超人日記・俳句

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#俳句・川柳ブログ 

<span itemprop="headline">ブルース・フィンク、ラカンの残影</span>

2008-11-19 06:47:55 | 無題

アメリカの精神分析家ブルース・フィンクの「ラカン派精神分析入門」を読んだ。フィンクに興味を持ったのはある心理学の先生がジャック・ラカンの「エクリ」の読みやすい英訳が出た、その訳者がブルース・フィンクだと話したからである。「ラカン派精神分析入門」はよくあるラカンの「思想」の解説書と違って、必要以上に難しくないところに好感が持てる。フィンクはかなり、臨床的な立場から書いている。どうすればラカンの意にかなう仕方で分析家が相談者を問題解決に至らせるかがテーマになっている。言わばラカン派分析虎の巻である。
本書は神経症の患者を主な相談者として扱っている。相談者は具体的な症状に悩まされているが、相談者は自分でも知らずに症状によって満足を得ているという。相談者は満足を持続したまま症状を和らげたいだけであり、自分は何を望んでいるかなどを気に掛けないことが多い。相談者は意志が弱く気まぐれである。それに対して分析家は分析のセッションを続けるという自分の欲望を飽くまで言い聞かせなければならない。相談者は身の回りで起きた他愛のない出来事や、文学作品について止めどなく話をする。それに対して分析家は必要に応じて話を変えたり、その日のセッションを打ち切ったりする。
セッションを途中で打ち切るのはラカン派の技法のひとつである。相談者が自分の過去について本質的なことを言ったり、言い間違いなどで本音を漏らしたときに、それを本人に深く考えさせるために、唐突にセッションを打ち切るのである。言い間違いや言い損ない、白昼夢や夢から相談者の無意識に目を向けさせ無意識の真意を考えさせるのである。だからセッションで真に権威を持つのは、相談者の無意識だとさえ言われる。セッションの分析の主体は相談者なのである。
神経症の人は欲望が抑圧されている。本人の欲望は両親を始めとする《他者》の欲望をなぞっている。神経症者にとって外傷的で、固着の対象である《他者》の欲望に相談者の目を向けさせることが分析家の仕事である。過去に本来の望みは手荒く断たれ、その代り両親等が良しとするものに欲望を切り替えた。その精神的な去勢と折り合いをつけるのがフロイトの終着点だった。ラカンは精神的な去勢を乗り越えて、最終的に相談者がエロスの享楽を自ら享受することを目指していた。そのようなラカン派の、相談者への扱いは、時には非情で過酷に見える。相談者の意識に活を入れるラカン派の技法は、宗教者の弟子への働きかけを思わせる。



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