江戸末期
京都の町で攘夷派浪士たちを恐れおののかせたといわれる
新選組
これを率いたのが局長の
近藤勇!!!
彼は…
中仙道板橋宿近くの板橋刑場で横倉喜三次、石原甚五郎によって斬首された…とあるが
そのお墓が…
この三河の地にあるという…
なんでも…
近藤勇さまの胴体は
最初は板橋の刑場に埋葬されていましたが
近藤の親族が掘り起こし、東京都三鷹市の龍源寺に再度埋葬したとか…
ちなみに、龍源寺は近藤の生家宮川家の菩提寺であります…
さてさて
問題は…「首」の方…
首級は板橋で3日間晒し首にされた後
京都に送られ三条河原で晒し首にされていますが
その首級はその後行方不明になり
今もって見つかっていないらしんだけど…
どうも???
この三河の地に
近藤勇の「首塚」があるらしいということで…
行ってきました!!
場所は…
岡崎…本宿にある
法蔵寺
このお寺は
家康が竹千代と呼ばれていた幼少期に読み書き手習いに通った由緒ある寺とのことで
松平家の菩提寺でもあるんだけど…
ここに…
なんのかかわりもなさそうな…
新撰組局長の近藤勇のお墓があるというんだな…
近藤勇の眠る場所に
手を合わせたくて…
手を合わせたくて
行ってきました!!
法蔵寺
その手前
法蔵寺橋を渡って
右にみえるが
法蔵寺
ここに…近藤勇さんが
ひっそりと眠ってるんですねぇ???
こちらは
家康公が幼少の頃…
植えたと言われる
御草紙の掛け松
???
4代目ってことは
家康公が幼少の頃…
植えたものではないようです…
まあ…昔この辺に松を植えたのね!!
幼少の家康公が…
♪私まつわ いつまでもまつわ~
そんな思いで…歌を口ずさみながら???
幼少の家康公は松の成長を願ったのでしょうか…笑
さらには
今となっては、ここでは
あるいは…この周辺でも食べられない
法蔵寺団子の案内看板…
法蔵寺の左手には
石仏が…
根拠はないけど
新しく思えたので…
幼少の家康公は眺めていないことと思われます…
さてさて
山門をくぐる
その山門に掲げてある
案内看板には
なにも書かれていません!!
果実などで書いてあったりして
あぶると字が浮き出してきたりするのでしょうか??
境内の中にも
三河新四国三十六番札所
勝徳寺
がありました…
さてさて
その勝徳寺の反対側には
「賀勝水」
がありました…
竹千代(のちの家康公)は
手習いの水をこちらから汲んだとか…
さらには日本武尊の伝説も残されていまして
日本武尊が東国征伐のときに
法蔵寺の南の山頂で祈りをささげたところ
この岩の中から冷たい泉がほとばしり出たそうな…
日本武尊が、この水を「賀勝」と叫んで
「賀勝水」と呼ばれるようになったとか…
こちらの泉の水を飲んだ兵士たちは、たちまち疲れがとれ
病の者も立ち上がるという不思議なことが起きたようで…
江戸時代には
東海道を往来する人たちの憩いの泉として喜ばれたとか…
御霊泉!御霊泉!!!
だからといって…
飲みたい…とは思えませんでしたが…笑
鐘楼門をくぐる
いやあ…
歴史を感じる
鐘楼門…いいですなあ…
本殿にて合掌!!
本殿左手には
観音様がまつられている六角堂
おお…この砂袋に触れるだけで
四国八十八か所を巡礼したのと
同じだけのご利益があるの??
祈ります!祈ります!!
触りながら…祈ります!!
