勧行寺(ないし正善寺)に近いため、こちらとの関連を示唆する説もみられます。
明治の初年、不動院の住職は日本橋小伝馬町の牢獄跡地の浄化を祈念し、寺院建立を発願。
大倉財閥、安田財閥などの支援を受け、大安楽寺を創建しました。
大安楽寺は高野山真言宗準別格本山の格式ですから、当山も相応の寺格を有していることがうかがえます。
【史料】
■ 『麻布區史』
五大山不動院 市兵衛町二ノ五七
古義眞言宗高野派 金剛峯寺末。本尊不動明王。創立も開山も明らかでないが、萬治元年(1658年)に麹町平川の邊から移って来たと云ふ。中興開山は玄海。境内にもと兒(チゴ)稲荷(本地佛十一面観音 銅像)と呼ぶ小祠があり、非常に栄えていゐたが明治二年神佛分離で廢棄された。
■ 『寺社書上』
大和國長谷小池坊末 麻布六軒町 新義真言宗 旧地●麹町平川町 開山開闢●●●旧記も無し 中興 玄海法印武州中野村宝仙寺の住職●麹町の不動院致兼(略) 旧地麹町平川に有し(略)万治元年(1658年)当地に引移す 本尊不動明王 脇立 矜羯羅童子 脇立 制吒迦童子 右不動尊は弘法大師の作と●伝(略) 四大明王 普賢菩薩 弘法大師 鎮守堂(兒稲荷大明神 本地佛十一面観世音菩薩 武田信玄公甲冑に納●を当院中興玄海法印は武田家由緒し者故 持念佛を鎮守し本地佛を勧請)(略) 弁財天」
(兒稲荷大明神縁起 不動院)
不動院之兒稲荷神社ハ者本地十一面観世音 其古当院ノ中祖玄海法印住職●武江中野ノ寶仙寺以兼セリ 麹町不動院然ルニ 玄海俗姓武田家ノ末葉ナルカ故ニ 信玄公公所ノ帯スル甲冑ニ十一面観世音ノ尊像 玄海傳得之如●為●神社本地佛ト而常ニ信仰シヌ
■ 『御府内寺社備考』
不動堂ハ往古麹町栖岸院にありし 寛永の頃当院へ移●俗人云往昔孔子堂といふ 孟子乃不動●●を本尊とし孔子堂といふ 近年孔子山五臺山といふ
【 江戸期の不動院周辺 】
※ 『江戸切絵図/赤坂絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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都内有数のエンタメエリア・六本木は実はさりげに寺院が多く、裏通りに入ると一種の寺町の様相を呈しています。
なかでもロアビル角の「六本木五丁目」交差点を北に下った窪地「共同墓地の窪地」には六本木墓苑があり、華やかな六本木の一画とは思えない異次元感を発しています。
六本木は土地の起伏の激しいところで、東の溜池方面から青山(六本木)通り沿いに走る低地は「共同墓地の窪地」に至り、南の麻布十番方面から入る旧吉野川の谷筋は「北日ヶ窪」と呼ばれ、芋洗坂を経て六本木駅に至ります。
(この「北日ヶ窪」には北日ヶ窪団地がありましたが、再開発で六本木ヒルズに生まれかわっています。)
六本木通りは市三坂をのぼって「六本木」駅の高台に至り、外苑東通りは一貫して尾根筋、六本木ヒルズ前の麻布十番通りは一貫して谷筋を走ります。
この起伏の激しさは麻布十番通りが六本木通りを麻布トンネルでアンダーパスしていることからもわかります。
なんだかタモリ氏のようになってきたので(笑)、本題に戻ります。
【写真 上(左)】 不動坂と不動院
【写真 下(右)】 外観
不動院は六本木墓苑の窪地から不動坂をのぼった途中右手にあります。
上の伝承にある沼地とは、この「共同墓地の窪地」を指しているのでは。
「六本木」駅から近いですが、アクセスは「六本木一丁目」駅からの方が楽かもしれません。
不動坂まわりは住宅街で、不動院はこの細い不動坂に面した平成11年(1999年)建立の3階建のビル内にあります。
外観は瀟洒なビルですが、3階に掲げられた金色の「真言宗輪宝」、1階エントランス(向拝)の山号扁額、そして「五大山 不動院」と刻まれた門柱が、歴とした寺院であることを示しています。
【写真 上(左)】 不動明王
【写真 下(右)】 稲荷神
館外向かって右には蓮の葉に囲まれた石造の不動明王立像(御前立?)
その横には赤い鳥居の稲荷神が祀られています。
鳥居扁額の文字が薄くて確信はもてないのですが、境内縁起書には「二月初午 児稲荷大明神初午祭(商売繁盛・火坊の祈願を致します)」とあるので、こちらは由緒ある兒稲荷大明神かもしれません。
【写真 上(左)】 エントランス(向拝)
【写真 下(右)】 扁額
エントランス(向拝)は格子ガラスの扉で、見上げに山号扁額。左右に不動明王の御真言と御府内霊場の札番&御詠歌が掲げられています。
【写真 上(左)】 御真言
【写真 下(右)】 札番&御詠歌
エントランスは通常は閉まっていますが28日の御縁日など、特定の日は開かれていることがあります。
通常は、御朱印は日本橋小伝馬町の大安楽寺でいただくことになりますが、開扉日はこちらで拝受できます。
開扉日は荘厳な堂内まで上げていただけ、お不動様に間近で参拝できるので、日を選んでの参拝がベターかと思います。
(ただしお不動様は、中央のお厨子のなかに御座のようです。)
現在は不明ですが、新型コロナ禍前には28日に月並祈願会が勤修され、年に何日かは「不動院寄席」が催されていたようです。
第5番までは比較的寺院らしいたたずまいでしたが、こちら第6番は近代的なビルで都会の寺院ならではのイメージ。
さすがに東京の霊場、御府内霊場の札所です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕 ※いずれも不動院で開扉時に拝受。
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「不動明王」で札所印、「南無大師遍照金剛」の印と寺院印が捺されています。
■ 第7番 源秀山 永松院 室泉寺
(しつせんじ)
渋谷区東3-8-16
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第7番、弁財天百社参り第27番
司元別当:
授与所:庫裡
『札所めぐり』および『新編武蔵風土記稿』より、縁起由緒をまとめてみます。
当初は真宗西本願寺末の真宗寺院として芝金杉にありました。
元禄十三年(1700年)旗本松平外記忠益が当所にあった抱屋敷を和泉国神鳳寺中興の快圓(恵空)比丘(和上)に寄附してここに引移し、真言律宗に改宗して神鳳寺の宿寺としたといいます。中興開基は松平外記忠益、開山は快圓(恵空)比丘。
元禄十三年(1694年)快圓和上により開山、元禄十三年(1700年)五代将軍綱吉公の発願により開山という伝承もあるようです。
