城址マニアの私…
今回は長篠城に行く…
武田勝頼が成し遂げれなかった野望…
長篠城を攻め落とすぞー!!
と、その前に腹が減っては、戦はできぬ…(笑)
近くの「長篠食堂」へと…
ここで「気まぐれ定食」の中の「稚鮎天定食」をば
揚げたてで、めちゃ美味しかったのです!!
満足!満腹!満足!満腹!!!
ここで頼んだ「気まぐれ定食」…「気まぐれ」の割には、たくさんのメニューの中から選べて、満足!満腹!満足!満腹!!!
武田勝頼も、ここで食べてから長篠城に向かえば攻め落とせたかもしれないのに…(笑)
長篠城は1508年土岐氏の一族の菅沼元成が築いた宇連川と寒狭川の合流点の北側断崖上に位置する天然の要害の戦国時代末期の城
残っている内堀と土塁が城の東側を後方は合流する2つの川が堀として利用されていて、築城するにはもってこいの条件の整った城であります…
もう圧巻なのは…本丸と帯郭の間に設けられていた
この帯郭址及び看板看板の奥にある
この内堀と土塁
いやあ、これみただけでも、城址マニアの私にとっては、下手なグラビア写真のオネーチャンの写真よりもウンとテンションがあがる!あがる!!
ここに水を張っていたとのことで、これじゃあ簡単に武田軍に攻め込まれないだろうな…と実感!!
この縄張概図のように
裏は、この内堀と…反対側は2本の川に挟まれて…
それにしても後方の川の近くにある野牛郭のあたりを、飯田線の線路が真っ二つ…実に残念なことを当時の国鉄はしてくれたもんだと思いつつ…
でも、遺構がいっぱい残っててテンションのあがる城址であることは間違いない…
さてさて長篠城は築城当時は菅沼氏は今川方に従って居城していたが、今川義元が「桶狭間の戦い」で敗れると、その後、長篠城は徳川家康に従うように…
しかし、1571年武田信玄の配下であった天野景連の攻撃を受け、武田氏に従うように…
でも、戦国時代、まだまだ戦いは続く
1573年、武田信玄の病状が重篤化したことにより武田軍の攻撃が緩んだ武田軍の隙をついて、徳川家康が長篠城を奪還
その後は歴史の教科書にも載っている戦い…
1575年には、旧今川・徳川氏配下で、武田氏から離反して徳川氏に帰参した家臣、奥平貞昌を長篠城主に就任させることに…500人ほどの兵で当地の守備にあたらせる…
その年、武田勝頼率いる武田軍が約1万5000人という兵力で長篠城を包囲する…
これが「長篠の戦い」の前哨戦ともいわれる
「長篠城の戦い」
武田勝頼の攻撃に対し、家康の家臣、奥平貞昌は籠城戦を展開し持ちこたえる…
その後に続く長篠・設楽原の戦いによって武田勝頼率いる武田軍は敗北
その後、奥平氏は居城を新城城に移したため、長篠城は廃城となったとのこと
たった15年の間に、今川氏に服従したり武田氏に服従したり、徳川軍に服従したら、武田勝頼が攻めてきて…もう…いかにも戦国時代のど真ん中にあった城であったことがよくわかります…
歴代城主…一覧
たったの68年の歴史しかないのに…まさに戦国の渦中にあった城であったことがよくわかります…
もう、この石でできた説明解説板自体に歴史を感じちゃいますね…
これが、本丸跡…
うん、500人くらい集まれば…ちょうどいい感じかな…って、妄想の中で奥平貞昌の500人の兵を思い浮かべてみる…
あまりにも、きれいな本丸広場なので、妄想の中で奥平貞昌の500人の兵を思い浮かべてみても、なんだか野外フェスみたいな感じで、心の中に描いちゃってるんですが…
忌野清志郎さんの
「あいしあってるかい」…じゃなくて…「討ち死にしあってるかい」「イエーイ」の歓声が聞こえてきそうで…
はい、読者のみなさんは、こんな妄想、きき流し…の…苦笑
本丸の廻りに残る土塁
林高英領徳碑
江戸の中頃に長篠に生まれ、代官となった人とのこと(ぐぐってみた…)長篠城駐車場前に「林高英の屋敷」があったらしい
土塁の上には歴史を感じる
長篠城址碑
大正7年建立でした…
奥平貞昌になった気分で…大変そうだから、正直、奥平貞昌になりたいとは思わないけど
徳川家康の長女・亀姫の娘婿なんだけど…亀姫は美女だったんだろうか…家康公の娘だもんな…
その隣には
久邇宮良子女王の「御手植え松」の石碑
良子女王は、後の昭和天皇の妃の香淳皇后のことですね…
先ほどの長篠城址の石碑も
大正7年の久邇宮良子女王ブームにのっかって作られたに違いない??
