馬籠城址にいこう!!馬籠城址にいこう!!馬籠城址にいこう!!
「いこう!」と言っても「いこう(遺構)」は何も残っていないらしいけど…
馬籠宿の南側…下の写真の正面の小山が
馬籠城址
そうだな、馬籠宿から歩いて400メートルくらい行ったところにある竹藪…もうかぐや姫が見つかりそうな…かぐや姫をおじいさんがみつけて「まご、めっけた!」…っていいそうな竹藪が馬籠城址
遺構はないけど、案内解説板はありました
「丸山の坂」の石碑の奥に案内解説板
案内看板の手前の石積は遺構ではありませんね…昭和の匂いが漂う感じ…
でも、その手前の、こちらの苔で覆われた石積は遺構だといわれれば、そんな気もしますが…
この辺りの地名を「丸山」とも「城山」とも言い、ここには室町時代から
「馬籠城(砦)」あったことが記されているとのこと…
戦国動乱の時代、馬籠は武田信玄の領地となるが、
武田氏滅亡後、織田信長の時代を経て、木曽義昌が治めるところに…
1584年、豊臣秀吉・徳川家康の両軍は小牧山にて対峙する…
秀吉は徳川軍の攻め上がることを防ぐため、木曽義昌に木曽路防衛を命じ
木曽義昌は兵三百を送って山村良勝に妻籠城を固めさせ、この馬籠城は島崎重道(島崎藤村の祖)が警備したそうな…
天正十二年徳川家康は、飯田の菅沼定利・高遠の保科正直・諏訪の諏訪頼忠らに木曽攻略を命じ、その三軍は妻籠城を攻め、その一部は馬籠に攻め入り馬籠の北に陣地を構えた…
島崎茂通にとっては、敵軍が「まごめいて」…もとい…「うごめいて」いるのをみて、怖れをなしたことでしょう…
馬籠を守っていた島崎茂通は、「まあ、ごめん!」とあやまっても、「徳川軍」が赦してくれそうもなく、大軍が襲ってくるだろうということに怖れをなして、事前に妻籠城へ逃れたそうな…
このため馬籠の集落は戦火から免れることができたとか…
1600年、関が原の戦いで天下を制した家康は、木曽を直轄地としていたが、1615年、尾州徳川義直の領地となり、この馬籠城は自然消滅したそうな…
庚申の石碑などがある石碑がいくつか立ち並ぶ…
左の石段を上がってみる…
WEBによると、遺構はないらしいので、正面にみえる竹藪の中には入らず…なので、かぐや姫をみつけて「まご、めっけた!」と言うような展開はありませんでした!
今回のブログはこれで、おしまい!
しょーもない内容で「ほん馬籠んよ!」
もとい…
「ほんま、ごめんよ!」…
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます