比叡山延暦寺参拝…
とにかくひろい!ひろい!!伝導大師のみこころほど広い…比叡山延暦寺
比叡山頂から東側斜面にかけて、三塔十六谷三千坊と言われるほどの大寺でして
三塔とは「東塔(とうどう)」、「西塔(さいとう)」、「横川(よかわ)」の各エリアのこと
この山全体をすべて火攻めにしたなんて、織田信長もさぞ大変だった??だろうな…と思いながら???東塔エリアを一通り廻ったところで
東塔エリアは「現在」を体現、それに対して「過去」を体現している西塔エリアへと…
西塔拝観入口にある
五重照隅塔
「一隅」じゃなくて「五重」の「隅」を照らす??…そうとう明るいなってことじゃなくて「みなさん個々が、思いやりの心を持って一隅を照らす人になる」との願いが込められているそうな
その横には
傳教大師御遺戒「我が師を述べよ」と刻まれた石碑
そして
「弁慶の飛び六法 勧進帳を観て」なる草野天平さんの詩碑
作者の草野天平は、詩人草野心平の弟、比叡山に篭って詩作していたそうな
参道左には「聖光院跡 親鸞聖人住持の寺」なる石碑
9歳で出家した親鸞は、ここ聖光院に住して修行に励んでいたようで
その横には「箕淵弁財天」…もう鳥居からして歴史を感じさせてくれます…
さてさて西塔エリアのマップを眺めていると
東塔エリアには、東塔があったのに…西塔エリアには「西塔」なる建造物はないんですね…
まずは…浄土院へと向かってみることに…
まあ、こんな杉並木の間をとほとほ徒歩で歩いていくわけですけど…東塔エリアに比べれば、ほとんど人が歩いていないというか…
おかげで静寂の中での小鳥や虫のさえずりが心地よい…直射日光もあたらず…歩きやすくて…
でも…思いの外、歩く!歩く!!ひぃひぃふぅふぅ…
ようやく到着…ついた!ついた!!浄土院
もう私にとっては歩くことが修行のように思えてくる
さて浄土院は
伝教大師最澄上人の御廟所
庭がきれいに整えられていて、ワビサビを感じますなあ
裏口から入るようになってますが…
こちらが、本来の山門
弟子の慈覚大師円仁が中国の五合山竹林院を模して建立した比叡山中で最も清浄な聖域…最澄さまが眠ってるんですね…合掌!!
中は立ち入り禁止どころか…立入厳禁でした…
この先にあるのが山王院堂
地図アプリでググってみたら、そんなに遠い感じがしなかったので、向かってみたけど…ただし、地図アプリではわからない…強烈な石段が待ち受けていました…ひぃひぃふぅふぅ…
山王院堂は天台宗第六祖・智証大師圓珍の住房で小さなお堂
天台宗の紛争(圓珍派と圓仁派)が起きた際に、圓珍派がここから圓珍の木像を背負って大津三井寺(園城寺)に移住したという歴史的に重要なお堂だそうな
千手観音を祀ってあって、弁慶がここに千日間こもったことがあったそうな
山王院堂の手前には、祠が一つ
さてさて、その後は歩いてきた長ーい道のりをひたすら戻って…徒歩でとほとほ歩いて
西塔拝観入口のところまで戻る…
そのそばにあるのが
椿堂…
聖徳太子が比叡山に登ったとき、椿の枝を伽藍のそばに立てて置いたところ、それが根付き繁ったとか…
ご本尊は、千手観音菩薩…お堂は固く閉ざされていました…
椿堂の鐘楼
そして、浄土院(伝教大師御廟)から釈迦堂へ向う途中、西塔拝観入口の近くにあるのが
親鸞聖人ご修行の地
ここで20年間、ご修行なさったんですね…しんらんかった…もとい…知らんかった…
その横には、真盛上人修学の地…の石碑が
ここは、西塔南谷南上坊(後の真蔵院)跡地…伊勢で御生誕の真盛上人は、7歳、川口光明寺盛源律師に師事、14歳光明寺で剃髪出家得度、真盛と号され、16歳、尾張密蔵院に遊学、19歳、比叡山西塔南谷南上坊慶秀和尚の室に入られ、山を出ず、爾来の20年間ここで修業されていたそうな…
ググるまでしんらんかった…もとい…知らんかった…あ、しんらん(親鸞)聖人じゃなくて、真盛上人でしたね…
親鸞聖人の旧跡を示す石碑がわかりづらいほど、織田信長が侵略??しています…ここも火攻めを行ったんでしょう…
「弁慶のにない堂」
写真左が常行堂、右が法華堂…
阿弥陀如来を本尊とする常行堂と、普賢菩薩を本尊とする法華堂…同じ型の宝形造のお堂が並んで渡り廊下で繋がっていまして…
弁慶が渡り廊下の真ん中で二つのお堂を持ち上げたということから二つのお堂を合わせて「弁慶のにない堂」と言われている
常行堂
法華堂
そして、それをつなぐ渡り廊下を見上げて
弁慶がこの廊下に肩を入れて担いだそうで