松平外記忠益は、五井松平家(現在の愛知県蒲郡市五井町を発祥とする松平氏庶流)9代の松平忠益と思われます。『Wikipedia』によると、父の松平伊耀は五千五百石の大身の旗本(寄合)で下総国海上郡飯沼に二千石の知行地をもち飯沼陣屋の主。
忠益はその家督を継いだとあるので、やはり大身の旗本であったと思われます。
縁起由緒からすると、松平忠益と和泉国神鳳寺の間には密接な関係があったと思われますが、Webからは追い切れませんでした。
また、五井松平家の菩提寺は銚子にある等覚寺で曹洞宗。
なので五井松平家と真言律宗に格別のゆかりがあったということも考えにくいです。
和泉国神鳳寺は、和泉国一宮の大鳥大社(大阪府堺市西区鳳北町)の別当であった大鳥山勧学院神鳳寺とみられます。
開山は和銅元年(708年)とも伝わる古刹で、快圓恵空が入り寺勢を拡大したといいます。
『江戸仏教の戒律思想(一)』(上田霊城氏、PDF)には、「真政円忍、快円恵空(1622-1712年)によって大鳥神鳳寺派が成立し、同派の玄忍慧海を証明として受具した覚彦浄厳が真言律宗を唱え、生駒宝山寺宝山湛海、円珠庵契沖も夫々真政・快円について受具している。」とあり、快圓恵空が真言律宗の成立において重要な役割を果たされていたことがわかります。
江戸における真言律宗は、浄厳律師覚彦が創建した湯島霊雲寺を総本山とする真言宗霊雲寺派への流れと、その他の真言宗派への流れがみられます。
室泉寺は真言律宗の寺院として再興されましたが、現在は古義の高野山真言宗に属しています。
しかし、『新編武蔵風土記稿』には「江戸湯嶋霊雲寺末」とあり、法統について複雑な経緯があったのかもしれません。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』
真言律宗 和泉國一ノ宮大島山神鳳寺宿寺ニテ 江戸湯嶋霊雲寺末ナリ 源秀山永松院ト号ス 当寺昔は芝金杉ニアリ 浄土真宗西本願寺末ニテ 同所壽林寺ヨリ兼帯セシヲ 元禄十三年(1700年)九月旗下ノ士松平外記忠益当所ノ抱屋敷ヲ 神鳳寺中興快圓比丘ニ寄附シ 彼寺名ヲ爰ニ引移シ 改宗シテ宿寺トナセリ 故ニ忠益ヲ開基トス(略)開山快圓ハ正徳二年(1712年)二月八日寂 本尊は彌陀 脇士ニ観音地蔵ヲ安ス
護摩堂 不動立像長二尺七寸 愛染坐像長二尺五寸ナルヲ安ス 共ニ南都招提寺開山鑑真和尚ノ弟子支卓律師ノ作ト云
鎮守社 金毘羅 大鳥明神、住吉
辨天堂
【 江戸期の室泉寺周辺 】
※ 『江戸切絵図/青山渋谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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【写真 上(左)】 山門下
【写真 下(右)】 山門
「恵比寿」駅から5分ほどの住宅街のなかにあります。
渋谷川沿いの低地から広尾・青山の台地にさしかかるこのあたりにはいくつかの寺院が点在しています。
やや奥まった立地で、山内は落ち着いた雰囲気です。
街路から数段のぼった山門は切妻屋根桟瓦葺のおそらく薬医門で左右に門塀をめぐらし、見上げに山号扁額。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 鐘楼
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 源秀地蔵堂
山内には大聖歓喜天堂、源秀地蔵堂、そして地主神とみられる稲荷神のお社。
源秀地蔵尊は、身体健全に霊験あらたかと伝わります。
【写真 上(左)】 稲荷神
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑
【写真 上(左)】 修行大師像と山内
【写真 下(右)】 修行大師像
端正な修行弘法大師像が御座され、塔状の立派な札所碑もありました。
お砂踏み場よこの築山は高野山を模しているそうです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は宝形造ないし寄棟造銅板葺で身舎は朱色に彩られて華やかな印象。
向拝柱はなく比較的シンプルなつくりです。
真言律宗系の寺院の御本尊は大日如来が多いですが、こちらの御本尊は阿弥陀如来です。
御朱印は、庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「阿弥陀如来」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第8番 海岳山 大乗院 長遠寺
(ちょうおんじ)
大田区南馬込5-2-10
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第72番、大東京百観音霊場第43番、多摩川四郡八十八ヶ所霊場第78番、武相四十八ヶ所不動尊霊場第11番
司元別当:馬込村八幡社ほか
授与所:寺務所
大田区馬込にある名刹で、複数の札所を兼務されています。
寺伝によると、馬込村字堂寺の地に天仁元年(1108年)宥尊上人が開山草創。
(『新編武蔵風土記稿』には、村の旧記として定海という僧(元弘二年(1332年)寂)が草創とあり。)
文亀二年(1502年)火災に遭い当地に移転、元禄年間(1688-1704年)に快慶法印が中興と伝わります。
御本尊の不動明王は、馬込不動尊として広く知られています。
行基菩薩の御作と伝わる木造十一面観音菩薩立像(通称「鎌作観世音」)は、大田区の文化財に指定されています。
山内掲出の観音様の説明書に「もと上大崎六軒茶屋の光雲寺にあった」とあること、府外の馬込にあることが気になり、江戸八十八ヶ所霊場第8番を当たってみると、第8番はまさに六軒茶屋の盤谷山光雲寺でした。
光雲寺は『寺社書上』に収録されており、場所は(白金)六軒茶屋町、宗派は新義真言宗、馬込村長遠寺末とあります。
光雲寺は明治8年(1875年)廃寺となっています。
江戸期の江戸八十八ヶ所第8番ないし御府内霊場第8番光雲寺の札所本尊はおそらく御本尊の千手観世音菩薩であったと考えられ、明治8年(1875年)光雲寺が廃寺となった際に、御本尊の千手観世音菩薩は本寺の馬込長遠寺に遷られ、同時に御府内霊場第8番札所も長遠寺に替わったのではないでしょうか。
御府内霊場の札所本尊は御本尊の例がほとんどですから、そのときに第8番の札所本尊は長遠寺の御本尊である不動明王に替わったのでは。