鳥居があって、そこには御神木に匹敵する立派な木が…
こうして、触れてると「木」からパワーをいただけてる「き」がする…
おお、やる「き」がでてきた…(笑)
鳥居は残されていましたが「社」は移転されていました…
ここから本丸を見下ろし、その本丸へと…
「堅木植樹碑」
テキサス独立戦争中に、メキシコからのテキサス独立を志した180余名が,約5000人のメキシコ軍を相手に戦った「アラモの戦い」と、長篠城で行われた戦いが似ているということで結び付けた、日米友好の植樹…とその案内石碑やら案内板やらまとめて…
このカシ(樫)は日米修好の証しとして、アラモ側から贈られたものらしい…
さてさて、線路側へと…
この奥の山に砦を設けていたようで…
「対岸・武田軍五つの砦」の説明板
その武田軍五砦に徳川軍東三河勢が奇襲した「鳶が巣方面の戦い」の案内板…
もうこの案内板に歴史を感じちゃいますね…
あの奥の山に砦を造って、じっと長篠城を見張っていた時に、武田軍は奇襲をうけたようで…
線路の向こう側の「野牛郭址」
城址に線路がひかれている光景…
断崖絶壁の要城とのことで、「本丸跡」から下の川を見下ろしたいと思っても、木々にさえぎられてまったく見えません!!(聞こえてくるのは川音ばかり…)
不忍の滝があるようで…
おお、かすかに木々の隙間からみえた!みえた!
さてさて、この地にこれば、武田勝頼よりも、徳川家康、織田信長よりも、城主、奥平貞昌よりも「亀姫」よりも有名なこの方
足軽!の!足軽!!の…
磔になった「鳥居強右衛門」(「すねえもん」…「ごううもん」じゃなくて「すねえもん」
ここからじゃ木が生い茂って何もみえないけれど
川すらみえないけれど…
「鳥居強右衛門」の活躍、ヒーローぶりは
次回、書き綴る
「長篠城址史跡保存館」の展示で明らかになる!!
戦国武将を差し置いて、城主をさしおいて
足軽の「鳥居強右衛門」が大ヒーロー!!
あ、恥ずかしながら「鳥居強右衛門」の存在…ここで初めてしりました…
次回のブログをお楽しみに!!
さてさて、最後に紹介するは
駐車場のそばには「さかさ桑」の復元??が…
長篠の落武者が小松集落にさしかかって民家の庭に杖をつきさした、その杖から桑の芽が出たが、下方に向かってだけ伸びるので「さかさ桑 」と名付けたそうだが、その落武者が武田勝頼ではなかったか…といった伝説…
そこは、季節がら「桑」以上に…紫陽花がきれいでござんした…
しかし…この城には…まだ奥平貞昌の軍勢が…あるいは、徳川軍が、この姿にかわって…襲ってきそうで…それは、この看板…
ま、無視(マムシ)する訳にはいかず…足元を気にしながら…武田勝頼軍のように退散したのでした
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