大阪城、桜門のそばにある
大阪豊國(とよくに)神社
じゃなくて…
大阪豊國(ほうこく)神社
そう、今回は、大阪豊國(ほうこく)神社の参拝記を
ほうこく(報告)しよう!
豊臣秀吉のみを主祭神とする京都の豊国神社は、「とよくに」と訓読みをするのに対して、ここ大阪の豊国神社は、「ほうこく」と音読みで、豊臣秀吉、秀吉の子、秀頼、秀吉の弟、秀長を御祭神とする神社
神社の由緒は1868年、明治天皇・大阪行幸の際に豊臣秀吉の功績を称え、大阪の地に奉祀するようにと仰せられる…明治6年徳川家によって京都の豊国神社の社殿が造営され
ここ、大阪には
明治13年、別格官幣社豊國神社の別社として中之島に創建され、昭和36年に大阪市の要望により移転し、現在の神域になったそうな
表鳥居はコンクリート製
手水舎
柄杓はなく、センサーで人感を感じ、水がでる最新型?
さて
この神社で、一番インパクトのある像がこれ
豊臣秀吉公銅像
それにしても顔が険しくて険しくて
死後、お空から、大坂夏の陣の行方を眺めていたからでしょうか!?
実は、この像は、秀吉の小田原征伐時の、いでだちをモデルにしたらしい
ってことは、天下統一の時の像
攻めているときだから、顔が険しかったんですね!
拝殿横にあった
出世開運絵馬
大阪の地なのに
「「虎」じゃなくて、「龍」なのね!?」と
一瞬思ったけど
今年は、辰年だったんだ!
拝殿では、最後に手を合わせることにして
拝殿が本殿と繋がっていることを確認???した後には、境内の散策をば
石灯籠の奥には
鳥居(とりい)があったことを
とりいそぎ紹介して
この鳥居から境内に入るときは、石灯籠(とうろう)の横を、とーろう!!
石碑もありまして
「岡田平蔵招魂碑」
全然知らない方なのでググってみました…
岡田平蔵さんは、大阪の商人…
大阪豊國神社…豊臣秀吉とは、なんの関係もない方でした…
この石碑は江戸時代、中之島に建てられたもので、蔵屋敷の名残であり、大阪豊國神社への遷座より早く、この位置に立っていたのだそう…要するに、遷座する前に大阪豊國神社より先に、この地に岡田平蔵招魂碑があったよう…
もう一つ
卓叟追思碑
1881年(明治14年)に木村重成の子孫が建立
「大坂夏の陣」で討ち死にした、豊臣方の戦国武将、木村重成
こちらは、秀吉の忠臣・木村重成と、秀吉に尽くした
大阪豊國神社…豊臣秀吉とは、深い関係のあった方でして…
「大坂夏の陣」での木村重成の最後の戦いは、激戦となった「八尾・若江の戦い」
木村重成隊は、未明より大坂城を出発…大坂城から東南8㎞ほどの地点の「八尾」を目指したが、沼地に阻まれたため、その北の「若江」で徳川方の河内方面隊を迎え撃つことに…八尾には、豊臣方の長宗我部盛親が陣を構える…
一方、徳川方の河内方面隊はというと、藤堂高虎、井伊直孝が先鋒であり当初は、八尾で長宗我部隊が藤堂高虎隊を圧倒、若江でも木村重成隊が激しい銃撃で藤堂右翼隊を迎え撃ち、藤堂隊は兵の半数を失って敗走…その後、井伊直孝隊が、藤堂高虎の右翼隊の敗走を知ると、今度は井伊隊が木村重成の隊と激突!
最終的に、木村重成は、井伊隊の安藤重勝に討ち取られた…
神社に深い縁のある方は分かるんですけど、全く関連性のない方の石碑も境内に建立してたりして
さて、境内社は
手水舎のそばには、
若永神社
宇迦之魂神を祀る神社
火難除の守護として淀屋の屋敷内に鎮座していたが、街の発展に伴って、豊国神社境内に遷座したとのこと
もう一つ境内社がありまして
白玉神社や七夕神社、玉春神社、玉繁神社などが合祀された境内社
この、二つの境内社をニ礼二拍手一礼した後には
豊臣秀吉、秀頼、秀長が御祭神の
拝殿へと
第二鳥居をくぐった正面が
拝殿
左右の狛犬&獅子は青銅(せいどう)製で
かなり個性的
「どうせいっちゅうねん!」
そんな声が、聞こえてきそう
ではでは、
拝殿にて
ニ礼ニ拍手一礼
でも、神様は
この日、
台風10号を徳川勢力のように思ったのか
大坂夏の陣の豊臣勢のように
籠城?しておりました…
そんな「夏の陣」ならぬ
「夏のシーン」で、ございました!