ただし、行基菩薩作とも伝わる光雲寺の御本尊・千手観世音菩薩は長遠寺でも「鎌作観世音」として手篤く奉安され、現在も人々の信仰を集めているのではないでしょうか。
『江戸名所図会』には、こちらの千手観世音菩薩は行基菩薩が巡錫先の信州更級郡で天人が鎌をもって彫刻し、行基菩薩に授けたものとあります。
また、行基菩薩が巡錫先の信州更級郡で一刀三礼してみずから鎌斧で彫り上げられた尊像という伝えもあり、「鎌作(かまつくり)観世音」と尊称されています。
『御府内寺社備考』には、光雲寺には行基菩薩が使われた鎌斧が寺宝として所蔵されているとあります。
「鎌作観世音」は大田区の文化財に指定。
山内説明板には平安時代十世紀頃の作と考えられ、もとは千手観世音菩薩と考えられるが千手を失い、文化財登録としては十一面観世音菩薩立像とされていること、もと上大崎六軒茶屋の光雲寺にあったが、明治初年に廃寺の際、長遠寺に移されたことなどが記されています。
品川区のWeb資料には「(目黒不動尊へ行く「目黒道」「白金通り」)の道筋の六軒茶屋町(現在の上大崎2・3丁目の目黒通り沿い)には、鎌作り観音・光雲寺(明治8年〔1875年〕に廃寺となる)がありました。鎌作り観音から同じ道沿いの永峯町には誕生八幡宮(現在の誕生八幡神社)と別当寺の高福院がありました。この3つの社寺は一緒に挿絵に描かれています。」とあり、江戸八十八ヶ所第8番の光雲寺は、同第4番高福院のそばにあったようです。
(「『江戸名所図会』を読む」様のWebにて詳しく解説されており、光雲寺は高福院のほぼ隣にあったことがわかります。)
【 光雲寺と高福院、行人坂(目黒不動尊方向)の位置関係 】
※ 『江戸切絵図/目黒白金辺図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
六軒茶屋町は御府内で『寺社書上』に記載され、馬込は府外で『新編武蔵風土記稿』に収録されています。
こうしてみると、御府内霊場の札所はやはり原則御府内で、現在、旧府外にある札所は移転統合など、なんらかの変遷を辿った例が多いのではないでしょうか。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』
除地六畝 (馬込村八幡社)社地ノ北ニ隣レリ 新義真言宗 山城國醍醐三寶院ノ末 海岳山大乗院トと号ス 村ノ舊記ニ定海ト云僧 当寺ヲ草創シテ後元弘二年(1332年)ニ寂セリト見ユ サレハ此人開山ナルヘシ 今寺ニテ開山トスルハ定尊法印ナリ 此法印其事歴寂年ヲ傳へサレハ 何ノ頃トモ云カタケレト 思フニ中興ノ僧ナルニヤ 後元禄(1688-1704年)ノ頃快慶法印ト云僧ノ住シ時 当寺ヲ興記(ママ)シテ檀林寺格トセシニヨリ 今ハ此法印ヲ中興開基トス(略) 本尊不動尊ノ座像ヲ安ス 門ハ客殿ノ正面ニアリ海岳山ノ三字ヲ扁ス
■ 『寺社書上』
(光雲寺)
馬込村長遠寺末 六軒茶屋町 盤谷山 光雲寺 新義真言宗
本尊 千手観世音菩薩 立像丈三尺 但行基菩薩作 延宝八年六月三日信州更級郡梵天平山盤谷山出現千手観音 元禄五年定光雲寺右●奉納石室内●縁起 開山光雲次第書(略)
■ 『御府内寺社備考』
起立ノ儀●元禄五年十一月中意運(略)草創 開山権大僧都智●意運 寺寶 鎌一挺 斧一挺 右ハ行基菩薩●●し●右を以本尊千手観音彫刻し●
■ 『江戸名所図会』
(鎌作観世音)
(妙見大菩薩)西の方一町半斗 向ふ側 六軒茶屋町の角 真言宗光雲寺にあり 相傳ふ 神亀年間(724-729年)行基菩薩諸国遊化の頃 信州更級に始て掛錫し●●ふに 平山と云ふところの池中より 此本尊出現あ● 又空中より化人あらはれ 鎌と御衣●を持ちて降臨し●ひ 彼観音の尊像を彫刻し行基に授け●ふ 此本尊是なり
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最寄りは都営浅草線「西馬込」駅。
第二京浜に面した区画ですが、山門は第二京浜の反対側からまわりこむかたちで、周囲は落ち着いたたたずまいです。
向かって左手に馬込八幡神社が御鎮座。
旧馬込村総鎮守で旧村社。岩清水八幡宮の分霊を勧請して創祀され、江戸期は長遠寺が別当でした。
馬込村総鎮守だけあって神さびた境内。御朱印は授与されていないとの掲示がありました。
【写真 上(左)】 馬込八幡神社
【写真 下(右)】 馬込八幡神社の掲示
【写真 上(左)】 門柱から
【写真 下(右)】 山門
長遠寺は広い寺地をもち、名刹にふさわしいたたずまいをみせています。
街路からまずは門柱、左右駐車場の参道の先に、両脇に板塀を配した切妻屋根銅板葺の重厚な山門。
控柱が4本あるので四脚門にも見えますが、おそらく医薬門ないし高麗門かと思われます。
見上げに山号扁額、右門柱に文字が消えかかった札所板が掲げられていますが、かすかに「七十二番札所」と読めるので、これは玉川八十八ヶ所霊場の札所板と思われます。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 玉川霊場札所板
こちらは御府内霊場、玉川霊場いずれの御朱印も授与されていますが、それぞれ系統の異なる弘法大師霊場なので、玉川霊場の巡拝は改めた方がベターかと思います。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑
山内は広々と明るく清掃が行き届き、気持ちのよい参拝ができます。
「新大田区百景」にも選ばれています。
参道脇には御府内霊場の立派な札所石碑がありました。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
正面が本堂。
寄棟造銅板葺で瓦葺の向拝を附設した、やや変わった意匠です。
水引虹梁両端に見返り獅子の見事な木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に霊鳥の彫刻を配して整った意匠です。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 見事な木鼻
【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 玉川霊場の奉納額
本堂軒下には、多摩川(玉川)八十八ヶ所霊場の奉納額が掲げられています。