法華と念仏が一体である事を示し、比叡山では「朝題目・夕念仏」といって両堂それぞれ法華三昧、常光三昧の修業の道場であるとのこと…
常行堂は、常に歩きながら念仏を唱える修業をするお堂、中央に位置する阿弥陀仏の周りを90日間お堂にこもり「南無阿弥陀仏」を唱えながら日夜歩き回って修業をするそうな…
さてさて弁慶が担いだ階段の下をくぐると、下りの石段が…正面には、釈迦堂がみえます…
その途中、石段の途中、右側には
「延暦寺学問所 止観道場 西塔政所」
延暦寺では、座ることを坐禅止観といって、最も大切な修行のひとつのよう…
そして、左側には
円戒国師寿塔
円戒国師寿塔とは、生前あらかじめ造ったお墓で
この塔は、円戒国師、真盛上人が、最初建立されたそうな…
真盛上人は、西塔南上坊で20年間修学されていたが、
十年間におよぶ応仁の乱でおきた世の惨状を見るに忍びず、遂に意を決し、社会浄化に身を挺するために、三千宗徒との交わりを辞し、
黒谷青龍寺へ隠居されるが、その直前に建てられた決死の覚悟の表明であるとのこと…この塔も一度織田信長による「焼き討ち」で破壊されてしまったとのことでした
その奥には恵亮堂
恵亮堂は恵亮和尚をご本尊として祀ってあるとか
ここには中西悟空さんの歌碑がありました…
「日本野鳥の会」を創設した方なんですね…子供の頃、年に1回、大晦日のNHK紅白歌合戦で耳にしてた「日本野鳥の会」
最近も、「日本野鳥の会」の方が紅白の札の数を数えているんでしょうか…こんなハイテクな世の中になってますけど…最近は…というより…ずーと、NHK紅白歌合戦をみてないから、どーなのか知らんけど…双眼鏡をのぞきながら、カチカチとカウントするあの姿…
で、ググってみたら実際に「日本野鳥の会」の方がが紅白でカウントをしたのは1985年から1992年の6回のみなんだって…
でも、今も数えてる???のは、「日本野鳥の会」ではなく「麻布大学野鳥研究部」なんだって…
いやあ、知らなかった…これを知っただけでも、比叡山にきてよかった??
釈迦堂(転法輪堂)
その手前にある手水舎
爆笑しているかのようにみえた手水舎の龍
そして釈迦堂の前にある
お釈迦様の石仏
そのそばには
平和地蔵菩薩様もいらっしゃいました…
ピースサインがいいですね!!
あ、ピースじゃなくて
アントニオ猪木の「1,2,3、ダー!!」の「3」のときだった…???
釈迦堂の向かって左側…高台のところに
鐘楼がありました
鐘楼のある高台から釈迦堂を見下ろす…
さて、釈迦堂(転法輪堂)は
伝教大師ご自作の釈迦如来を奉っているお堂でして…織田信長による「焼き討ち」の後、豊臣秀吉が三井寺の金堂を移築したもの…南北朝時代の1347年の建立で、延暦寺山内に現存する最古の木造建築…とのこと
西塔エリアの中心となる本堂にあたります…
堂内ではお坊さんが丁寧に…釈迦堂に…西塔エリアのお堂にまつわる話を丁寧にしてくださいました…
その話の中で、織田信長の「焼き討ち」で唯一残ったお堂が、この西塔エリアにある「瑠璃堂」であることを知りました…
「瑠璃堂」…西塔エリアの端の方だけど…行ってみなくては!!
釈迦堂の向かって左側奥の小径をいくよう…
そこには、比叡山延暦寺お得意の…??東塔エリアには、たくさんあった…延暦寺にまつわる「絵パネル」が…(笑)
釈迦堂の手前だけに
お釈迦様にまつわるエピソードが
栄華な生活に、気持ちが沈むなんて…???
で、出家…
私は、釈迦には絶対なれません!!先ほどの栄華な生活の方がウンと…ウンと…汗
私は、釈迦には絶対なれません!!きっと、こんなふうに女性がいいよってきたら…騙されちゃうはずです…
でも釈迦さまは女にそそのかされることなく…
…とこの絵パネルに挟まれて唐突に
「法然上人ご修行地青龍寺」との石標と仏塔が…
で、まだまだ絵パネルは続きます
…と思ったら、ここからは法然上人の絵パネルに替わるんですけど
お釈迦様の絵パネルと違って、そうとう傷んでる…
比叡山に出家したんですね!
文字が消えかかっている絵パネル
文字どころか絵も消えかかっている
大衆救済のみならず…この絵パネルも救済しておくれよ??
ここに九条武子さんの歌碑があるそうな…どこにあったのか、みつけられなかったけど…
ではでは、さっそく唯一、焼けずに残ったお堂、瑠璃堂へと…
まあ、強力な味方、グーグルマップがあるけど、一応このマップで瑠璃堂の位置を確認して…
一度、奥比叡ドライブウェイを跨ぐのね…なんて、おおよその位置を確認して出発!!