六角堂から
急な階段を昇れば
そこは
東照宮
家康公が、出陣の際に戦勝、開運祈願に訪れていたこともあるとか…
そこから…
本殿…および…六角堂を見下ろす…
この風景…
家康公もきっと眺めたことなんだろうな…
さてさて
その
頂上にある東照宮と
六角堂の間を急な階段ではなく…
別のルートの下り坂を降りていく途中には
松平家の霊廟が建立
廻りにはいくつもの小さな供養塔が…
松平広忠
家康公の父親ですね…
武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」で
家康公を守って命を捧げた家臣たちを供養して建てられたもののようです…
「三方ヶ原の戦い」で破れた家康公
さぞかし「無念」だったでしょう!!
そのすぐそばに
同じく「無念」であったに違いない!!
新撰組の
近藤勇の首塚が!!
このおんぼろ案内看板が
寂しさを…
「無念」の思いを一段と誘います…
これが
「近藤勇の首塚」
近藤勇さんと目があって
ドキドキ…
思わず…
目をそらしちゃいました…苦笑
でも…
もう一度
憧れの近藤勇さんを
側面から
後ろから…
さてさて
この「近藤勇の案内看板」は御覧のよう…
簡単には判読不能…
解説のよると
近藤勇は東京で処刑された後、首は京都の三条河原にさらされたことは私も知ってる…
その近藤勇は 生前、京都誓願寺の義天和尚を崇拝してとのことで同士が埋葬を頼んだところ
半年前に岡崎の法蔵寺の住職に転任していたため
「首」を岡崎まで運んで埋葬を依頼したとか…
この法蔵寺は御覧のように…今もひっそりとしていて
迫害対象だった新撰組の近藤勇の首を埋葬するのに好都合ということで
わからないように…わからないように…
無縁仏のように…ひっそりと…ひっそりと埋葬してたことを
お寺の関係者も忘れてしまってたらしいけど
昭和33年総本山の記録等に基づいて調査した結果、
埋葬の由来が明らかになったらしいのです…???
で…この像が…堂々と建立されちゃってる訳です…
無縁仏のように…ひっそりと…ひっそりと埋葬してたはずなのに??
土方歳三をはじめとした志士の名前も
台座に刻まれていました…
近藤勇のお墓は
上記に述べた
処刑場の板橋駅近くや
三鷹市の龍源寺の他に
首級が「行方不明」であるために…
処刑された京都や
会津戦争の福島県会津若松市の天寧寺など…
いろいろあるけど…
一見何の関係もなさそうな
三河の地に
今も…
あのネームバリューとは
裏腹に…
ひっそりと…
ひっそりと…
眠っているのかも???
いやあ…
こんな有名な…
日本をよくしよう!!と頑張った
近藤勇さんのお墓を
ばれないように…
無縁仏のように埋葬したまではいいとしても…
そんな大事な…大切な方のお墓を…
昭和33年総本山の記録等に基づいて調査するまで
忘れちゃっていたなんて…笑
私は…そんな…人間らしい??
このお寺に
近藤勇が眠っている!!に
一票を投じたい!!!
もし…それは単なる噂で
事実ではなかったとしても
それは「勇」足???(近藤勇だけにね…)ってことで…
それにしても
日本武尊
開祖は行基…
松平広忠(家康の父)
徳川家康
そして
新撰組の近藤勇と
歴史マニアにはたまらない人たちが
集合してる…???法蔵寺…
…なのに…
この地味なひっそり感がなんとも心地よくて…
みなさんも
東海道散策のついでにぜひぜひ…
京都の町で攘夷派浪士たちを恐れおののかせたといわれる
新選組
これを率いたのが局長の
近藤勇!!!
彼は…
中仙道板橋宿近くの板橋刑場で横倉喜三次、石原甚五郎によって斬首された…とあるが
そのお墓が…
この三河の地にあるという…
なんでも…
近藤勇さまの胴体は
最初は板橋の刑場に埋葬されていましたが
近藤の親族が掘り起こし、東京都三鷹市の龍源寺に再度埋葬したとか…
ちなみに、龍源寺は近藤の生家宮川家の菩提寺であります…
さてさて
問題は…「首」の方…
首級は板橋で3日間晒し首にされた後
京都に送られ三条河原で晒し首にされていますが
その首級はその後行方不明になり
今もって見つかっていないらしんだけど…
どうも???