メジャー霊場2つの札所を兼ねられているため、ご対応は手慣れておられ、またとてもご親切です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳-1
主印は三寶印、揮毫は「本尊 不動明王」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
〔 玉川八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
内容は御府内霊場とほぼ同様です。
以下、つづきます。
(→ Vol.-3)
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ 桜 - 中村舞子
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
■ 第4番 永峯山 瑠璃光寺 高福院(こうふくいん)
品川区上大崎2-13-36
高野山真言宗
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第4番
司元別当:誕生八幡神社(上大崎)
授与所:庫裡
当山の由緒沿革については、詳細な山内掲示(略縁起)があります。
高福院はもと高野山金剛峰寺の塔頭の一院とされます。
高野山開創の際、弘法大師は鎮守として山内各処に弁財天を祀られました。
高野山が疲弊して資糧が乏しくなったとき、弁天様が宝舟を引かれて来臨され山徒を救い給うたことから、その高福に因み高福院が建立されたといいます。
(高野山古図には、現在の金剛峰寺の右隣に高福院の名が見えるとのこと)
寛永年間(1624-1644年)、松平讃岐守侯は当地に下屋敷造営の際、讃岐の偉人である弘法大師の御寺建立の旨を高野山に要請しました。
これを受けて高野山高祖院の良尊和尚が、高福院の寺号と船引の弁天様さまを奉持され開創されたのが当院の縁起とされます。
開創当初は江戸に二箇所あった高野山在番所の控寺として、ゆかりの僧侶方の菩提所としても栄えたといいます。
しかし明和九年(1772年)、行人坂の大火ですべてが灰燼に帰してしまいました。
また、『寺社書上』には、大崎村長峰町、高野山門主無量寿院末、開山は阿遮●良尊(延宝三年(1675年)入滅)、中興開山は阿遮●實辨(宝暦十二年(1762年)入滅)、御本尊は大随求明王とあります。
大随求(だいずいく)明王は大随求菩薩とも呼ばれ、観世音菩薩の変化身とされます。
多くは関西の寺院で奉安され、江戸での奉安例は少ないかもしれません。
龍光山 正寶院(飛不動尊)公式Webには「苦厄を除き、悪を消す菩薩です。戦乱や嵐を治めることから子授けまで、幅広い功徳を持つ菩薩です。」とあります。
現在の本堂は、天保改革で知られる水野越前守忠邦侯が千駄ヶ谷穂田の屋敷内に建立、天保十五年(1844年)第十三世惠玉和尚が拝領して移築と伝わります。
明治の廃仏毀釈で一時疲弊したものの、歴代和尚の尽力により再興しています。
ことに目白僧園の雲照律師に提撕を受けられた第十五世浄識和尚は、お大師さまを背中に負うて托鉢しつつ布教され、多くの人々が檀家に加わったといいます。
雲照律師は、近衛文麿卿の父で第3代貴族院議長の近衞篤麿卿が東寺から招聘しているので、浄識和尚と近衛家もわかりがあったのかもしれません。
高田老松町に建立された目白僧園(雲照寺・吉祥院)は、のちに練馬・南田中に移転し、現在は雲照山 吉祥院 十善戒寺を号す真言宗東寺派寺院です。
目白僧園は、弘法大師の綜藝種智院の思想にならい、仏教精神に基づく庶民学校(十善徳教学校)とする予定でしたが諸般の事情により開設には至りませんでした。
しかし、弘法大師の綜藝種智院のお考え(身分貧富に関らず学べる総合的な教育施設の設立)は雲照律師から第十五世浄識和尚へと受け継がれ、この点からもお大師さまとのゆかりふかい寺院とみられます。
また、猫のあしあと様の『東京都寺社案内』記載の『東京都神社名鑑』によると、明治維新前、高福院はそばの誕生八幡神社の別当でした。
誕生八幡神社は太田道濯公による筑後・宇美八幡勧請が創祀とされているので、高福院は太田道濯公ともゆかりがあったことになります。
(なお、誕生八幡神社は下大崎の雉子神社の摂社ですが、現在御朱印は授与されていません。)
『寺社書上』には、「八幡宮別当 高福院」と明記され、『誕生八幡宮略縁起』が記されていることからも、誕生八幡神社の別当であったことが裏付けられます。
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【写真 上(左)】 参道入口
【写真 下(右)】 誕生八幡神社
住所は上大崎ですが、目黒駅にもほど近い白金側にあります。
このあたりは江戸時代、永峯六軒茶屋町と呼ばれましたが、白金方面からつづく馬の背状の尾根上にあるため「永峯」、目黒不動尊への参詣道にあたり茶屋が六軒あったので、このように呼ばれたといいます。
『東京23区凹凸地図』(昭文社)をみると、高福院はみごとに目黒駅東の台地上にのっており、そこから目黒駅を越え行人坂を下ると目黒不動尊に至ります。
(ちなみに、この『東京23区凹凸地図』は都内の高低差がばっちりわかるので、御府内霊場巡拝時に持参すると面白いです。)
【写真 上(左)】 寺号標と門柱
【写真 下(右)】 山内
目黒通りに面し、誕生八幡神社と並ぶかたちで参道入口。
参道は広くはないものの、門柱の先はそれなりの広さがあります。
【写真 上(左)】 札所標
【写真 下(右)】 本堂
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂は入母屋造本瓦葺流れ向拝。
水引虹梁両端に木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に鶏の彫刻。
向拝は障子扉で見上げに院号扁額を掲げています。
御朱印は本堂向かって右手の庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫は「本尊 大日如来」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第5番 金剛山 (寶幢寺) 延命院
(えんめいいん)
港区南麻布3-10-15
真言宗智山派
御本尊:大日如来
札所本尊:大日如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第5番、御府内二十八不動霊場第28番
司元別当:赤羽稲荷社?