と、森の小径を瑠璃堂に向かってとほとほ徒歩で歩いている途中に
この無造作に横たわった看板発見
石仏好きな私はつい立ち寄りたくなる…
「ミロクの石仏」…なぜカタカナ表記なの??というツッコミは置いといて、森の小径を外れると…ありました!ありました!!
弥勒石仏???
あれ、ググってWEBでみたような弥勒菩薩じゃないぞ
…となれば…この森の中
「一隅を照らす森」の中をあっちウロウロ…こっちウロウロ
先にみつかったのが
相輪橖
釈迦堂の左奥の森の中にて発見!!
相輪橖とは仏塔の一種で五重塔や三重塔、多宝塔の上部にある相輪と四方の支柱によって構成されたもの
仏塔の原形のようなものでしょうか…
さらには、弥勒菩薩を探しているのに
この、「右、弁才天」との道標が…
あれれれ??弥勒菩薩を探しにきたのに??弁才天を探し求めて…
おお、ありました!ありました!!小さな祠が…
これを進むとすぐ奥比叡ドライブウェイにでます…これは、瑠璃堂へ行くには近道かも…と思ったことが…不幸を招いた???のですが、そのことは後にして、もう一度、相輪橖のあった方に引き返して
あっちウロウロ、こっちウロウロ
私、このブログの愛読者ならお分かりのとおり仏像好きじゃないですか…だから、きっと、仏像が引き寄せてくれるように思うんですよね…
相輪橖のあった場所から、弁財天を示すような道標なんてなんにもないのに…引き寄せられるように、やや森の小径が草木で茂って、通りにくくなっているところで…みつけました!みつけました!!
弥勒菩薩さま
「香炉岡弥勒石仏」香炉岡というのは西塔の「釈迦堂」の裏手のこの丘のことをいうそうで…
大きく損傷しているのは、織田信長による「焼き討ち」の際に受けたものだとか…
観光客も現れない山中に、ひっそりと佇む石仏…
いやあ、思わず手を合わせたくなる…合掌!!
澱んだ心が、ちょいと澄んだような…???
おっと、この「ミロク菩薩」をみるために、ずいぶん森の中をあっちウロウロ、こっちウロウロしちゃったけど、その後は、弁財天経由、奥比叡ドライブウェイの道にでて、グーグルマップで瑠璃堂をぐぐってみると…おお、近いぞ!近いぞ!!徒歩2分との表示…道路を横切って
おお、この辺は「比叡の弁慶」なのね!…確かに「にない堂」の近くだ…と…
そんな道路案内看板を眺めつつ
再度小径があったので、それを進むと、あれれれ、瑠璃堂から、どんどん離れていっているような…
慌てて引き返し、グーグルマップをみつめれば…近くにあるのに…道がない!!!…要は崖の真下に瑠璃堂があるようで…
行くには、ぐるっと廻らなければいけないみたい…
要はグーグルマップを手にしながら、道に迷ってしまったんだな…
もう歩きすぎて、足は完全に棒になってるけど、引き返すしか方法がない…
もう一度、奥比叡ドライブウェイを横切って弁財天の横をとおって相輪橖の前を通って
この看板が放置されてた森の小径に戻って…
気が付けば、ここで1時間以上、あっちウロウロこっちウロウロしていたことに…この時点で歩数1万三千歩…足が棒に化する中でも
やはり瑠璃堂はみておきたいと…
今度は大丈夫…ググったら「瑠璃堂への行き方」を丁寧に写真とともに示すWEBページをみつけました…
そこには、「間違えて森の中にいかないように」と記されていました…はい、そのWEBページに気づくのが、私、遅すぎました…汗
このWEBページ…大変お世話になりました!!
やみくもに勘で歩く…大変さを…あたらめて体感しました…私、そもそも方向音痴でした…汗
瑠璃堂へのアクセス|ブログ|奥比叡ドライブウェイ (hieizan.co.jp)
あらためて…ググることの大切さを知りました…(笑)
瑠璃堂…けっこう歩きました!歩きました!!ひぃひぃふぅふぅ…私が織田信長であっても、こんなに離れたお堂、わざわざ焼きに行かなかったと思います…
織田信長の気持ちが分かるような???
さてさて奥比叡ドライブウェイとの分岐から、500メートルは歩いたでしょうか…
おお、これぞ、松田聖子さんが広瀬すずさんが歌った
「瑠璃堂の地球」???
こと…瑠璃堂
ご本尊は「薬師瑠璃光如来像」
2020年は開扉されたらしい…
これが正面かな…
めちゃめちゃ歩いて…歩いて…織田信長に瑠璃堂が焼かれなかった分??
替わりに、私が焼かれちゃいました!!焼かれちゃいました!!
織田信長のような…強烈な日差しにね!!…
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