この三河の地に
近藤勇の「首塚」があるらしいということで…
行ってきました!!
場所は…
岡崎…本宿にある
法蔵寺
このお寺は
家康が竹千代と呼ばれていた幼少期に読み書き手習いに通った由緒ある寺とのことで
松平家の菩提寺でもあるんだけど…
ここに…
なんのかかわりもなさそうな…
新撰組局長の近藤勇のお墓があるというんだな…
近藤勇の眠る場所に
手を合わせたくて…
手を合わせたくて
行ってきました!!
法蔵寺
その手前
法蔵寺橋を渡って
右にみえるが
法蔵寺
ここに…近藤勇さんが
ひっそりと眠ってるんですねぇ???
こちらは
家康公が幼少の頃…
植えたと言われる
御草紙の掛け松
???
4代目ってことは
家康公が幼少の頃…
植えたものではないようです…
まあ…昔この辺に松を植えたのね!!
幼少の家康公が…
♪私まつわ いつまでもまつわ~
そんな思いで…歌を口ずさみながら???
幼少の家康公は松の成長を願ったのでしょうか…笑
さらには
今となっては、ここでは
あるいは…この周辺でも食べられない
法蔵寺団子の案内看板…
法蔵寺の左手には
石仏が…
根拠はないけど
新しく思えたので…
幼少の家康公は眺めていないことと思われます…
さてさて
山門をくぐる
その山門に掲げてある
案内看板には
なにも書かれていません!!
果実などで書いてあったりして
あぶると字が浮き出してきたりするのでしょうか??
境内の中にも
三河新四国三十六番札所
勝徳寺
がありました…
さてさて
その勝徳寺の反対側には
「賀勝水」
がありました…
竹千代(のちの家康公)は
手習いの水をこちらから汲んだとか…
さらには日本武尊の伝説も残されていまして
日本武尊が東国征伐のときに
法蔵寺の南の山頂で祈りをささげたところ
この岩の中から冷たい泉がほとばしり出たそうな…
日本武尊が、この水を「賀勝」と叫んで
「賀勝水」と呼ばれるようになったとか…
こちらの泉の水を飲んだ兵士たちは、たちまち疲れがとれ
病の者も立ち上がるという不思議なことが起きたようで…
江戸時代には
東海道を往来する人たちの憩いの泉として喜ばれたとか…
御霊泉!御霊泉!!!
だからといって…
飲みたい…とは思えませんでしたが…笑
鐘楼門をくぐる
いやあ…
歴史を感じる
鐘楼門…いいですなあ…
本殿にて合掌!!
本殿左手には
観音様がまつられている六角堂
おお…この砂袋に触れるだけで
四国八十八か所を巡礼したのと
同じだけのご利益があるの??
祈ります!祈ります!!
触りながら…祈ります!!
六角堂から
急な階段を昇れば
そこは
東照宮
家康公が、出陣の際に戦勝、開運祈願に訪れていたこともあるとか…
そこから…
本殿…および…六角堂を見下ろす…
この風景…
家康公もきっと眺めたことなんだろうな…
さてさて
その
頂上にある東照宮と
六角堂の間を急な階段ではなく…
別のルートの下り坂を降りていく途中には
松平家の霊廟が建立
廻りにはいくつもの小さな供養塔が…
松平広忠
家康公の父親ですね…
武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」で
家康公を守って命を捧げた家臣たちを供養して建てられたもののようです…
「三方ヶ原の戦い」で破れた家康公
さぞかし「無念」だったでしょう!!
そのすぐそばに
同じく「無念」であったに違いない!!
新撰組の
近藤勇の首塚が!!