授与所:庫裡
寛永年間(1624-1643年)に應圓阿闍梨によって開基(法印秀圓(慶安三年(1605年 )寂)の開山とも)。
当初は麻布本村町内新町にありましたが、寶永年間(1704-1711年)、五世住職のときに当初に移転したようです。
寶永年間(1751-1764年)、御府内霊場の札所になったといい、文化八年(1811年)、当時の御住職が四国第5番札所地蔵寺から弘法大師御作の子安地蔵尊を遷したとも伝わります。
以前は三田の?赤羽稲荷社の別当であったという史料があります。
【史料】
■ 『麻布區史』
智山派、智積院末。本尊金剛界大日如来。草創の年代不詳『續府内備考』には本村の内新町と云ふ處に有ったのを寶永年間(1704-1711年)に現在の地へ移建したと記してゐる。開山は法印秀圓(慶安三年(1650年)九月二十三日寂)である。舊幕地代は赤羽稲荷の別當であった。大師堂は府内八十八ヶ所札所の第五番霊場になってゐる。寺内に寶禄稲荷と呼ぶ小祠がある。柔術家戸塚彦右衛門英證の墓がある。
■ 『寺社書上』
「本寺 醍醐三寶院直末 麻布本村町 新義真言宗 開闢起立の儀の年代不知 麻布本村町内新町から●所(略) 当寺五世寶永年中(1704-1711年)当所●時移し(略) 本尊金剛界大日如来 両祖大師(弘法大師 興教大師) 阿弥陀如来 地蔵尊 境内弁天堂 弁財天 不動尊」等の記述が見えます。
【 江戸期の延命院周辺 】 ※「延明寺」とあります。
※ 『江戸切絵図/麻布絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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【写真 上(左)】 入口
【写真 下(右)】 札所標-1
東京メトロ「白金高輪」駅から徒歩7分ほど。
「白金高輪」駅から寺下の明治通りにかけては低平地で、明治通りは東西に流れる渋谷川に沿って走っています。
「四の橋」あたりから北に絶江坂を登るとすぐ右手に見えてきます。
位置的には渋谷川から元麻布の高台への登り口にあたり、西側には「薬園坂の窪地」もあって複雑な地形です。
このあたりは寺町といってもいいほど寺院がたくさんありますが、札所は少なく御朱印授与寺も少なくなっています。
【写真 上(左)】 札所標-2
【写真 下(右)】 不動尊霊場の札所標
主門はフェンスで閉じられていますが、脇門から入れます。
門脇に建つ札所標には「第五番 子安●● 阿波國地蔵寺移 弘法大師之御作」とあります。
別に「御府内廿八ヶ所内 第廿八番 不動明王」の札所標がありますが、こちらは御府内二十八不動霊場第28番のものかと思われます。
寺号標にも「不動尊霊場第廿八番」とあるので間違いないかと思いますが、こちらの御朱印は授与されていない模様です。
「ニッポンの霊場」様Webによると、御府内二十八不動霊場の開創は明治42年。
初番は深川不動堂、第28番結願は当山になります。
『寺社書上』によると当山に立像の不動尊が奉安されていたのは確かですが、由緒等は記載されていません。
御府内二十八不動霊場には橋場不動尊、浅草寿不動尊、赤坂不動尊などのお不動様が名を連ねているので、結願の不動尊と定められたからには、開創時には著名な不動尊であったのかもしれません。
【写真 上(左)】 寺号標
【写真 下(右)】 山内
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 扁額
正面の本堂はおそらく入母屋造桟瓦葺妻入で妻側に切妻屋根の向拝を設けています。
なので、千鳥破風をふたつ重ねたようなめずらしい意匠となっています。
シンプルな水引虹梁。妻の拝みに猪の目懸魚。向拝上部に院号扁額を掲げています。
向かって右手の花頭窓が意匠的に効いています。
御朱印は庫裡にて拝受しますが、ご不在時には書置を拝受できる模様です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「バン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「大日如来」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第6番 五大山 不動院
(ふどういん)
港区六本木3-15-4
高野山真言宗
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第6番
司元別当:
授与所:堂内、もしくは大安楽寺(日本橋小伝馬町)
六本木にある古義真言宗寺院です。
開山縁起は詳らかでないですが、山内掲示の縁起書、下記の史料などから由緒来歴を追ってみます。
伝承では家康公入府以前の開山とされ、当初は麹町平川町(現在の赤坂御門跡「虎屋」付近)にありましたが、万治元年(1658年)官命により寺地を収公され、当時の住職で中野寶仙寺の住職を兼ねていた玄海法印が現在地(麻布六軒町)を代地として賜り移したといいます。
本寺は大和國長谷小池坊。
小池坊は天正十三年(1585年)、焼き討ちにあった紀州の根来寺の能化坊を豊臣秀長の招きを受け長谷寺に入られた専譽僧正が再興されたと伝わります。
『寺社書上』に当山が「新義真言宗」と記されているのは、このような本寺の由来によると思われます。(現在は古義真言宗系の高野山真言宗)
また、『御府内寺社備考』によると孔子とのゆかりもあったようです。
当地に移転した当初の境内地は狭隘だったため、玄海法印は幕府に願い出て、近隣の沼地を埋め立て境内拡張の旨の許可を得ました。
しかし、その沼地の池には悪蛇が棲みついて近隣の住民を悩ませていました。
玄海法印は先祖と仰ぐ武田信玄公が自らの甲冑に奉持していた十一面観世音菩薩を本地佛として稲荷大明神を勧請され、祈りを捧げてこの悪蛇を調伏しました。
人々は玄海法印の験力に驚嘆し、こぞって帰依して沼地の埋め立てに協力したそうです。
また、近隣の女性が「麹町にあった不動院の鎮守神を当地の不動院にも祀り鎮守とせよ」との稲荷大明神のお告げを受け、兒稲荷大明神が祀られたという伝承もあります。
この伝承については、『兒稲荷大明神縁起』に詳細が記されています。
武田信玄公の信仰佛としては不動明王、毘沙門天、薬師如来などが知られていますが、十一面観世音菩薩は筆者の知る限りでは初出で、これは貴重な情報かもしれません。
(関連記事:【 信玄公の戦勝祈願依頼文 】)
江戸時代には「麻布不動坂の一願不動さん」「六軒町の目黄不動」とも呼ばれ、広く庶民の信仰を集めたといいます。
