哲学者九鬼周造には「粋の構造」などとともにお気に入りのテーマがあった。偶然性である。偶然とは何か、①起きることもあり、起きないこともあるもの、つまり可能性はあるが必然ではない②めったに起きなければ気を引くもので③ヒョッコリと現実面に顔を出して廻り合うものであると言う。九鬼周造と同じく偶然性に不思議な魅力を感じていたのが、カール・グスタフ・ユングである。ユングの場合、なりたい自分になる個性化のプロセスのなかで、ここぞと言う時に、個人の人生にとって意味のある偶然の一致がよく起きるという。いわゆる共時性である。いくつかの事件が同時に起こって、その人にとって意味のある結びつきが感じられることを共時性と言う。日本では明恵上人がしばしばこの共時性を経験し、観想していたらしい。
実はこの明恵が日頃親しんでいた華厳経に面白い発想がある。事法界と理法界である。事法界は日頃私たちが接している物事が区別された世界。それに対して理法界はそれらの区別は仮のもので実は無差別であるような世界である。理法界の理の働きが、あらゆる形を取って事法界に立ち現われている。だから両者は別物ではないのだという。区別された世界を裏から見れば、全てが全てと持ちつ持たれつで繋がっている。だから華厳経の世界は融通無碍で万物照応の世界である。あらゆるものが理の働きで繋がっているのだから、意味のある偶然も数々起きる。
この考えを借りれば、九鬼周造やユングのこだわった偶然や共時性がよくわかる。現実の背後には現実の予備軍が勢いよく川のように流れていて、それが機が熟すとヒョッコリと現実面に形を取って吹き上げてくるのだ。そのことに気づいていた九鬼とユングは、奇妙にもデモーニッシュ(魔的)な人物だった。九鬼周造は随筆の中で、自分の名字にはデーモン(鬼)が刻まれていて、それが自分の宿命に思えてならないと言っている。自分には当たり前の世界をはみ出してしまう猟奇的な性質が染みついていて未だに抜けない、まるでゲーテのファウストのような人間なんだと九鬼は告白している。ユングもまたファウストに自分の影を見出し、危険な無意識と対話して生きてきた魔的な人物であった。ユングは牧師である父と訣別し、自分の無意識の望むものにふさわしい形を錬金術やグノーシス派の宗教に見出した勇気ある探究者だった。九鬼に鬼が刻まれていたように、ユングにもファウストの誘惑が生涯付いて回ったのである。