このおんぼろ案内看板が
寂しさを…
「無念」の思いを一段と誘います…
これが
「近藤勇の首塚」
近藤勇さんと目があって
ドキドキ…
思わず…
目をそらしちゃいました…苦笑
でも…
もう一度
憧れの近藤勇さんを
側面から
後ろから…
さてさて
この「近藤勇の案内看板」は御覧のよう…
簡単には判読不能…
解説のよると
近藤勇は東京で処刑された後、首は京都の三条河原にさらされたことは私も知ってる…
その近藤勇は 生前、京都誓願寺の義天和尚を崇拝してとのことで同士が埋葬を頼んだところ
半年前に岡崎の法蔵寺の住職に転任していたため
「首」を岡崎まで運んで埋葬を依頼したとか…
この法蔵寺は御覧のように…今もひっそりとしていて
迫害対象だった新撰組の近藤勇の首を埋葬するのに好都合ということで
わからないように…わからないように…
無縁仏のように…ひっそりと…ひっそりと埋葬してたことを
お寺の関係者も忘れてしまってたらしいけど
昭和33年総本山の記録等に基づいて調査した結果、
埋葬の由来が明らかになったらしいのです…???
で…この像が…堂々と建立されちゃってる訳です…
無縁仏のように…ひっそりと…ひっそりと埋葬してたはずなのに??
土方歳三をはじめとした志士の名前も
台座に刻まれていました…
近藤勇のお墓は
上記に述べた
処刑場の板橋駅近くや
三鷹市の龍源寺の他に
首級が「行方不明」であるために…
処刑された京都や
会津戦争の福島県会津若松市の天寧寺など…
いろいろあるけど…
一見何の関係もなさそうな
三河の地に
今も…
あのネームバリューとは
裏腹に…
ひっそりと…
ひっそりと…
眠っているのかも???
いやあ…
こんな有名な…
日本をよくしよう!!と頑張った
近藤勇さんのお墓を
ばれないように…
無縁仏のように埋葬したまではいいとしても…
そんな大事な…大切な方のお墓を…
昭和33年総本山の記録等に基づいて調査するまで
忘れちゃっていたなんて…笑
私は…そんな…人間らしい??
このお寺に
近藤勇が眠っている!!に
一票を投じたい!!!
もし…それは単なる噂で
事実ではなかったとしても
それは「勇」足???(近藤勇だけにね…)ってことで…
それにしても
日本武尊
開祖は行基…
松平広忠(家康の父)
徳川家康
そして
新撰組の近藤勇と
歴史マニアにはたまらない人たちが
集合してる…???法蔵寺…
…なのに…
この地味なひっそり感がなんとも心地よくて…
みなさんも
東海道散策のついでにぜひぜひ…
私の父が書いた勇の経緯の看板を同じ内容で読めるように書きなおしました。キレイになりましたよ。
先祖代々から受け継がれた内容でありますので間違いないと私は思っております。
看板を書き直しながら思いました、どのような方向にせよどのような結果にせよ良くしたいと信念を貫いた近藤勇氏がこのような形でいることは現代人の私でも無駄にしてはいけない気がしました。
深くは無知ですが、ここは地元の私たちで守っていければと思い始めました。
よろしければ少し綺麗になりました首塚に今一度ご覧いただければ幸いでございます!
コメントありがとうございます…それもまさかまさかの「近藤勇」のお墓の管理の関係者のお方…??…本当にありがとうございます…若干、ブログでは弄っちゃってて、恐縮…汗…なんか、すみません!!…確か、訪れたのは、同じ1月頃…あの時の想い出が蘇ってきました…新しくなった看板、喜んで観に行き、もちろん、このブログで紹介したいと思います!!目標…よーし、年内にはいくぞー!!(まだ、年が開けたばかりやん!)…さて、このブログ、内容はなんのためにもなりませんが、オモシロおかしく書いておりますので、また、ちょいちょい遊びに来ていただけたら幸いです