「江戸五色不動」の目黄不動尊は、平井の最勝寺と三ノ輪の永久寺とされていますが、当山を目黄不動尊とする説もあるようです。
もともとの目青不動尊と伝わる麻布谷町にあった勧行寺(ないし正善寺)に近いため、こちらとの関連を示唆する説もみられます。
明治の初年、不動院の住職は日本橋小伝馬町の牢獄跡地の浄化を祈念し、寺院建立を発願。
大倉財閥、安田財閥などの支援を受け、大安楽寺を創建しました。
大安楽寺は高野山真言宗準別格本山の格式ですから、当山も相応の寺格を有していることがうかがえます。
【史料】
■ 『麻布區史』
五大山不動院 市兵衛町二ノ五七
古義眞言宗高野派 金剛峯寺末。本尊不動明王。創立も開山も明らかでないが、萬治元年(1658年)に麹町平川の邊から移って来たと云ふ。中興開山は玄海。境内にもと兒(チゴ)稲荷(本地佛十一面観音 銅像)と呼ぶ小祠があり、非常に栄えていゐたが明治二年神佛分離で廢棄された。
■ 『寺社書上』
大和國長谷小池坊末 麻布六軒町 新義真言宗 旧地●麹町平川町 開山開闢●●●旧記も無し 中興 玄海法印武州中野村宝仙寺の住職●麹町の不動院致兼(略) 旧地麹町平川に有し(略)万治元年(1658年)当地に引移す 本尊不動明王 脇立 矜羯羅童子 脇立 制吒迦童子 右不動尊は弘法大師の作と●伝(略) 四大明王 普賢菩薩 弘法大師 鎮守堂(兒稲荷大明神 本地佛十一面観世音菩薩 武田信玄公甲冑に納●を当院中興玄海法印は武田家由緒し者故 持念佛を鎮守し本地佛を勧請)(略) 弁財天」
(兒稲荷大明神縁起 不動院)
不動院之兒稲荷神社ハ者本地十一面観世音 其古当院ノ中祖玄海法印住職●武江中野ノ寶仙寺以兼セリ 麹町不動院然ルニ 玄海俗姓武田家ノ末葉ナルカ故ニ 信玄公公所ノ帯スル甲冑ニ十一面観世音ノ尊像 玄海傳得之如●為●神社本地佛ト而常ニ信仰シヌ
■ 『御府内寺社備考』
不動堂ハ往古麹町栖岸院にありし 寛永の頃当院へ移●俗人云往昔孔子堂といふ 孟子乃不動●●を本尊とし孔子堂といふ 近年孔子山五臺山といふ
【 江戸期の不動院周辺 】
※ 『江戸切絵図/赤坂絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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都内有数のエンタメエリア・六本木は実はさりげに寺院が多く、裏通りに入ると一種の寺町の様相を呈しています。
なかでもロアビル角の「六本木五丁目」交差点を北に下った窪地「共同墓地の窪地」には六本木墓苑があり、華やかな六本木の一画とは思えない異次元感を発しています。
六本木は土地の起伏の激しいところで、東の溜池方面から青山(六本木)通り沿いに走る低地は「共同墓地の窪地」に至り、南の麻布十番方面から入る旧吉野川の谷筋は「北日ヶ窪」と呼ばれ、芋洗坂を経て六本木駅に至ります。
(この「北日ヶ窪」には北日ヶ窪団地がありましたが、再開発で六本木ヒルズに生まれかわっています。)
六本木通りは市三坂をのぼって「六本木」駅の高台に至り、外苑東通りは一貫して尾根筋、六本木ヒルズ前の麻布十番通りは一貫して谷筋を走ります。
この起伏の激しさは麻布十番通りが六本木通りを麻布トンネルでアンダーパスしていることからもわかります。
なんだかタモリ氏のようになってきたので(笑)、本題に戻ります。
【写真 上(左)】 不動坂と不動院
【写真 下(右)】 外観
不動院は六本木墓苑の窪地から不動坂をのぼった途中右手にあります。
上の伝承にある沼地とは、この「共同墓地の窪地」を指しているのでは。
「六本木」駅から近いですが、アクセスは「六本木一丁目」駅からの方が楽かもしれません。
不動坂まわりは住宅街で、不動院はこの細い不動坂に面した平成11年(1999年)建立の3階建のビル内にあります。
外観は瀟洒なビルですが、3階に掲げられた金色の「真言宗輪宝」、1階エントランス(向拝)の山号扁額、そして「五大山 不動院」と刻まれた門柱が、歴とした寺院であることを示しています。
【写真 上(左)】 不動明王
【写真 下(右)】 稲荷神
館外向かって右には蓮の葉に囲まれた石造の不動明王立像(御前立?)
その横には赤い鳥居の稲荷神が祀られています。
鳥居扁額の文字が薄くて確信はもてないのですが、境内縁起書には「二月初午 児稲荷大明神初午祭(商売繁盛・火坊の祈願を致します)」とあるので、こちらは由緒ある兒稲荷大明神かもしれません。
【写真 上(左)】 エントランス(向拝)
【写真 下(右)】 扁額
エントランス(向拝)は格子ガラスの扉で、見上げに山号扁額。左右に不動明王の御真言と御府内霊場の札番&御詠歌が掲げられています。
【写真 上(左)】 御真言
【写真 下(右)】 札番&御詠歌
エントランスは通常は閉まっていますが28日の御縁日など、特定の日は開かれていることがあります。
通常は、御朱印は日本橋小伝馬町の大安楽寺でいただくことになりますが、開扉日はこちらで拝受できます。
開扉日は荘厳な堂内まで上げていただけ、お不動様に間近で参拝できるので、日を選んでの参拝がベターかと思います。
(ただしお不動様は、中央のお厨子のなかに御座のようです。)
現在は不明ですが、新型コロナ禍前には28日に月並祈願会が勤修され、年に何日かは「不動院寄席」が催されていたようです。
第5番までは比較的寺院らしいたたずまいでしたが、こちら第6番は近代的なビルで都会の寺院ならではのイメージ。
さすがに東京の霊場、御府内霊場の札所です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕 ※いずれも不動院で開扉時に拝受。
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は金剛界大日如来のお種子「カーン/カン」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「不動明王」で札所印、「南無大師遍照金剛」の印と寺院印が捺されています。
■ 第7番 源秀山 永松院 室泉寺
(しつせんじ)
渋谷区東3-8-16
高野山真言宗
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:阿弥陀如来
他札所:江戸八十八ヶ所霊場第7番、弁財天百社参り第27番
司元別当:
授与所:庫裡
『札所めぐり』および『新編武蔵風土記稿』より、縁起由緒をまとめてみます。
当初は真宗西本願寺末の真宗寺院として芝金杉にありました。
元禄十三年(1700年)旗本松平外記忠益が当所にあった抱屋敷を和泉国神鳳寺中興の快圓(恵空)比丘(和上)に寄附してここに引移し、真言律宗に改宗して神鳳寺の宿寺としたといいます。中興開基は松平外記忠益、開山は快圓(恵空)比丘。
