文化の古い形が残っている、オーストラリアとニューギニア先住民の神話の特徴を、この「原始神話学」で、レヴィ=ブリュルはとらえようとする。ギリシャ神話と違って、ここでは目立つ神や女神は活躍せず、神話は秩序だっていない。ここには神話同士の矛盾に無関心でさえある。
「融即律」と矛盾についての無関心が、原始的な心性の特徴だとレヴィ=ブリュルは言う。融即律とは、「別個のものを区別せず同一化して結合してしまう、心の原理」のことである。たとえば、トーテミズムでカンガルーをトーテムとする人物が、「私はカンガルーです」と言うようなとき、人間とカンガルーという別の区別にあるものが、直に同一のものととらえられている。これを融即律と言い、原始的な思考の特徴だとする。この考えは納得する点も多いが、レヴィ=ストロースのような、現代に近い人類学者は、別個のものを同一化することは現代人にもあるし、特に原始的思考特有のものと言うまでもない、と批判している。原始社会の神話が論理を欠いている、というのもレヴィ=ストロースは批判している。神話は全体として見ると、ひじょうに高度な論理を持っている、ただ、扱っているものが「あり合わせ」の、具体性の論理なのだ、と言っている。
それにもかかわらず、レヴィ=ブリュルの神話学が面白いのは、出てくる神話の具体例が、ひじょうに興味深いというのがある。ニューギニアでは、祖先の神話を「デマ」という呼び名で表している。この祖先の神話から、呪文、祭り、伝承が生まれたとされる。また、オーストラリア人は、遠い先祖のことを「ブガリ」と言うが、この言葉は、夢も差す。先祖の時代は、夢や神話やしるしを通して、何かを教えてくれるという。ニューギニアのセンタニ湖畔で先祖の時に当たる事柄をウアロボと呼び、通俗的な事柄を、プジャカラと呼ぶ。オーストラリアの夢の時、ブガリとニューギニアのセンタニのウアロボという聖なる時空は似ている。現実の背後に見えない先祖の時空があって、今を生きる人たちに何かを教えてくれるとする。
また、カンガルーや蛇などのトーテムは、そのトーテムを持つ人物の神話的祖先である英雄が旅して、何か偉業を行った場所と結びついていて、このような場所をトーテム・センターと呼ぶ。トーテム信仰は具体的な土地と結びついた、地縁的なものだとわかる。オーストラリアやパプア人の神話では、偉大な祖先または英雄を同時に人間であり、動物でもあると考えている。すべての土地や動植物は物語を持ち、神話的由来を持っている。神話的人物である文化英雄、創造者は、半分ひと、半分動物で、呪力を備えている。ひとは、その神話的な時や先祖の力と、夢や祭りや言い伝えで交流することができる。また、夢の時ブガリやアルチェラの祖先が宿り、お守りチュリンガのなかに留まっている。神話的祖先であるココナッツやカンガルーは、現在でも場合によっては人間化する能力があると信じられている。神話を口で唱えるのは、祖先の力を引き戻す行動である。また、祖先を呼び出すために、夢の時の再現劇を上演する。彼らが神話を再現するのは、「祖先がそれを命じるから」である。
真似ることによって人は神話的英雄と同一化できるとされる。完全に模倣することで祖先と「私」は同一化する。模倣によって、そのモデルと同一化し、よき前例と同様に成功するという信仰は、オーストラリアやニューギニアだけでなく、北米の先住民にも見られる。一般に何か異様なものが現れると、超自然の祖先の世界が現実の流れに介入し、干渉すると考えられる。呪術師が治療をするときも、祖先のまじないが手を貸して、治療を成功させるとされる。このように、祖先の模倣は、神話的時空との同一化を招き、よき先例に倣うことで物事が成就する、と先住民は考える。
このように、レヴィ=ブリュルの「原始神話学」は、ひじょうに具体例が豊富で、納得できる内容となっていて、今でも有益だと言える。
神話的祖先の次元「夢の時」ブガリが人の今に手を貸す
「融即律」と矛盾についての無関心が、原始的な心性の特徴だとレヴィ=ブリュルは言う。融即律とは、「別個のものを区別せず同一化して結合してしまう、心の原理」のことである。たとえば、トーテミズムでカンガルーをトーテムとする人物が、「私はカンガルーです」と言うようなとき、人間とカンガルーという別の区別にあるものが、直に同一のものととらえられている。これを融即律と言い、原始的な思考の特徴だとする。この考えは納得する点も多いが、レヴィ=ストロースのような、現代に近い人類学者は、別個のものを同一化することは現代人にもあるし、特に原始的思考特有のものと言うまでもない、と批判している。原始社会の神話が論理を欠いている、というのもレヴィ=ストロースは批判している。神話は全体として見ると、ひじょうに高度な論理を持っている、ただ、扱っているものが「あり合わせ」の、具体性の論理なのだ、と言っている。
それにもかかわらず、レヴィ=ブリュルの神話学が面白いのは、出てくる神話の具体例が、ひじょうに興味深いというのがある。ニューギニアでは、祖先の神話を「デマ」という呼び名で表している。この祖先の神話から、呪文、祭り、伝承が生まれたとされる。また、オーストラリア人は、遠い先祖のことを「ブガリ」と言うが、この言葉は、夢も差す。先祖の時代は、夢や神話やしるしを通して、何かを教えてくれるという。ニューギニアのセンタニ湖畔で先祖の時に当たる事柄をウアロボと呼び、通俗的な事柄を、プジャカラと呼ぶ。オーストラリアの夢の時、ブガリとニューギニアのセンタニのウアロボという聖なる時空は似ている。現実の背後に見えない先祖の時空があって、今を生きる人たちに何かを教えてくれるとする。
また、カンガルーや蛇などのトーテムは、そのトーテムを持つ人物の神話的祖先である英雄が旅して、何か偉業を行った場所と結びついていて、このような場所をトーテム・センターと呼ぶ。トーテム信仰は具体的な土地と結びついた、地縁的なものだとわかる。オーストラリアやパプア人の神話では、偉大な祖先または英雄を同時に人間であり、動物でもあると考えている。すべての土地や動植物は物語を持ち、神話的由来を持っている。神話的人物である文化英雄、創造者は、半分ひと、半分動物で、呪力を備えている。ひとは、その神話的な時や先祖の力と、夢や祭りや言い伝えで交流することができる。また、夢の時ブガリやアルチェラの祖先が宿り、お守りチュリンガのなかに留まっている。神話的祖先であるココナッツやカンガルーは、現在でも場合によっては人間化する能力があると信じられている。神話を口で唱えるのは、祖先の力を引き戻す行動である。また、祖先を呼び出すために、夢の時の再現劇を上演する。彼らが神話を再現するのは、「祖先がそれを命じるから」である。
真似ることによって人は神話的英雄と同一化できるとされる。完全に模倣することで祖先と「私」は同一化する。模倣によって、そのモデルと同一化し、よき前例と同様に成功するという信仰は、オーストラリアやニューギニアだけでなく、北米の先住民にも見られる。一般に何か異様なものが現れると、超自然の祖先の世界が現実の流れに介入し、干渉すると考えられる。呪術師が治療をするときも、祖先のまじないが手を貸して、治療を成功させるとされる。このように、祖先の模倣は、神話的時空との同一化を招き、よき先例に倣うことで物事が成就する、と先住民は考える。
このように、レヴィ=ブリュルの「原始神話学」は、ひじょうに具体例が豊富で、納得できる内容となっていて、今でも有益だと言える。
神話的祖先の次元「夢の時」ブガリが人の今に手を貸す