シャープ & ふらっと

半音上がって半音下がる。 それが楽しい、美しい。
思ったこと、感じたことはナチュラルに。  writer カノン

第九とお経

2008-12-03 15:01:15 | 音楽を聴く

22年前の今日…。 1986年12月3日。曜日も同じ水曜日。

私は、お坊さんと一緒に「第九」を歌うという、 貴重な経験をした。

私は当時、地元のアマチュア合唱団にいた。

そしてこの年の12月に、 第九を歌う機会に恵まれた。

しかし、ただの第九のステージではなかった。

 

この、1986年は『国際平和年』。

その年末に、反核をテ-マにしたコンサートを開こうと、

クラシックやポピュラーの音楽家たちが、 チャリティー同然のイベントを企画したのだ。

『反核・音楽家たちのメッセージ‘86』といった。

 

第一部では、小室等さんの司会で、 阿川泰子さんの歌などの、ポップス部門。

そして、第二部がクラシック部門で、 その最後が第九だった。

演奏は、第四楽章だけだ。

しかし、実に変わった「パート」が加わる。

十数名のお坊さんが、 歌の合間に、お経を唱えるというものだ。

前代未聞?の、お経付きの第九。

とにかく、満員の日比谷公会堂の聴衆の前で、 それは演奏された。

 

合唱団のまん中に囲まれるように、立派なお袈裟を召された、 真言宗の僧侶14名。

ソリストのソロの部分が終わると、 お坊さんが一斉に読経をする。

読経が終わると、オケの演奏に戻る。

合唱の『vor gott!』が終わり、 テノールのソリストが立ち上がり、

ソロを歌う場面でも 読経が入り、そのあとテナーソロになる。

とにかく、曲を中断するかのように、 合間合間に読経が入るのだ。

そして最後、 オケの演奏で終わるこの曲だが、

終了と同時に、お決まりのように 客席から拍手と『ブラボ-!』の声。

しかし、その拍手がピタッとやむ。 僧侶が最後の読経を始めたからだ。

 

僧侶は、これまで以上の大きな声と、 高らかな響きを残しながら、

一人ずつ合掌をしながらステージを降り、 舞台袖へと消えていく。

最後の僧侶が袖に消え、 お経の声が聞こえなくなり、

指揮者の山田一雄氏が、静かに客席のほうを向いた時

客席からは、あらためて、 いや…、本当に感動したような拍手が

さざ波のように響き渡った。

本当に不思議な時間であり、 不思議な曲だった。

でも、私達が歌ったのは、 間違いなくベ-ト-ヴェンの『第九』だった。

 

のちに、客席でのアンケートが公表される。

『合唱の起源はお経だというが、たしかにそう感じた』

『ミスマッチな舞台かと思いきや、実は最高だった』

『第九が、イベント的に軽々しく扱われているが、 読経を通じて厳粛な曲であることを再認識した』

私も、団の会報紙に 感想を一言書いた。

『お坊さんの読経は、ベ-ト-ヴェンの声だったのかもしれません』

 

 

あれから別の合唱団に移り、何度も第九を歌ってきた。

しかし、あのステージを超える感動は、ついに経験出来なかった。

それだけ崇高な第九だったのだ。

 

22年経った今も、 その時のプログラムが残っている。

そこに掲載されている、 ご住職様のメッセージを最後に紹介したい。

 

 

『一切の生きとし生けるものは幸福であれ。安泰であれ。安楽であれ。 いかなる生きもの、生類であっても、怯えているものでも、強剛なるものでも、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くのものでも、近くのものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようとするものでも、 一切の生きとし生けるものは幸福であれ。 核兵器の存在を許すことは、人間が仏の慈悲を裏切ることになる。』

(真言宗智山派 住職)