元禄十三年(1694年)快圓和上により開山、元禄十三年(1700年)五代将軍綱吉公の発願により開山という伝承もあるようです。
松平外記忠益は、五井松平家(現在の愛知県蒲郡市五井町を発祥とする松平氏庶流)9代の松平忠益と思われます。『Wikipedia』によると、父の松平伊耀は五千五百石の大身の旗本(寄合)で下総国海上郡飯沼に二千石の知行地をもち飯沼陣屋の主。
忠益はその家督を継いだとあるので、やはり大身の旗本であったと思われます。
縁起由緒からすると、松平忠益と和泉国神鳳寺の間には密接な関係があったと思われますが、Webからは追い切れませんでした。
また、五井松平家の菩提寺は銚子にある等覚寺で曹洞宗。
なので五井松平家と真言律宗に格別のゆかりがあったということも考えにくいです。
和泉国神鳳寺は、和泉国一宮の大鳥大社(大阪府堺市西区鳳北町)の別当であった大鳥山勧学院神鳳寺とみられます。
開山は和銅元年(708年)とも伝わる古刹で、快圓恵空が入り寺勢を拡大したといいます。
『江戸仏教の戒律思想(一)』(上田霊城氏、PDF)には、「真政円忍、快円恵空(1622-1712年)によって大鳥神鳳寺派が成立し、同派の玄忍慧海を証明として受具した覚彦浄厳が真言律宗を唱え、生駒宝山寺宝山湛海、円珠庵契沖も夫々真政・快円について受具している。」とあり、快圓恵空が真言律宗の成立において重要な役割を果たされていたことがわかります。
江戸における真言律宗は、浄厳律師覚彦が創建した湯島霊雲寺を総本山とする真言宗霊雲寺派への流れと、その他の真言宗派への流れがみられます。
室泉寺は真言律宗の寺院として再興されましたが、現在は古義の高野山真言宗に属しています。
しかし、『新編武蔵風土記稿』には「江戸湯嶋霊雲寺末」とあり、法統について複雑な経緯があったのかもしれません。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』
真言律宗 和泉國一ノ宮大島山神鳳寺宿寺ニテ 江戸湯嶋霊雲寺末ナリ 源秀山永松院ト号ス 当寺昔は芝金杉ニアリ 浄土真宗西本願寺末ニテ 同所壽林寺ヨリ兼帯セシヲ 元禄十三年(1700年)九月旗下ノ士松平外記忠益当所ノ抱屋敷ヲ 神鳳寺中興快圓比丘ニ寄附シ 彼寺名ヲ爰ニ引移シ 改宗シテ宿寺トナセリ 故ニ忠益ヲ開基トス(略)開山快圓ハ正徳二年(1712年)二月八日寂 本尊は彌陀 脇士ニ観音地蔵ヲ安ス
護摩堂 不動立像長二尺七寸 愛染坐像長二尺五寸ナルヲ安ス 共ニ南都招提寺開山鑑真和尚ノ弟子支卓律師ノ作ト云
鎮守社 金毘羅 大鳥明神、住吉
辨天堂
【 江戸期の室泉寺周辺 】
※ 『江戸切絵図/青山渋谷絵図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
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【写真 上(左)】 山門下
【写真 下(右)】 山門
「恵比寿」駅から5分ほどの住宅街のなかにあります。
渋谷川沿いの低地から広尾・青山の台地にさしかかるこのあたりにはいくつかの寺院が点在しています。
やや奥まった立地で、山内は落ち着いた雰囲気です。
街路から数段のぼった山門は切妻屋根桟瓦葺のおそらく薬医門で左右に門塀をめぐらし、見上げに山号扁額。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 鐘楼
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 源秀地蔵堂
山内には大聖歓喜天堂、源秀地蔵堂、そして地主神とみられる稲荷神のお社。
源秀地蔵尊は、身体健全に霊験あらたかと伝わります。
【写真 上(左)】 稲荷神
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑
【写真 上(左)】 修行大師像と山内
【写真 下(右)】 修行大師像
端正な修行弘法大師像が御座され、塔状の立派な札所碑もありました。
お砂踏み場よこの築山は高野山を模しているそうです。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 向拝
本堂は宝形造ないし寄棟造銅板葺で身舎は朱色に彩られて華やかな印象。
向拝柱はなく比較的シンプルなつくりです。
真言律宗系の寺院の御本尊は大日如来が多いですが、こちらの御本尊は阿弥陀如来です。
御朱印は、庫裡にて拝受しました。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳
主印は阿弥陀如来のお種子「キリーク」の御寶印(蓮華座+火焔宝珠)、揮毫はお種子、「阿弥陀如来」で札所印と寺院印が捺されています。
■ 第8番 海岳山 大乗院 長遠寺
(ちょうおんじ)
大田区南馬込5-2-10
真言宗智山派
御本尊:不動明王
札所本尊:不動明王
他札所:玉川八十八ヶ所霊場第72番、大東京百観音霊場第43番、多摩川四郡八十八ヶ所霊場第78番、武相四十八ヶ所不動尊霊場第11番
司元別当:馬込村八幡社ほか
授与所:寺務所
大田区馬込にある名刹で、複数の札所を兼務されています。
寺伝によると、馬込村字堂寺の地に天仁元年(1108年)宥尊上人が開山草創。
(『新編武蔵風土記稿』には、村の旧記として定海という僧(元弘二年(1332年)寂)が草創とあり。)
文亀二年(1502年)火災に遭い当地に移転、元禄年間(1688-1704年)に快慶法印が中興と伝わります。
御本尊の不動明王は、馬込不動尊として広く知られています。
行基菩薩の御作と伝わる木造十一面観音菩薩立像(通称「鎌作観世音」)は、大田区の文化財に指定されています。
山内掲出の観音様の説明書に「もと上大崎六軒茶屋の光雲寺にあった」とあること、府外の馬込にあることが気になり、江戸八十八ヶ所霊場第8番を当たってみると、第8番はまさに六軒茶屋の盤谷山光雲寺でした。
光雲寺は『寺社書上』に収録されており、場所は(白金)六軒茶屋町、宗派は新義真言宗、馬込村長遠寺末とあります。
光雲寺は明治8年(1875年)廃寺となっています。
江戸期の江戸八十八ヶ所第8番ないし御府内霊場第8番光雲寺の札所本尊はおそらく御本尊の千手観世音菩薩であったと考えられ、明治8年(1875年)光雲寺が廃寺となった際に、御本尊の千手観世音菩薩は本寺の馬込長遠寺に遷られ、同時に御府内霊場第8番札所も長遠寺に替わったのではないでしょうか。
御府内霊場の札所本尊は御本尊の例がほとんどですから、そのときに第8番の札所本尊は長遠寺の御本尊である不動明王に替わったのでは。
ただし、行基菩薩作とも伝わる光雲寺の御本尊・千手観世音菩薩は長遠寺でも「鎌作観世音」として手篤く奉安され、現在も人々の信仰を集めているのではないでしょうか。
『江戸名所図会』には、こちらの千手観世音菩薩は行基菩薩が巡錫先の信州更級郡で天人が鎌をもって彫刻し、行基菩薩に授けたものとあります。
また、行基菩薩が巡錫先の信州更級郡で一刀三礼してみずから鎌斧で彫り上げられた尊像という伝えもあり、「鎌作(かまつくり)観世音」と尊称されています。
『御府内寺社備考』には、光雲寺には行基菩薩が使われた鎌斧が寺宝として所蔵されているとあります。
「鎌作観世音」は大田区の文化財に指定。
山内説明板には平安時代十世紀頃の作と考えられ、もとは千手観世音菩薩と考えられるが千手を失い、文化財登録としては十一面観世音菩薩立像とされていること、もと上大崎六軒茶屋の光雲寺にあったが、明治初年に廃寺の際、長遠寺に移されたことなどが記されています。
品川区のWeb資料には「(目黒不動尊へ行く「目黒道」「白金通り」)の道筋の六軒茶屋町(現在の上大崎2・3丁目の目黒通り沿い)には、鎌作り観音・光雲寺(明治8年〔1875年〕に廃寺となる)がありました。鎌作り観音から同じ道沿いの永峯町には誕生八幡宮(現在の誕生八幡神社)と別当寺の高福院がありました。この3つの社寺は一緒に挿絵に描かれています。」とあり、江戸八十八ヶ所第8番の光雲寺は、同第4番高福院のそばにあったようです。
(「『江戸名所図会』を読む」様のWebにて詳しく解説されており、光雲寺は高福院のほぼ隣にあったことがわかります。)
【 光雲寺と高福院、行人坂(目黒不動尊方向)の位置関係 】
※ 『江戸切絵図/目黒白金辺図』(国立国会図書館インターネット公開(保護期間満了))から一部切り取り掲載
六軒茶屋町は御府内で『寺社書上』に記載され、馬込は府外で『新編武蔵風土記稿』に収録されています。
こうしてみると、御府内霊場の札所はやはり原則御府内で、現在、旧府外にある札所は移転統合など、なんらかの変遷を辿った例が多いのではないでしょうか。
【史料】
■ 『新編武蔵風土記稿』
除地六畝 (馬込村八幡社)社地ノ北ニ隣レリ 新義真言宗 山城國醍醐三寶院ノ末 海岳山大乗院トと号ス 村ノ舊記ニ定海ト云僧 当寺ヲ草創シテ後元弘二年(1332年)ニ寂セリト見ユ サレハ此人開山ナルヘシ 今寺ニテ開山トスルハ定尊法印ナリ 此法印其事歴寂年ヲ傳へサレハ 何ノ頃トモ云カタケレト 思フニ中興ノ僧ナルニヤ 後元禄(1688-1704年)ノ頃快慶法印ト云僧ノ住シ時 当寺ヲ興記(ママ)シテ檀林寺格トセシニヨリ 今ハ此法印ヲ中興開基トス(略) 本尊不動尊ノ座像ヲ安ス 門ハ客殿ノ正面ニアリ海岳山ノ三字ヲ扁ス
■ 『寺社書上』
(光雲寺)
馬込村長遠寺末 六軒茶屋町 盤谷山 光雲寺 新義真言宗
本尊 千手観世音菩薩 立像丈三尺 但行基菩薩作 延宝八年六月三日信州更級郡梵天平山盤谷山出現千手観音 元禄五年定光雲寺右●奉納石室内●縁起 開山光雲次第書(略)
■ 『御府内寺社備考』
起立ノ儀●元禄五年十一月中意運(略)草創 開山権大僧都智●意運 寺寶 鎌一挺 斧一挺 右ハ行基菩薩●●し●右を以本尊千手観音彫刻し●
■ 『江戸名所図会』
(鎌作観世音)
(妙見大菩薩)西の方一町半斗 向ふ側 六軒茶屋町の角 真言宗光雲寺にあり 相傳ふ 神亀年間(724-729年)行基菩薩諸国遊化の頃 信州更級に始て掛錫し●●ふに 平山と云ふところの池中より 此本尊出現あ● 又空中より化人あらはれ 鎌と御衣●を持ちて降臨し●ひ 彼観音の尊像を彫刻し行基に授け●ふ 此本尊是なり
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最寄りは都営浅草線「西馬込」駅。
第二京浜に面した区画ですが、山門は第二京浜の反対側からまわりこむかたちで、周囲は落ち着いたたたずまいです。
向かって左手に馬込八幡神社が御鎮座。
旧馬込村総鎮守で旧村社。岩清水八幡宮の分霊を勧請して創祀され、江戸期は長遠寺が別当でした。
馬込村総鎮守だけあって神さびた境内。御朱印は授与されていないとの掲示がありました。
【写真 上(左)】 馬込八幡神社
【写真 下(右)】 馬込八幡神社の掲示
【写真 上(左)】 門柱から
【写真 下(右)】 山門
長遠寺は広い寺地をもち、名刹にふさわしいたたずまいをみせています。
街路からまずは門柱、左右駐車場の参道の先に、両脇に板塀を配した切妻屋根銅板葺の重厚な山門。
控柱が4本あるので四脚門にも見えますが、おそらく医薬門ないし高麗門かと思われます。
見上げに山号扁額、右門柱に文字が消えかかった札所板が掲げられていますが、かすかに「七十二番札所」と読めるので、これは玉川八十八ヶ所霊場の札所板と思われます。
【写真 上(左)】 山門扁額
【写真 下(右)】 玉川霊場札所板
こちらは御府内霊場、玉川霊場いずれの御朱印も授与されていますが、それぞれ系統の異なる弘法大師霊場なので、玉川霊場の巡拝は改めた方がベターかと思います。
【写真 上(左)】 山内
【写真 下(右)】 御府内霊場札所碑
山内は広々と明るく清掃が行き届き、気持ちのよい参拝ができます。
「新大田区百景」にも選ばれています。
参道脇には御府内霊場の立派な札所石碑がありました。
【写真 上(左)】 本堂
【写真 下(右)】 斜めからの本堂
正面が本堂。
寄棟造銅板葺で瓦葺の向拝を附設した、やや変わった意匠です。
水引虹梁両端に見返り獅子の見事な木鼻、頭貫上に斗栱、身舎側に海老虹梁、中備に霊鳥の彫刻を配して整った意匠です。
【写真 上(左)】 向拝
【写真 下(右)】 見事な木鼻
【写真 上(左)】 斜めからの向拝
【写真 下(右)】 玉川霊場の奉納額
本堂軒下には、多摩川(玉川)八十八ヶ所霊場の奉納額が掲げられています。
メジャー霊場2つの札所を兼ねられているため、ご対応は手慣れておられ、またとてもご親切です。
〔 御府内霊場の御朱印 〕
【写真 上(左)】 専用集印帳
【写真 下(右)】 汎用御朱印帳-1
主印は三寶印、揮毫は「本尊 不動明王」「弘法大師」で札所印と寺院印が捺されています。
〔 玉川八十八ヶ所霊場の御朱印 〕
内容は御府内霊場とほぼ同様です。
以下、つづきます。
(→ Vol.-3)
【 BGM 】
■ 夢の大地 - Kalafina
■ 桜 - 中村舞子
■ 栞 - 天野月 feat.YURiCa/花たん
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